「今週のムンバイは、ひときわ蒸し暑いから、半袖のシャツを多めに持って来た方がいいよ」
木曜の夜、アルヴィンドが電話でそう言った時、うっかり、
「ああ、バンガロールを離れたくないなぁ」
と本音を口にしたところ、
「ああ、そうですか。わかりました。それならば、来世でお会いしましょう」
と、ふてくされられてしまった。
来世ですか。そりゃまた、なんと大仰な。
とはいえ、妻たるもの、夫に会うためなら、「たとえ火のなか水のなか」な意気込みを見せねばならないのだった。
思えば我々の二都市生活。なにも今に始まったことではない。結婚前はニューヨークとフィラデルフィア間で2年間。更にはニューヨークとワシントンDCでやはり2年近く。
途中で結婚したが、それでもわたしがニューヨークから離れられず「遠距離結婚」状態だったのを、9/11を機に同居したのだった。あれから6年ほどもずっと一緒にいたのかと思うと、それはそれで、長い気がする。世間ではそれが普通なのだろうけれど。
ところで数日前、庭を歩きながら、この12年間に行った「家探し」もしくは「転居」を指折り数えてみた。
1. ニューヨークに移住当初、ホームステイ先からアッパーウエストサイドのアパートメント。
2. アルヴィンドと出会い、自分の家を確保しつつも彼の住む高級アパートメント(14N号室)に居候。
3. 二人で同じアパートメントビルディングの別の部屋 (11M号室)に引っ越し。「同棲」開始。
4. アルヴィンド、MBA (ビジネススクール)に行くためフィルデルフィアの物件探し。引っ越し。
5. わたしはニューヨークに一人暮らしとなるが、家賃の都合上、狭い部屋 (18C号室)に引っ越し。
6. アルヴィンド、夏休みの仕事のためニューヨーク郊外のウエストポートに2カ月間暮らすための家探し。
7. アルヴィンド、MBA卒業後、ワシントンDC郊外のボルストンにアパートメントに引っ越し。
8. 結婚、9/11以降、二人で同居するための物件をワシントンDCで探す。引っ越し。
9. インド移住前、半年間のカリフォルニア生活のため、ベイエリアで物件探し。引っ越し。
10. バンガロールに移住。アパートメントを借りるべく物件探し。引っ越し。
11. バンガロールに新居を購入。新築工事などを経て、引っ越し。
12. ムンバイにもアパートメントを借りるべく、物件探し。二都市生活開始。
とまあ、振り返ればちょうど12回。均等に振り分ければ1年に1度、移転騒ぎをやっていることとなり、なんという流浪ぶりであろうかと我がことながら呆れる。
特に結婚前。当たり前だがすべて「割り勘」な付き合いだったにも関わらず、わたしはどれほどエネルギーを降り注いで彼の移転に尽力したであろうか。そうして、二都市間を、何度となく行き来したことだろう。
「二人の関係維持費」の、なんと高かったこと。投資した分、仲良くせねばもったいというものである。
ところで、わたしは幼少時より、日本の一般的な女子に比して「独立独行型」で、一人でいることが苦にならないし、むしろ一人でいることが好きだった。東京時代、3カ月もの間、一人で欧州を放浪し、ほとんど誰とも話さずに歳月を過ごせたのも、そういう性格だからこそだといえる。
つまりは、いくら好きな相手だからとはいえ、粘着的に会わなくてもOKではあるのだが(正確に言えば、会いたくても会えなければ、それはそれで我慢できるし、我慢しようと思う)、アルヴィンドが寂しがりやだった。それを隠さなかった。
出会った当初は、なんと本能のままに感情を表現する男であろうかと呆気にとられた。
少しは「オレは大丈夫だから」くらいのことは言えんのか、とも思った。
当時のわたしは、彼のその性質を「素直な甘えん坊」という概念でとらえ、彼の性格だと判断していた。7つも年下だから我慢もできるが、これが年上だったら気持ち悪いな、とすら思っていた。
しかしインドに暮らし始めてから、その見方が変わった。しばしば人と会う。共に過ごす。語り合う。一概には定義できない多様性の国とはいえ、そこにインドの「国民性」を見いだすようになった。
家族や親戚と頻繁に会い、一緒に過ごすのは当然のことである。週に一度は実家に電話をする。兄弟とも連絡を取り合う。相談に乗ってもらう。弱みをみせることに抵抗がない。
お互いに助け合いながら、案じ合いながら、生きていく。以前は「干渉されたくない」「一人でいたい」と考える傾向が人一倍強かったわたしなのだが、歳を重ねるとともに軟化したのだろうか。
そこに温もりを感じるようになって久しい。わたしもインドに影響されて、知らずのうちに、変化しているようだ。
アルヴィンドが、もしも
「オレ、一人でも大丈夫だからさ」
「美穂の好きにしなよ」
なんてことを言う男だったら、わたしたちは、1年と続いていなかったかもしれない。ちょっと、言われてみたいけど。
そんな次第で、金曜の午後ムンバイに到着。ここに自分たちの家があると思うと、空港から家路に向かう車窓からの光景も、どことなく親密さを覚える。決してホッとする、などとは言えない光景ながら、しかしここも、わたしたちの街である。
スラムの、バラックに暮らす人が5割以上を超えるムンバイ。
随所で渋滞に出くわし、空港から自宅まで1時間半近くもかかる。
ようやく我が家の「裏」にあるTaj Presidentを通過する時、賑やかな楽団の奏でるメロディーが聞こえて来た。
見れば白馬に乗った新郎。
参列者たちが、諸手を天に向かって振り上げながら踊っている。
ホテルで結婚式が行われるのであろう。
モンスーンの時期の結婚式。季節外れの結婚式。
新郎は、きっと夏の休暇にしか式を挙げる時間がとれなかった、海外在住のインド人かもしれない。わたしたちがそうであったように。
そして土曜日。すっかり落ち付いたムンバイ宅で、のんびりと過ごす一日。昼間からワインをあけて、バンガロール宅から持参したDVDを鑑賞する。
まだ、壁に飾る絵もなく、インテリアも最小限で、なにやらガランとしているけれど、それでも必要なものはほとんど調って、本当に一安心。
驚いたことに、国営電話会社であるところのMTNLによるインターネットの接続も速やかに完了していた。
しかも、バンガロール宅のAIRTELよりもハイスピードだ。値段も安いらしい。
ただ国営電話会社らしいのが、たとえば長距離電話をかけるときには暗証番号を入力せねばならないこと。
使用人が無断で電話をかけるのを防ぐのが目的らしい。
我が家のメイド、ジャヤは不在時もきちんと家事をこなしていてくれた。さほどの問題なく、部屋はきれいに片付いていて安心した。
バンガロール宅から、写真立てや小物などを連れて来た。窓の向こうに見えるのは、ムンバイのワールドトレードセンター。写真の中には、遠い日のマンハッタン。この小さな像は、バンガロールのアンティークショップで見つけたインド製「なんちゃって自由の女神像」。