帰路、ニューヨークから乗り換えのために降り立ったチューリヒ空港にて。例の老舗菓子店 "SPRUNGLI" の店舗を発見した夫。マカロンを買って帰ろうと主張する。
日持ちしないからやめようよ、と言ったのだが「2、3日なら大丈夫」と言い張る。
その他リンツのチョコレートなどとともに、熟考の末、いくつかの商品を選んで購入していた。
蒸し暑ムンバイに戻ってからも、自宅に到着するや否や、自ら速やかに冷蔵庫へ収めるなど、こと自分の好きな食に関しては、こまめな男である。
一口サイズのこのマカロン。
まずはどれを食べようかと、そのつやつやとしたかわいらしい形状を楽しみつつ、そっと手に取る瞬間のほのかな幸せ。煎れたての、セカンドフラッシュのダージリンとともに、一粒、二粒、じっくりと味わう。
ムンバイ世間の喧噪を忘れ、旅の余韻に浸るひととき。……と、何気なくパッケージを眺める。そういえばどこにも、 "macaron" という文字がない。
そのかわり、"Luxemburgerli" と書かれている。ルクセンブルゲルリ……? ルクセンブルクの、なにか? いずれにしてもあまりかわいらしい発音ではない。マカロンとはほど遠い。
気になって調べてみたところ、この「ルクセンブルゲルリ」はSPRUNGLIオリジナルの菓子であり、フランスのマカロンとは一応、一線を画しているようである。
1957年。とある菓子職人がルクセンブルクのベーカリーで「発明」したものを、チューリヒに持ち込んだところから、歴史は始まるらしい。ルクセンブルゲルリが、SPRUNGLIの登録商標かどうかは定かではないが、目玉商品には違いないようだ。
ルクセンブルゲルリとマカロンとの相違点は、その小さなサイズに加え、挟まれたクリームにある。クリームが多めで、しかもふんわりクリーミィ、歯ごたえも軽めなのだ。
マカロンと似て非なる、しかしどちらもおいしい菓子である。さまざまなフレイヴァーがあり、いずれもそれぞれのおいしさがある。しかし、一つだけ、「ビスコ」を彷彿とさせる風味のものがあった。
ビスコ。それはお子様のおやつ。ビスコ。おいしくてつよくなる。
ほのかに懐かしくおいしいけれど、しかし何やら、興ざめである。
帰国早々、濃厚な一日。不在がちのため、一気に治療をすませようと、歯科で3本同時進行。大きな治療ではないとはいえ、ドクター曰く「微量」とはいえ、麻酔をかけつつ3時間。顎が疲れた。
不在時の雑事を片付け、荷解き後のあれこれを片付け、しかしだらだらとして捗らず、比較的不毛な一日。
『スラムドッグ・ミリオネア』に出演したスラム出身の女の子、ルビーナの養子縁組の話題が一面を飾っている。
父親が、彼女をRs. 1.4 Crore(1.4カロール・ルピー)、日本円にしておよそ2000万円で「売ろうとしている」、つまり養子に出そうとしている事実があると、英国の新聞が報じたとのニュースである。
このニュース、真偽は定かではないらしいが、とはいえ、このような話が実際にあったとしても、なんの不思議もない。
加えてルビーナの父親はルビーナの姉を家から追い出したらしく、「オスカーはわたしたち家族を崩壊させた」といった姉のコメントも見られ、なにやら泥沼の周辺事情である。
映画の制作側が、たとえ出演したスラムの二人の子の将来のための、基金を支援するべく財団を設立したとしても、なにをしたとしても、ハッピーエンドでは決して終わらないあれこれが、延々と続くのだろう。
実際にスラムに住んでいる子どもを出演させた事実は、センセーショナルで話題を集めた。
そうして出演した二人の子どもらが体験した天と地ほども違う生活経験。彼らと彼らを取り巻く人々は、この著しい世界の違いを、これからどのように消化していくのだろう。
と、まるで他人事のように考えていたところに、今朝、メイドのジャヤから頼み事をされた。今後、住み込みで働かせてほしいと。
移住当初の一年余り、家政夫モハンが住み込みで働いていた。いろいろとあって彼には里に帰ってもらい、その結果「通いのメイド」をバンガロール宅、ムンバイ宅それぞれに雇うことで一段落していたところだった。
ジャヤはわが家からほど近いスラムに、両親と弟二人とで暮らしている。彼女の話によれば、一家5人はわが家の使用人部屋とほとんど変わらないくらいの、つまりは3畳程度のスペースにひしめき合うようにして暮らしているという。
先だって、別のスペースを増築するための工事費を貸してくれと頼まれた。月々の給与から差し引く形で返済してもらっている。そのスペースもできるのだし、なぜ今、家を出なければならないのかと尋ねたところ、父親とけんかをしたとのこと。
父曰く、今年26歳になる彼女に対し、すぐに結婚しろと迫っているらしい。インドにはダウリー(結納金)の問題もあり、結婚は決して簡単ではない。
彼女より一つ年上の姉はすでに嫁いで落ち着いている。ジャヤはといえば、「あと1年後に結婚する」との約束をしているボーイフレンドはいるものの、実情はどうなのか、わたしの知る術もない。
ともあれ、わたしたちが旅に出た直後、2週間前に家を出て以来、友人宅に寝泊まりしているが、友人の父親がアルコール中毒で荒れるため、そこに長居することもできないらしい。
わが家に住み込むか、別の住み込みの仕事を探すかを考えているとのこと。
彼女の事情はよくわかる。しかし、使用人部屋があるとはいえ、一つ屋根の下。バンガロール宅のプレシラには鍵を託しているが、ジャヤにはまだ渡していない。
すでに半年以上、問題なく仕事をしてくれているのだから、信用すべきだし、信用しているのだが、しかし鍵を渡して住まわせることには若干の戸惑いがある。
彼女は自分が夕飯の準備もするというが、わたしは自分で作りたい。またキッチンが使用人のものになってしまうのは辛い。しかしそのあたりは、うまくコントロールすれば解決するようにも思う。
義姉(といっても5つも歳下の)スジャータに相談したら、美穂が負担に思うことは決してしない方がいい、ともかく自分を優先して考えた方がいいと言ってくれる。
未だ結論は出ていないが、しかし困っているジャヤを放置するわけにもいかない。十日間ほど「様子見」で、取り敢えず泊まり込みを許すことにした。
夕べ、身辺の道具、それからマットレスなどを持っておいでと伝えていたのだが、彼女の荷物は買い物袋一つだけ。毎日着替えているカラフルな衣類は家に置いているのだろう。
しかし、マットレスなどはなく、タオル一枚のようである。
床にそのまま、寝るようである。多分彼女は、家でも、友人の家でも、そうやって寝て来たのだろう。
いろいろと、思うところがごまんとあって、うまく綴ることすらできないが、ともあれ、明日、マットレスを買いにいこうと思う。