夫の弁当を詰めるために、二人の夕餉のために、朝な夕な、キッチンに立つ。
移住直後の一時期、使用人が料理を作っていたころを除いては、今まで久しく繰り返して来たことなのに、ムンバイ宅のキッチンでは、どうしてこうも、懐かしい感じがするのだろう。
無性にワインを飲みたくなるのだろう。
それはいつものことだろう。
……と、思い当たった。
それは、窓からの景色のせいであると。
バンガロール宅のキッチンには、窓はあるものの「あかり取り」の目的で、そこから景色は眺められない。
しかし、ムンバイ宅のこのキッチンからは、遠くに近くに、家庭の窓々が見える。
ビルの谷間にアラビア海が見える。
舞い飛ぶカラスが見える。
曇天の隙間からこぼれ落ちる日差しが見える。
ご近所のキッチンからは、時折の、圧力釜のシューッと勇ましく、夕餉の香りを含んだ音が届く。
2001年7月に、インドで結婚をした。それでもわたしはニューヨークを離れられず、ワシントンDCに暮らす夫と互いに行き来する二重生活を送っていた。
9月11日の同時多発テロのあと、友人の病の知らせのあと、かつてなく心乱れる中で、人生の優先順位を大きく変更した。
もう、十分一人で好きにやって来たのだから、これからは夫と一緒に過ごす時間を大切にしようと思った。新しい年が明けてまもなく、ワシントンDCに移った。仕事を大幅に減らし、半ば専業主婦のような日々が始まった。
もう、あくせくと働くこともない。会社の売り上げも、銀行の残高も、自分に給料が払えるかどうかも、気にしなくていい。クライアントからの小切手が届かないのを、やきもきとしながら待つこともない。
仕事はほどほどに、自分の好きなことをしていいのだ。願ってもいなかった、理想的な環境だったにもかかわらず、しかし胸中は、がらんとしてた。
かつてなく、無為だと思える時間を過ごした。今思えば、それは決して無為ではなかったのだが、そのときは、そうとしか思えなかった。
料理を、しっかりと作った。病と闘う身近な人たちを思うとき、食事は、日頃から自分で手を打つことができるところの、基本的な健康管理だと思った。
ときには菓子やパンを焼いた。夫の好きなエクレアやアップルタルトやブレッドプディングを焼いた。部屋中が、小麦粉と砂糖とバターのこんがりと香ばしい匂いに包まれるとき、とても幸せなように思えた。
その一方で、日々。包丁で野菜を切りながら、粉を懸命に捏ねながら、タマネギをしみじみと炒めながら、たいていはひんやりと、無心でもあった。
オープンキッチンからは、リヴィングルーム越しに、樹々に抱かれたワシントンDCの街が見下ろせた。夕映えの大聖堂。大使館通り。季節の移ろいを、静かに眺められた。
春は桜にハナミズキの、白のピンクの。
愛らしくも痛ましきは、Bleeding Heartという名の花。
初夏の新緑、淡く瑞々しくて、バラのツツジのあでやかに開き。
真夏の空蝉、入道雲の白のまばゆさ。
秋は赤く黄色く樹々の染まりて、パンプキンのオレンジは軒先を彩り。
冬の雪に深く埋もれ、長く冷たく、春は彼方に。
春や秋の、休日の午後は、夫と近所を散歩した。
それはそれは平穏で麗しく、これではまるで老夫婦だとも思った。
しんみりするには、まだわたしたちは、若すぎる。
やがて、友が亡くなり、父が亡くなった。
夕暮れのカセドラル(大聖堂)へ足を運び、片隅で祈れる日々も昔日。
ぐるぐると渦巻きながら沈んでいく夕陽も、カセドラルの鐘の音も、麗しい鳥の声も、もう十分だと思った。
美しすぎても、それはそれで、遣りきれないのだ。贅沢なことをと言う勿れ。
そんな日々のことを、今日のキッチンで、久しぶりに思い出し、包丁の手を休め、鈍色のアラビア海を見つめた。巡る四季を離れて久しく懐かしく、思い出された。
ワシントンDC時代の「片隅の風景」から、いくつかの景色を拾い集めた。
こんなところから、わざわざインドに来て。なんと奇妙な遍歴であろう。わざわざインドに来たんだから、「来た甲斐」を、育まなければと思いつつ。この国の、わたしはまだまだ「序の口」にいる。
東西南北の人は未だ、うろうろを続けながら。
なにを探しているのやら。