目覚めれば、快晴。スイスは全国的に、先週までは寒かったらしいが、今週に入って好天が続き、春らしい日和となっているようだ。わたしたちはいい時期に来たものだと改めて思う。
我々の2泊の宿である「トラララ・ホテル」。湖畔や駅から徒歩で15分ほどの丘の上にあり、やや町外れではあるのだが、3つ星ながらもかなり快適。
最低限の、しかし適切な設備が整っている。古い建築物がモダンなデザインに改装されていて、しかしそれが周囲の景観を損なわずに調和しているところが見事である。
すぐ近くに古い教会があり、そこからの眺めも抜群で、急な坂を上り歩いてたどりつく甲斐がある。
シンプルながらも、クロワッサンも、半熟卵も、コーヒーも、おいしい。
バナナやキウイなどのフルーツとシリアル、チーズなどもあるので十分に満足できる。
さて、モントルーのみどころと言えば、湖畔のシオン城が有名で、人気の観光スポット。
しかしモントルーから眺めるそれは、わざわざ立ち寄るほど魅力的とも思えず、ましてや好天なのに薄暗いであろう城内を見学するというのももったいない気がして、別の見どころに足を運ぶことにしたのだった。
さて、本日最初の目的地は、ロッシェ・ド・ネ (Rochers-de-Naye) 。夕べは「丘の上」だと思っていたが、スキー場のある山頂のようである。
ホテルのフロントで尋ねたところ、一時間に一本、登山列車が出てるという。時計を見れば次の出発は15分後。急ぎホテルを出て、早歩きで駅まで向かう。
前の晩に計画を立てておけばいいものの、「天候を見て」などといいつつ、なかなかに段取りが悪い。とはいえ、なんとか出発前に電車に乗り込んだ。
列車は山の斜面をスイッチバックでじわじわと上昇していく。緑の山間から湖畔を見下ろしていたのが、やがて光景は雪山へと変わる。右の窓、左の窓、どちらからの光景も麗しく、気がつけばずいぶん高い場所まで到達している。
スイスの登山列車に乗るたびに思うのだが、この国の人々の自然との共存の仕方には、本当に敬服する。自然の美を妨げない、多分最低限の方法で、しかし人間の利便性を満たす交通機関を整えている。
自分はまったく動かずして、列車で楽に山の頂にまでこれらることに、感嘆するのである。
登山列車は1時間もたたないうちに、標高2000メートルを超える終着駅、ロッシェ・ド・ネに到着。車窓からの光景を眺めているうちに、あっというまに到着した感じだ。
白銀の斜面を滑るスキーヤーたちを眺めつつ、しばらくは目前に広がる山々の光景を眺める。
気軽にホテルを出て来たため、軽いジャケットでの薄着だったが、日差しがあたたかいので、多少冷たい風が吹いていてもさほど寒さを感じず助かった。
せっかくなので、ゆっくり景色を満喫しようと、ランチを食べて下山することにする。カフェテリアには大した選択肢はなかったので、ソーセージとフレンチフライのプレートとスープを注文して、夫とシェアする。
こんなことならサンドイッチやフルーツなどを買ってくればよかったと思うが、なにしろ行き当たりばったりである。
カフェテリアにはワインやビールも用意されている。絶景を前にして、祝杯をあげずにいられようか。いや、いられまい。
「僕、アルコールはいらないからね」と言っていた夫も、支払いの段になって、「やっぱり飲む」とビールを手に取る。
このうえなく清々しい、澄んだ空気に包まれて、雪山を眺めながらのビールは、なにやら格別の味わいである。「おにぎりと熱いほうじ茶」などもよさそうだが、郷に入れば郷に従えである。
強いて問題があったとしたならば、「レゲエ」である。眼下に見えるスキーヤーの山小屋から、大音響でレゲエが流れていたのだ。レゲエに罪はないが、しかしスイスの雪山にレゲエはないだろう。
「音を小さく!!!」
と上から叫びたかった。こんな自然の美しい場所で、許される人工的な音は、飛行機のエンジン音くらいである。どんな音楽であれ、こんなところで大音響でかけるとはひどすぎる。
しかし、ビールも回れば、音響もあまり気にならず、結局は2時間後の列車で山を下りたのだった。
さて、再びモントルーの街に到着。時計は午後3時半をさしている。夜9時ごろまでは日が暮れないし、まだまだ遊べる。もう一カ所、行きたいと思っていたラヴォー地区のぶどう畑へ足を延ばすことにした。
ローザンヌからヴヴェイにかけての湖畔に広がるラヴォー (Lavaux) 地区には、ローマ時代にまで遡るぶどう畑の、ワイン造りの歴史があるのだ。
ぶどう農家を擁するいくつもの村があるが、観光案内所で尋ねたところ、モントルーからはシェーブル(Chexbres)という村へ行くのが一番便利だとのこと。
列車で隣の駅のヴヴェイへ行き、そこからシェーブルへ行きのワイン列車に乗り換えるよう言われた。
シェーブルからはぶどう畑を縫うように湖畔まで散策し、最寄りの駅から列車に乗ることになる。天気はいいし、気温もほどよく、ハイキングにはもってこいの午後である。
さっそく列車を乗り継いで、ラヴォー地区を目指した。湖を取り囲む辺り一帯はなだらかな斜面で、右に左に、ぶどう畑が広がっている。
まだ春浅く、ぶどうの木々は裸だが、緑のころ、実りのころ、そして紅葉のころは、格別な眺めであろうと察せられる。
列車を降り、駅の一画にある観光案内所へ。今の列車に乗って来た乗客は、わたしたち以外、村の人たちのようである。みな目的がある様子で各々の道を歩いていく。観光案内所では、わたしと同世代とおぼしき女性がにこやかに迎えてくれた。
「ここは他のワイナリー、たとえばカリフォルニアのナパなんかと違って、あまり商業化されていないの。
ワインテイスティングもやってるところとやってないところがあるから、ちょっと確認してみますね」
そう言って、数軒のワイナリーに電話をしてくれる。
イースター休暇で主が不在のワイナリーもあったが、一軒、マダムが在宅だというワイナリーを見つけてくれた。
フレンドリーな彼女としばらく話をしたあと、観光案内所をあとにする。
案内の矢印に従いながら、ぶどう畑の散策を開始する。
目的のワイナリーは、駅を出てすぐの場所にあった。
呼び鈴を押すと、マダムが出迎えてくれる。
「白、赤、ロゼ、どれをお試しになる?」
と尋ねられ、スイスは白ワインがおいしいと聞いていたので白を試すことにする。
ハーフボトルの白ワインと、3つのグラスを用意してきた彼女。3つのグラスにワインを注ぎ、3人で乾杯である。
今までいろいろなワイナリーを巡って来たけれど、こうして主とグラスを傾け、語り合いながらワインを味わうのは初めてのことである。
このアットホームな雰囲気がとてもよい。
彼女はフランス語しか話さないので、つたないながらもフランス語で会話ができる夫と彼女が、主には二人で話をしている。
このワイナリーは三代目で、南アフリカで主にはビジネスをしているのだという。
グラス1杯のワインをすっかり飲み干すまで、ゆっくりと語り合った。
それからハーフボトルの白と赤を、それぞれを1本ずつ購入し、マダムと別れを告げて、再びハイキングに出発したのだった。
写真ではとても伝えきれない、その景観のすばらしさ。眼下に、湖に向かって滑り落ちるように広がるぶどう畑のテラス。日差しを照り返しながら、しんと静まり返った湖。
対岸にそびえ立つ山々。靄がかかって山と湖の境目が曖昧で、それがむしろ幻想的な雰囲気を醸し出している。
このラヴォー地区は、2007年にユネスコによって文化遺産に登録されたという。とはいえ、見渡す限り、誰の姿も見えず、散策しているのはわたしたちだけである。
その事実がまた、ずいぶんと贅沢な気分にさせてくれる。
出会ったのは、一番上の大きな写真にある犬と人々だけであった。
あれこれと書きたいことは募るのだが、旅の途中でそうそう時間もない。第一、眠たい。とりあえず、今日のところはこのあたりにしておこう。
夜は駅の近くのスーパーマーケットで食料を仕入れ、ホテルで食べることにした。毎日外食続きなので、ときには極力さっぱりとした食事ですませようと思うのだ。
ホテルにたどりついたころ、あたりは薄暮に包まれる。ホテルのそばの、見晴らしのよい場所から、しばらく風景を眺める。教会の鐘の音と、鳥のさえずりだけが聞こえてくる。
やさしくて、さびしくて、あたたかく、寛大な景色。
部屋に戻って、ワイナリーで買った赤ワインをあけ、プロシュート(生ハム)、モッツアレラチーズ、オリーヴ、トマト、そしてパンで夕食。なにもかもが、ことのほか、おいしかった。
残りの食材は、明日のランチに。
こんなにモントルーを楽しめるとは思っておらず、なんと豊かな一日だったことだろう。
それにしても、自然が本当に、やさしい。
こんな機会を得られたことに、感謝。