本日、約40日ぶりに、バンガロール宅に戻った。夫アルヴィンドはデリーへ1泊出張に出ており、明日バンガロールで合流する。つまりは、久しぶりに一人のんびりと過ごす夜だ。
日本からムンバイ宅に戻ったときにも、それなりにほっとしたが、バンガロール宅は、よりいっそう、ほっとさせてくれる。
バンガロール宅の「ほっ指数」を100%とするならば、ムンバイのそれは65%といったところか。毎度、メイドのプレシラと庭師一家が、丹念に手入れをしてくれていることが、ありがたい。
久方ぶりの帰宅でも、部屋の中に新鮮な空気が漂っているのは、ことのほかうれしいものである。
昨今はまたしても蒸し暑いムンバイから比すれば、バンガロールは本当に気候がいい。先ほども、ひんやりと心地のよい風を受けながら、まもなく満月の夜空を仰ぎつつ、庭をぐるぐると歩き回った。
このごろは、庭師の好みによってアレンジされている庭も、わたしたちの帰宅を前にきれいに芝生が刈られていて爽やかだ。
バンガロール宅は、ムンバイとは違って購入した物件であり、内装工事も一から行い、家財道具や身の回りの品々がある、という意味において、確かにほっとするのであるが、それよりも、「地面に接している」ということが、わたしに安心感を与えてくれる。
高層ビルディングに住まうことが苦手なことは、以前にも記したが、ムンバイではそうも言っておられず、現在17階に住んでいる。それもまた、心底くつろげない理由かもしれない。
ニューヨーク在住時代、52階だての超高層アパートメントの18階に住んでいた。摩天楼を一望する屋上からの眺めはすばらしく、たとえ狭くても、そこに住まえることをうれしく思っていたが、1998年の年末に起こった火災を機に、その思いは変化した。
これもまた、『街の灯』に記しているが、わたしが住んでいた部屋の「斜め上の部屋」が火元となり、大火災となったのだ。火災当日、吹きすさぶ寒風の中、燃えさかるアパートメントを見上げているとき、ニューヨークタイムズにインタヴューされたときの記事(←文字をクリック)は、今でもネット上に残っている。
火元は、「ホーム・アローン」の映画でおなじみ、マコーレー・カルキンの実家だった。
あの日、アルヴィンドと一緒に日本へ旅行するため、わたしは、当時フィラデルィアに住んでいた彼とフィラデルフィアで落ち合うべく、荷造りをしていた。そのとき、小さな非常ベルの音が聞こえたが、わたしはよくある故障だろうと思っていた。
ところが数分後、外からけたたましい消防車のサイレンが聞こえて来てはっとした。まさか……と思い部屋の窓を開けたら、なんと、すぐ斜め上の部屋の窓から、真っ黒い煙がもうもうと吹き出しているではないか。
よりによって、どうしてこんなに間近の部屋が火事??!!
衣類などを詰め込んでいたスーツケースに財布を投げ込み、肝心のパスポートなどは置きざったまま、部屋を飛び出した。
「災害時はしっかりとした靴を履いて避難せよ」と、どこかで聞いていた台詞が脳裏をよぎり、大急ぎでスニーカーを履いたことは覚えている。
新聞の記事にもあるとおり、スウェットパンツとスウェットシャツという着の身着のままの状態で逃げ出したわたしは、消防車や野次馬やメディアでいっぱいの路上から、自分の部屋を見上げた。氷点下の外気に震えつつも、寒さを自覚していなかった。
絶え間なく溢れだす黒煙。オレンジ色の炎が、ビルの壁を舐めるようにめらめらと広がり、それはじわじわと、自分の部屋に向かってくる。その様子を、ただ呆然と見上げることしかできなかった。
ミューズ・パブリッシングを立ち上げて1年。まだまださほどの利益もあがっていないときで、貯えもないに等しかった。火災保険など、もちろん入っていなかった。
延焼を免れたとしても、消火水でダメージを受けるに違いない。買ったばかりのコンピュータやオフィス機器も台無しだ。わたしは志半ばで日本に帰ることになるのだろうか。
氷点下の空の下、思いはぐるぐると巡った。絶望的な気分にさらされながら、しかし約10時間後に部屋に戻り、若干の水漏れ以外、たいしたダメージを受けていない部屋をみて、どれほど安心したことか。
あの日、煙にまかれて、4人の住人が亡くなった。じっと部屋で待機していれば、助かっていたかもしれないと聞かされ、本人はもちろん、家族の人々はどれほど無念であったろう。
あの火事を通しても、災害時にすべきことなどをわたしは体得したのだった。
ともあれ、あのとき、消防隊員が、「実際にはしご車で救出できるのは、10階あたりまでなんですよ」
と言った言葉が、忘れられない。なにしろ、消防隊員は、19階まで階段を駆け上がって現場に到着するのだ。これが40階、50階だったら、いくら体力のある消防隊員だって、現場到着時には疲労困憊であろう。
と、話が長くなったが、この火事の経験と、9/11の崩落するビルディングの様子が、否応なくわたしの中に刷り込まれているようで、多分高層ビルディングの中では、完全にリラックスできないのだと思う。
敢えて、危険地帯へ突入しているわけではないにしては、際どい出来事に遭遇することの多い我。今までも、かなり「際どいところで危険を免れた」経験が多い。
それをして、人はわたしに強運の持ち主だとか、幸運だとかいうけれど、真に強運だったり幸運だったりする人は、最初から際どい目には遭わぬのではないか、と思うこのごろ。
ところで昨日は、久しぶりにユカコさん&ジェイク君とランチを共にした。場所は南北に離れた互いの住まいの中間地点。ロウアーパレルのGood Earth内にあるThe Tasting Room。ここでも何度か紹介したお気に入りの店だ。
サラダとパスタを注文。サラダは美味だったし、以前食べたステーキも美味だったが、今日のクリーミーソースなスパゲティは「なんじゃこりゃ?」というできばえだった。
焼きそばの麺で作ったスパゲッティ。
と命名したいくらいに。スパゲティと思わなければそれなりにおいしい気がしたが、どう考えてもよくわからない謎の一皿だった。
ユカコさんもジェイク君も、とても元気そう。ビルは今日から数日、シンガポール出張だそうだ。転職先の仕事もとても好調のようで、本当によかった。
ちょっと見ない間にも、ジェイク君は成長していて、今回は髪の毛の色が茶色っぽく変化していた。脚力の強い子だとは思っていたが、まだ10カ月だというのに、もう数歩、歩くこともできる。
転んだら、今度はハイハイ。しかし、ハイハイというよりは足で床を蹴りながら四つ足で歩いている、という感じ。「類人猿」的なポーズで、床の上をスタタタタッと移動するのだ。おっとりとした表情とは裏腹のスピード感に思わず笑ってしまう。
ランチのあと、コーヒーを飲み、その間、ユカコさんの膝の上のジェイク君はとてもおとなしく、わたしの顔をじーっと見つめたり、パンをかじったり、眠ったりしていてくれたので、ずいぶんゆっくりと話をすることができたのだった。
そして本日。蒸し暑いムンバイを脱出して、バンガロールに向かうべく空港へ。テロリストからの攻撃が噂さされる空港は、厳戒態勢がしかれているとのことだったが、いつもと特に違いはない。
そもそもからテロが頻繁に起こっているインドでは、空港内におけるセキュリティーチェックは比較的厳しいので、これ以上、特に何かをする術はないのかもしれない。
ただ、空港の入り口界隈には、銃を構えたポリスが待機している。銃はいつでも狙撃できるよう、台の上に水平に設置されており、つまり、エントランスを利用する際には、銃口の前を通過せねばならず、それがなんだか、嫌な感じである。
チェックインをし、搭乗までの数十分間、おなじみのCafe Coffee Day(インド版スターバックス)でカフェラテを飲んでいた。
振り返れば、慌てて席を立つ客ら。
見上げれば、崩れ落ちそうな天井……。
外れたライトのフレームが、ぶらんぶらんと揺れている……。
ドリフのコントじゃないんだから。
テロに遭遇するよりも、こういうトラブルに巻き込まれる確率の方が遥かに高いに違いないのだインドでは。
客同士、顔を見合わせて苦笑する。
が、真剣に文句を言う人もいなければ、店員があわてて対処するでもなく、呑気なムード全開である。
ほどなくして、先ほどの現場を見れば、誰かが脚立にのり、たいそう「適当な感じ」で修繕している。
これだもの。
インドでは、抜本的な修繕など、しなくていいのである。
なぜなら壊れたら、また修繕すればいいからである。
モノには寿命がある。
インドではその寿命が短いだけのことである。
学ぶことの多いインド生活。
そして、その概念のまるで対極に位置するかのような、日本での生活。
バンガロール近くになったところで、無数の風車が立っているのが見えた。羽根がゆっくりと回るのが、空からでもよく見える。それは、大勢の人たちが一列に並び、こちらに向かって手を振っているようにも見える。
空港からの帰路、道路はいつもにも増して込んでいて、いつもにも増して、交通ルールがハチャメチャのように思えた。
無造作に石材を積み込んだトラックの傍らを通過する。
衝撃を受けたら石が落ちてくること請け合いである。
リスク回避のためにも、危険そうな車が近くに走っていたら、「近寄らないで」とドライヴァーに指示するのが常である。おちおちリラックスしていられないのもまた、インドである。
インドに限らず、危険は、結構身の回りにあって、それらをうまく回避しながら生き延びていくことこそ人生。テロばかりを恐れているのはあまり意味がないとすら思える日々である。