ガラスの窓に激突したのが原因で、右目を傷めたために手術をし、今、ムンバイの実家で療養中だというジェイから先週末、電話があった。再会を約束して今日、久しぶりに会った。
本当はRoyal Chinaで本気チャイニーズな夕食をとる予定だったが、アルヴィンドが予約を入れ忘れていて、気がつけばときすでに遅く満席。従っては我が家の裏、TAJ PRESIDENT HOTELの、毎度おなじみタイ料理店Thai Pavilionで待ち合わせる。
ガラス窓に激突したとき、直接目を傷めたわけではなかったらしいが、数日後から視界がぼやけてゆき、眼科に行ったところ、眼球の位置がずれた(!)とかなんとかで、手術となったらしい。今はぼんやりと見えている状態だとのこと。
最近インドで、この手の話をよく聞く。ガラスといえば、たいてい薄汚れているインドにあって、昨今増え始めている、きれいに透き通ったショーウインドーやドア。そんなガラスの存在はないも同然、ついつい激突してしまう人が多いようである。気をつけねばなるまい。
ところでジェイとは、去年、アルヴィンドに伴って訪れたWHARTON (MBA) 卒業生の会合(←文字をクリック)で出会って以来、何度か顔を合わせている。思えば先だってのカヴィタやマニーシュも、あのときに初めて会ったのだった。
ジェイはムンバイ出身のインド人男性。そもそもはミュージシャンだった彼は、日本へも公演などで何度か訪れたことがある親日派だ。今でも仕事の関係で、年に一度は日本を訪れているという。
父親の他界を機に、将来の方針を考えていたとき、米国に住んでいるお兄さんからWHARTONに進みMBAを取得することを勧められたという。お兄さんもまた、WHARTONの卒業生で、米国で仕事をしているのだ。
これからの時代(1990年当時)、世界規模でビジネスをするにはMBAは不可欠だと言う兄の言葉に納得し、その後、入学条件に沿うべく、ムンバイのコンピュータ関連会社で3年間働き、MBAの入学資格を得て渡米したとのこと。
1996年にDELLに入社し、現在はトップエグゼクティヴとしてテキサスのオースティンを拠点に、世界数カ国の拠点を管理している。インドへのBPOを会社に提言したのは彼だとのこと。現在は、オースティンとインドの二重生活をしつつ、自分がマネジメントを任された数カ国へ出張する日々らしい。
会うたびに思うのだが、とても企業のエグゼクティブとは思えぬ身軽さと気軽さと若々しさで、楽しい人である。独身ということもあり、よりいっそう、「身軽感」があるのかもしれない。
以前、わたしの仕事の関係で彼の自宅に赴きインタヴューをさせてもらったことがあるのだが、音楽好きの彼は、防音設備の整ったスタジオで、ベースギターやインドの伝統的な打楽器の演奏を披露してくれたのだった。
■26/11。あの夜に起こったことを、あれこれと、聞く。
さて本日。ドクターストップでアルコールを飲めない彼はジュースを、わたしたちはマティーニを注文し、乾杯。夕食を味わいながれら、話は多岐に及んだが、彼から聞く先月のテロの話は、興味深かった。
メディアを通しては決して知ることのできない凄惨な話も少なくなく、ときに言葉を失い、血の気がひく思いである。
実は今朝から、来週締め切りの西日本新聞のコラム『激変するインド』を執筆しようと試みるのだが、なかなか内容がまとまらずに困っていた。
それでなくてもわずか1200字程度、原稿用紙3枚という限られた、短い原稿である。そこに、濃密なテロとその背景や、自分の経験を通してのコメントなどを凝縮するのは極めて難しい。
盛り込みたい内容をとりあえずはすべて書き出して、取捨選択の作業をしていたところだった。
そこにきて、新たな情報が加わり、それもまた書きたいがとても入らない。どうしたものだと、人の話を聞きながらも、脳裏で言葉が空転する。
今回のテロで、彼の幼なじみであり、親しい友人だったポリスオフィサーが命を落としたという。そのことにまつわる、ポリスの内幕や彼の家族のエピソードなどを聞くにつけ、政府関連機関の腐敗ぶり、無能さ、あらゆる問題点を思い知らされ、途方に暮れる。
ちなみに、このたび殉死した彼の友人とは、アショク・カムテ (Ashok Kamte)(←文字をクリック)という人物。彼の死を巡っては、国内の多くのメディアで記事になっていた。非常に優秀で、勇敢で、ジェイの言う通り、讃えられるべき人物であったことが読み取れる。
そんな数少ない優れたオフィサーが、まだ若くして(わたしと同じ43歳)落命せねばならなかったということを知るにつけ、やりきれない思いだ。
今や、高級ホテルをはじめ、多くの人が出入りする機関は、頼りにならない政府を見限り、「自己防衛策」を取るべく態勢を整えている。
空港並みのセキュリティチェックである。
とはいえ、どこもここも隙だらけ、といえば隙だらけで、完璧な防衛など不可能に思える。
テロの話は食事の前に終えて、それからはインド経済やビジネスのこれからを語り合う。
尤も、二人が込み入ったややこしい話をしているところに、わたしはわからないなりにも、疎外されたままではつまらなく、口を挟みつつ、説明をしてもらいながら、勉強させてもらいながらの会話である。
教えてもらっても、すぐに忘れてしまうのが玉に瑕だが。
そんなこんなで、午後8時にレストランに入ってから、気がつけば11時。次の予約の人があるからとウエイターに頼まれてようやく席を立った我々だった。
ちなみに週末のレストラン。11時でも店内は込み合っていて、これから夕食をと言う人たちがテーブルにつくべく、待っているのである。実に「インド的」である。
■潜入!ムンバイ24時。テロリストの足跡を追え!
食事のあと、ジェイがムンバイのナイトツアーに連れて行ってくれるという。車も少なく、人影も少ない、昼間とはまったく別人のような表情の、深夜のムンバイを、車は滑らかに走る。
我々の暮らすカフ・パレードからコラバを通過して、ナリマン・ポイントへ。途中途中の建造物について、ジェイが説明してくれる。比較的注意深く市街を観察しているわたしでも、昼間は気づくことのなかったさまざまな発見があり、面白い。
「テロリストの足跡を追う新ツアー」といいながら、ジェイがまず連れて行ってくれたのは、オベロイ・ホテル前の海辺(左上写真)。テロリストたちがゴムボートに乗って上陸したあたりだ。
今でもテロ前と変わらず、なんの防護壁もなく、開放的なことに呆れるというか、感心する。
ちなみにオベロイ・ホテルとトライデント・ホテル(旧ヒルトン・ホテル)は、経営が同一であるものの、隣接する二つの異なるホテルだ。二つのホテルは内部でつながっており、簡単に行き来できる。
今回のテロでは双方のホテルが被害を受け、しかしトライデント・ホテル側の復旧が早かったらしく、タージマハル・タワーと同様、20日の夜に営業を再開するとのことだ。右上写真は、明日の開店に向けて準備をしている様子が見られるトライデント・ホテル。
テロリストの攻撃にあった場所のひとつである映画館「メトロ・シアター」(左上写真)の前を通過し、やはり多くの死者が出た「ヴィクトリア・ステーション」(右上写真)をすり抜け、フォート地区へ。
わたしはムンバイ市街のあちこちを、すでに訪れたことがあるが、アルヴィンドはほとんど出歩いたことがなく、彼にとっては初めてみる光景ばかりである。
さすがムンバイ生まれのムンバイカーだけあり、ジェイの案内は非常に奥深い。個人的なエピソードも交え、深夜ながらも目が冴えて、夜の街が魅惑的だ。
ジェイの友人、アショクが殉死した場所、ホスピタル(写真左上)のあたりも走った。先日居住許可証を所得するために訪れたF.R.R.O.のすぐそばで、見覚えのある病院だった。
それにしても、テロ。
わずか10人のテロリストが、たっぷりの武器を、しかし身軽に携えて、タクシーを乗り継ぎながら、市街を縦横無尽に駆け抜けた様子が想像できて、その巧みな動きに驚かされる。
いかに訓練された人間たちだったか。ホテルにしても、わずか2人ずつのテロリストが、数日籠城していたという事実。このときのポリスのあまりに原始的な動きについても、ジェイはあれこれ教えてくれのだった。
一方、矛盾もある。彼らが持参していた武器をもってすれば、実際のところ、「もっと多くの人を殺せたはずだ」とジェイは言う。不謹慎ながら、それはわたしも感じていたことであった。
彼らが抱えていたAK-47をフルに使えば、死者の数はもっと増えていたのではないか。発射速度600発/分、有効射程600mと、素人目に見ても、その威力が察せられる武器である。彼らは手当たり次第殺したわけではないように思えた。
なにしろ、インドである。そこいらじゅうに、大勢の人が歩いているのだ。
一方、ナリマン・ハウスではジュイッシュの人々が、ポリスすらレポートを憚るほどの拷問が行われた上で、ひどい殺され方をしたという話を聞くにつけても、テロの根の深さに理解が及ばず、ただ、憤りを覚えるばかりである。
マンハッタンのの42丁目を思い出させるライブラリーの前を通過する。
クロフォード・マーケットの傍らを走る。
レッドライト(赤線)エリアに立つ化粧の濃い女たちを眺めながらゆく。
更にはムンバイの秋葉原ともいうべく電気街を通り抜ける。
そして市街中心部の、今度はムスリム(イスラム教徒)の住むエリアをゆく。
インドの人口10億人超。うち1割、つまり1億人以上がムスリムだ。テロリストたちはあくまでも「過激派」であり、一般のムスリムの人々には、なんら関係がない。
米国においても、9/11の直後、いったいどれほどの罪なきムスリムたちが傷つけられてきたことか。
ムスリム以外の人たちですら、犠牲になった。無知な人間が「ターバンを巻いている」というだけで、オサマ・ビン・ラディンをイメージし、シク教徒のインド人(デリカテッセンの店主)を殺害した事件もあった。
ジェイが、ムスリム地区にスイーツがおいしい店があるというので、立ち寄ることにした。すでに午前一時を回っているというのに、蛍光灯の灯りが煌煌と青白く、店頭を照らしている。
ここで俄然張り切る二人の男。あれやこれやと、味見をすること山のごとし。店の人も店の人で、気前よくどしどしと味見をさせてくれるから困ったものだ。
わたしもいくつか味見をしたが、確かに、かなりいける。特にミルキーな「ラスマライ」がフレッシュで相当においしい。ビスケットなどの「乾いた菓子」や、豆粉製のスナック(揚げ菓子)などもいける。
ジェイはお母さんのお土産に、アルヴィンドは自分に、調子に乗って相当に買い込んでいる。いくらおいしいからって、その「激甘菓子」を、いったいどうするつもりだ。
ちなみに店のサイトがあるので、以下、リンクをはっておく。店の雰囲気に比べて、かなりモダンなサイトである。プロファイルを見れば、「歴史ある名店」のようだ。
その後も「一大洗濯場」であるドービーガートやウォルリの海辺などを訪れる。ちなみにドービーガートの昼間の様子は、ここで紹介している。
そろそろ帰宅のころ。
ブリーチ・キャンディのあたりで、しかしジェイは車を停める。
夜の灯りに、眼光鋭い男たちがたむろするあたりに突き進んでいく。
すでに店を閉じて、しかしまだそこにいた髭の立派な売人と交渉する二人。
売人は、一斗缶から恭しくブツを一つ取り出す。
味見をする、夫。
「うまい。3つもらおう」
そういって札を数枚渡す。
いったい何を買っているのよ、こんな夜更けに自分たち。
ジェイ曰く、
「このおっさんが売るパーンがおいしくてね」
パーン……ですか。
パーンとは、各種スパイスをキンマの葉で包んだもの。口をさっぱりせ、消化を促進する。
ちなみにこれらは甘いMitha と呼ばれるもの。煙草を含んだものはSadaと呼ばれる、いわゆる噛み煙草だ。
たとえば食後など、インドの人々はこれをパクリと口に入れ、ガフガフと噛んで飲み込む。わたしはこれができなかったのだが、しかしここのパーンは違った。
ジェイの言う通り、旨いのだ。
驚くことに、噛み、そして飲み込めた。いや、無理して飲み込んだわけではなく、かなり自然に。
と感心する。
ちなみに右は参考写真。
パーンである。
そんなこんなですっかり夜は更けて、ジェイには自宅まで送ってもらった。
書き尽くせぬあれこれをジェイに教わった今夜。本当に楽しく、意義深い時間だった。どんなに足しげく街をゆけども、一人では知り得ないことはごまんとある。
彼が故郷で見知ってきたことは、どんなガイドブックにも記されていない、彼の一部だ。
そういう彼の経験を分かち合ってもらえたことは、本当にありがたいことである。
夜のムンバイの、昼間とは異なる姿をつぶさに見ながら、この街の歴史の深さや、その果てしない「多様性」に、改めて目が覚めるような思いがした。
未だ右目が不自由な「療養中」の身の上にも関わらず、我々につきあってくれたジェイに感謝である。