わたしは日本に生まれ育った。日本で就職をし8年間働いた後、30歳で渡米し、40歳までの10年間を米国で過ごした。
米国生活を経て、インドに移った2005年から2006年にかけての移住当初、予想外のカルチャーショックに見舞われた。それは、「インドに関わる日本人の、インド人に対する見方」であった。
インド人を十把一絡げで見下す人たちの多さ。日本人である自分たちが「優れた人間である」と信じて疑わない人の多さ。それは米国では経験したことのなかった類いの出来事だった。
この件については、これまで何度、書き始めては消してきたかしれない。実は今日だって、延々と書いた文章を、しかし読み返して削除した。書き始めると、どうにも熱が入り過ぎていけない。「何を偉そうに」という文脈になるばかりである。
この問題はあまりにも根が深く、まだ首尾よくまとめられるだけの自信が、実はまだない。
前置きが長くなった。
ムンバイに暮らし始めたのを機に、日本人のムンバイ在住者のブログを探した。いくつか見つかり、気になるブログはブックマークをつけた。その一つに、ムンバイで働く日本人女性、アイさんのブログがある。
数日前、書かれていた記録にたいへん感銘を受けた。アイさんの了承を得て、ここに転載させていただく。
●のんきなインドの文化(June 28, 2008)
先日、会社で半期に一度のパフォーマンス評価があった。上司が部下と面接して、一緒に働いている数人のスタッフからのフィードバックと自己評価のデータをもとに、仕事のパフォーマンスを評価して、今後の改善点などを話し合うイベントである。いちおう、この評価が昇進や昇給・ボーナスの額にも反映されたりする。
私は前の上司にも、今の上司にも、「困ったときに、もっとすぐ人に相談しなさい」と同じことを指摘された。そうでないと大丈夫だと思ってほうっておくし、ストレスを溜め込んでいても気づけない、だから心配される前に自分からアプローチしてきなさい、という。
同じことを違う人から二度続けて言われたら、これは明らかに私の性格上のパーマネントな問題である。私は相談が下手で、行き詰ると自分の殻に閉じこもる傾向があるのだ。鋭い指摘である。
一方で、これにはインドの文化的背景も関係している。Mark Tullyというノンフィクション作家が著書 “India’s Unending Journey” の中で指摘していることだが、「インド文化は話し合いの文化」なのである。チャイ屋や電車や街角で人々を観察していると、人々はどこでも誰とでもなんだかんだと議論しあっているのを目にする。
とりあえず人に話す。困ったら尋ねる。文句があったら言う。それでその場に居合わせた数人でわいわいと議論して解決するのである。だからインド人から見ると、他人に自分の問題を持ち込んだら迷惑をかけるんじゃないかとか、そういう余計な気遣いが見ていて歯がゆいのかもしれない。
「もっと人に助けを求めなきゃだめじゃないか」
とクチをすっぱくしていわれる。Mark Tullyはこの「話し合いの文化」こそが、多宗教、多民族、多文化が混在し妥協しあいながらインドがひとつの国として成立していることの秘訣であると書いている。いわれてみればそんな気がしてくる。
ところで、その話の続きで上司がなかなか興味深いアドバイスをしてくれた。インドと日本では文化がかなりちがう。インドでは、事が起こってから考え始める。君もそれをうまく利用したらいい、というのである。
「君は日本で、何かが起こる前に前もって計画を立てて事に備えて行動する、というのが当たり前の文化で育っているけれども、インドはそういう文化じゃない。インドでは、人は何かが起こってから考え始める。だから、予定に入ってないから来週会った時まで待って相談しよう、と思わないで、いつでも思いついたときにすぐ問題を持ち込んでくるようにしなさい。」
と彼は言った。これを聞いて、うーん、なるほど、と思わず唸ってしまった。かなり含蓄ある話である。こういう比較文化的な観点から物事を見直してみると、いろんなことが腑に落ちてくる。単にずぼらだと思っていた人々の性格も、見ようによっては合理的なものに思えてくる。
考えてみれば、1年かけて完璧な計画を立ててから実行に移すのと、1日も考えずに実行に移して、問題にぶつかったら軌道修正して、1年かけてまともなものに改善していくのとで、一年後の成果にどう差がつくのだろうか。
場合によっては、最初はかなりの不備があって人から苦情なんかが出たとしても、うまくやれば後者のほうが世の中の動きにあったいいものができるかもしれない。どちらがどうとは簡単にはいえない。
インドに住んでいると、日本人や韓国人、台湾人のビジネスマンに会って話を聞く機会が何度となくあるのだが、彼らはインド人のビジネス能力を低く評価している。「インド人は怠け者だ」とはっきり言う人もいる。このような日本の優秀なビジネスマンは、自分たちのビジネスのやり方が “正解” でありインドはまだそのレベルに至っていない、と信じているように見受けられる。
しかし、こういった評価はフェアではない。そういうことじゃないのである。やり方が違うだけなのである。ただこの「そういうことじゃないんだけどな」というセンスをわかってもらうのは至難の業だ。伝わる人はそんなこと最初から知っているし、伝わらない人には、ただ単にわからない。
いずれにしても、日本とインドの間で仕事をしている人たちは、この2国の文化と国民性の大きな隔たりをひしひしと感じているから、「一家言」を持っている人がけっこういるものである。そういえば、職場の先輩の日本人は「日本人は失敗から学ぶが、インド人は成功から学ぶ。」という格言を持っていた。のんきだ。
どっちがより効果的か?それは長期的に見ればわかりません。しかし、どっちがよりハッピーかといえば、これはもう比較のしようがない。
引用元:i's blog
インドは、他のどの国に比しても、その多様性において桁違いの幅広さ、深さがある。人口は十億人を超え、言語、宗教、階級、コミュニティ、地方と、「人の傾向」を分類する尺度が複雑に入り組んでいる。
たとえば日本が単調な色合いの薄い布だとしたら、インドは、さまざまに異なる色の糸で複雑に編み上げられた、どっしりと厚い一枚の布のようでもある。
この布の色を、ひとことでは言い当てることは、誰にもできない。
そのことを理解せずに、自分が見た「オレンジの糸」や「黄色の糸」だけについてを、まるでインド布すべてのように語っていいものだろうか?
更には、日本の、自国の単調な布の方が美しい、優れていると断定するのはどういう心理か。そこに普遍の価値観など、ありはしないのに。
確かに、インドには問題が山積している。不都合な事象に満ちあふれている。だからといって、卑下されてしかるべきなのか?
日本はそんなに優れているのか? 日本はそんなに、夢のように快適で過ごしやすい国なのか? みんなが笑顔でにこにこ幸せな国なのか? そして日本人は、そんなにも優秀なのか?
たやすく他国人を見下す人々は、日本の「おかしさ」に気づいていない。日本人の在り方の特殊性に気づいていない。日本だって、日本人だって、他国人からしてみれば、十分に「奇妙」なのに!
世界中を飛び回って仕事をすることが、すなわちグローバルなビジネススタイルではない。マイレージを山ほど貯めることが、コスモポリタンな生き方ではない。渡航した国々の数が、異文化理解の度合いに比例しているわけではない。
海外に何十年住もうとも、日本の価値観に固執する人もいれば、1カ月の滞在で、その国の文化を飲み込んでいる人もいる。アイさんも綴っている通り、しかしこのようなことは、わかっている人には説明するまでもなく、わからない人にはなかなかわかってもらえないのだ。
「そりゃないでしょ?」
と思わずにはいられない、日本のインド関連書の記述や、インド在住日本人の言葉に接するたび、この二国間の問題にとどまらぬ、国々の関係と人々の心理について、思いを馳せずにいられない。が、やはりそれを、言葉にするのは難しい。
なにしろ身内がインド人とあっては、必要以上に感情移入してしまい、気を付けていても、ついつい客観性を損なってしまいがちなのだ。
アイさんは、ご自身のとても現実的な経験をもとに、ストレートな視点から、エッセイをまとめていらっしゃる。読む人の心にも、共感をもって理解してもらえる内容ではないかと感じ、転載させていただくことをお願いした次第だ。
翻ってわたしの本日のコメントは、アイさんの文章の主旨からは大きく飛躍していて、抑えているつもりが読み直せばどうにも攻撃的である。ちょっとハートに火がついてしまった。引火したついでに、かつて記した関連性のある記録をピックアップした。
暑苦しい内容だが、改めてご一読いただければと思う。