ムンバイ宅の窓からのぞむタージマハル・パレスのクーポラ。今回のテロは、自宅から半径3キロの地区で発生した。
わたしの、インドに対する思いは、自分でもうまく説明できないほど複雑で、混沌としている。夫となった人がたまたまインド人であったというだけで、それまでは特に思い入れのなかった国。その国で、自分の結婚式を挙げ、やがては暮らすこととなった。
不便や不自由は少なくない。問題は、数えきれないほどあって、しばしば途方に暮れる。けれど今日一日、インドからは遠く離れた場所で、テロにまつわるさまざまなニュースを見聞きして、思った。
わたしはどんなに、インドに住んでいることを大切に思っているかということを。インドという国に対して、深い愛着を抱いているかということを。
崩れ落ちるワールドトレードセンターを眺めたときと同じように、燃えあがるタージマハル・パレスの様子を見ながら、本当にもう、堪らぬ思いだ。
わたしたちは、あのときニューヨークとワシントンDCの二都市に暮らしていた。たまたま二人一緒にワシントンDC宅にいるときに、テロは起こった。
自宅の窓から、ペンタゴンからもうもうと立ちこめる黒煙を目の当たりにしたときの衝撃。1週間後にニューヨークへ戻り、自宅の屋上から、ロウアーマンハッタンをのぞみ、ワールドトレードセンターあたりから煙がたなびくのを見たときの遣る瀬なさ。
そして今度はムンバイ。人類誕生の歴史と同時に始まった諍いが、戦争が、消えてなくなるとは思っていはいないのだが、しかし。
このサイトの久しい読者であれば、わたしがたびたび、ムンバイのホテル、タージマハル・パレス(THE TAJ MAHAL PALACE)のことを記して来たことをご存知であろう。
実は今回、日本へ出発する前日、ムンバイを訪れていたバンガロール在住の日本人駐在員とその同僚と会っていた。待ち合わせの場所は、迷わずタージマハル・パレスを選んだ。
まるで自分の住まいのように、彼らを二人を案内したのだった。
取材で、プライヴェートで、これまで無数のホテルに泊まって来た。安宿から高級ホテルまで、さまざまのホテルに。ここよりも、もっと快適なホテルはたくさんあるし、ゴージャスなホテルはたくさんある。
しかし、わたしはこのタージマハル・パレスに、最も愛着を覚えている。自分でもその理由はわからないが、このホテルに連なる歴史や、独特の雰囲気に、引きつけられる。
米国在住時、夫の出張に伴って初めてムンバイを訪れ、このホテルに泊まったときから、わたしにとってここは、特別な存在であった。
■4年前の、タージマハル・パレス(←文字をクリック)
■このサイトに記したタージマハル・パレス関連の記事(←文字をクリック)
燃え上がるこのホテルを眺めるインドの人々の思いは、燃え上がるワールドトレードセンターを眺めるアメリカの人々の思いと、通じ合うものがあるかもしれない。
タージだけではない。オベロイ(トライデント)にもまた、移住前の数カ月をここに住まい、愛着のある場所であった。
どちらのホテルをも、わたしにとってはインド生活のオアシスのような場所で、訪れるたびに、心底リラックスしたものだ。
しかし、ここで多くの人が血を流した以上、もう、今までのホテルでは、なくなってしまった。
今朝、アルヴィンドがムンバイの部下とメールでやりとりをしていた。夕べ、遅くまで仕事をしていた彼は、オフィスがオベロイ(トライデントホテル)のそばであることから、ビルディングが封鎖され、外へ出ることができず、オフィスで夜を明かしたらしい。
南ムンバイのコラバで開催されていたカンファレンスに参加するためバンガロールからムンバイを訪れていた義兄のラグヴァンは、事件の数時間前にムンバイを離れていた。今のところ、身近な人々で被害に遭った人はいない様子だ。
少なくともわたしたちにとっては、直接の問題はない。しかし、自分たちが問題なければよいという問題では、当たり前だが、ない。
未だ、オベロイ、トライデントホテルに隣接する夫のオフィス周辺は、厳戒態勢で事態は収束してはいない。彼は土曜日にインドに戻る予定だったが、月曜に出勤できるとは思えない。従っては数日、帰国を遅らせる予定だ。わたしは木曜日に戻る。
あれこれと綴りたいことが尽きぬが、なにしろ「京都紅葉巡り旅」の途中である。そんな京都旅も明日で終わり。今日は「勘」が冴えず、まずい店でまずい夕飯を食べてしまった。こんなこともあるだろう。
「デパ地下」で、アルヴィンドが買っておいた菓子がおいしかったのが救いだった。
この二日間の旅の出来事は、後日改めて、記録を残したいと思う。