その曲を初めて耳にしたのは、28歳のときだったと思う。当時好きだった人が、自分の好きな音楽を集めてカセットテープに録音し、わたしにくれたのだった。
カセットテープには、実に多彩なジャンルの、いろいろなシンガーの曲が、乱暴なほどランダムに入っていた。メモはない。ただ裸のカセットケースとテープだけだった。
ある曲が、とても印象に残った。やるせないピアノの旋律と、弦楽の空気震わせる音色と、あまりにもアンバランスな、嗄(しわが)れた声の男が、しかし、しみじみと歌い上げていた。
初めて聴いたときは、「どんだけ喉がいがらっぽいオッサンかいな」と思った。しかし幾度か聞き重ねるうちに、その声だからこそ、いいのだと感じるようになった。
黒人の、恰幅のいいおじさんをイメージしながら、聴いていた。
そのテープをくれた人とは、それからほどなくして別れた。そのしわがれた声の主がいったい誰なのかわからないまま月日は流れた。そのカセットテープも、多分ニューヨークに移ったときだろう、なくしてしまった。
旋律と歌声だけが耳に残っていて、折に触れて、多分2、3年に一度、とても聴きたくなった。けれど、調べようがない。旋律を楽譜に起こして、誰かに見てもらって探し当てようかとも思ったこともあった。
♪ラ〜ラ〜ララソファ ラ〜ラ〜ラド〜シ(♭)〜ラソファ ド〜ド〜ドドシ(♭)ラソ〜
これでどの曲かわかってくれる人がいたらすばらしいのだが、そもそも誰に尋ねればいいのだという問題もあり、諦めていたのだった。
以来、その曲を耳にすることはなく、ふとしたはずみに、わたしの脳裏だけで、巡る音楽だった。
昨日のことだ。OWCのコーヒーモーニングを終えて、Leelaのショッピングアーケードにあるブティックで買い物をしていた。服を試着している時に流れてきたBGMに、はっとした。
あの曲だった。
しかし歌い手の声が違う。これは、あのおじさんの曲をカヴァーしているのに違いない。ともあれ、もしも曲名がわかれば、インターネットで、あのしわがれ声のおじさんの名前を検索できるに違いない。
店の女性に尋ねたら、このCDはオーナーでありデザーナーでもあるSanchitaが持って来たものだという。だから彼女自身は曲名を知らないという。
わたしがどうしても曲名を知りたいのだ、というと、店の奥に入り、プレイヤーを止めて、そのCDを持って来てくれた。
それは、オリジナルのCDではなくコピーをしたもので、マジックで "Rod Stewart - If We Fall In Love Tonight" と手書きされていた。ロッド・スチュワートのアルバム……。
ようやく、あの曲のことがわかると思うと、気に入った服を見つけられたことよりも、むしろうれしかった。
ランチを終えて帰宅後。夜、コンピュータに向かい、件のアルバムを検索する。収録されている曲を試聴すれば、あの曲が見つかるはずだ。
それにしても便利な世の中である。こうしてインターネットで、音楽の探し物さえ、できるだなんて。曲の一部、30秒だけとはいえ、見つけ出すことは難しくないはずだ。
しかし、そのアルバムには、あの曲は入っていなかった。2回、繰り返して確認したが、なかった。
Sanchita……。コピーするときに、間違ってアルバム名を書いたのだろうか。しかし、あの声は確かにロッド・スチュワートのようである。こうなったら、片っ端から彼の曲を試聴するしかない。しかし、アルバムはたいそうある。
たいそうあるが、しかしここまで来たら、見つけ出したい。怒濤のように、次から次へと音楽をかけて確認したところ、ついに、見つけた。
見つかる時には、不思議と、予感がするものである。あ、このアルバムだ。あ、あと数曲で出てくる……といった感じで。
曲名は、Tom Traubert's Blues、だった。
GoogleでTom Traubert's Bluesを検索したら、出て来た。YouTubeを見れば、シンガーはTom Waits。
トム・ウェイツ。トム・ウェイツ? 知っている名前。だけど、誰だっただろう。
しわがれた声の持ち主は、黒人のおじさんではなく、白人の若者だった。むろん、それは1977年、今から30年以上も前の映像だ。今となっては、いいおじさんなのだろうが、しかし映像の中の彼は、若く、ハンサムである。
ともあれ、ようやく見つけた。
やっぱり、いい曲だ。しかし、どれだけ喉がいがらっぽい歌い方だろうか。わざとに違いないにしても、この映像の中の彼は、記憶の中の歌い方に増して、いがらっぽい。痰すら絡んでいる。
だが、いい。そのわざとらしさすら、いい。
ともあれ、音の状況がいいものを、聴きたい。早速 iTune Storeへアクセスしたところ、この曲があった。購入し、ダウンロードした。
これ。これだ。この旋律。この演奏。この声……。
軽やかに、15年前にまで、記憶が逆流する。
それにしても、トム・ウェイツ。どうして知っているのだろう?
今度は彼の名前を検索して、彼のプロフィールを読んで、驚くと同時に、深く納得した。
彼は、ジム・ジャームッシュ監督の映画に出演していた。『Down By Law ダウン・バイ・ロウ』。あの映画で、DJ役をやっていた男が、彼だった。音楽もまた、彼がやっていた。
ジム・ジャームッシュ。
マンハッタンに暮らし始めてまもないころ、地下鉄駅で、彼を見かけたことがあった。自分がニューヨークに住んでいるんだ……と実感した一瞬だった。
さまざまな記憶が、一気に沸き上がってくる。
『ダウン・バイ・ロウ』
去年の6月、20年ぶりに見たということを、ここに記録している。
あの彼、トム・ウェイツが、この声の主だったなんて。さまざまに、ばらばらに散らばっていた事実が、一つ一つ、静かに符合していくような気がする。
歌詞もまた、わけがわからないようで、あれこれと調べてみればまた、符号する言葉が散らばっていて、心に染み入る。
Tom Traubert's Blues (Tom Waits 1976)
Wasted and wounded, it ain't what the moon did
Got what I paid for now
See ya tomorrow, hey Frank can I borrow
A couple of bucks from you?
To go waltzing Matilda, waltzing Matilda
You'll go a waltzing Matilda with me....
(歌詞の続きはこちらのサイトに)
あまりにも、痰が絡んでますか? な歌い方だが、せっかくなのでYou Tubeの映像をここに。レコーディングのよい状況のよいものを聴きたい方は、ぜひ Tom Waits のアルバム、Used Songs (1973-1980) をどうぞ。
Tom Waits - Tom Traubert's Blues - 1977
ついでに、彼が出演している映画『ダウン・バイ・ロウ』トレイラーも、ここに。
ちなみにこの映画には、『Life is Beautiful ライフ・イズ・ビューティフル』で一躍有名になったイタリア人監督&俳優のロベルト・ベニーニとその妻ニコレッタ・ブラスキも出演している。