25年前にぷっつりと断ったきりの糸が、こうして再び結び直される日が来るということを、さほど考えることもなく、これまで来た。
高校を卒業して、下関の梅光女学院大学に進み、上京して就職し、ニューヨークへ渡り、ワシントンDC、カリフォルニアを経て、インドに移った。
外へ外へと向かうばかりの歳月で、故郷は、日本は遠のくばかり。数年おきの帰国のたびに違和感を覚え、町並みに息苦しさを覚え、過去とは封印されて当然、のものだった。
2年半前に一時帰国をした際、西日本新聞に営業をして記事を書かせてもらうことになり、それを読んでくれている母校の関係者があり、福岡が急速に近づいた。
今回、創立記念日の講演に招かれ、そして10月には、わたしたちの学年の同窓生が幹事となっての同窓会総会が開かれる。
昨年からその準備のために結成された役員会に属する友人らの消息を聞きながら、しかし実際に彼らに会ってみるまでは、単なる「懐かしさ」だけが、心にあった。
しかし夕べ、高校時代にとても親しかった、思い出を共有した友人らと再会して、懐かしさのひとことでは片付けられない、不思議な感情に包まれた。
今日会えることをとても楽しみにしていた人の一人は、バスケ部で一緒だったノコだ。
左写真の中央が、やはりバスケ部だったマヤ、そして右端がノコだ。
高校時代は親しかったのに、卒業後は会うことがなかった。
小さな花束を差し出しながら、抱きついて来たノコ。
「会いたかったとよ〜!!」と言われて、あのころと、雰囲気も何もかも変わらない彼女の様子に、胸がいっぱいになる。
高校時代には、それぞれに、心から溢れ出るほどの問題があった。記憶をたどれば、本当に、ひとりひとりが繊細で感受性が強かった。
ささやかな痛みにすら免疫力がなく、感情の起伏に支配されて、今では考えられないような理由で心を乱し、けれど本当に、一生懸命だった。
修学旅行先で胃けいれんを起こしたり、学校を休みがちだった時期があったノコが、今や4人の母親で、しかも長女は20歳で、近々ニューヨークへの語学留学を考えているといった話を聞くと、なんという時間の流れだろうと思う。
にもかかわらず、25年の歳月を、どうしてこうも、たやすく飛び越えて、瞬時、心はあのころに戻れるのだろう。
好きでバスケットボールをやっていながらも、たとえばわたしは腰や膝を痛めたり、思うようにプレイできなかったり、諸々のコンプレックスがあった。マヤもまた、今になってそのことを話してくれた。
彼女曰く、自分はバスケがあまりうまくなかったけれど、でもバスケットボールの、
「ゴールにシュートが決まる瞬間が、好きやったと」
と、いう言葉にもまた、目頭が熱くなる。当時は、自分のことでいっぱいいっぱいで、友人の心根を思いやる余裕はほとんどなかったけれど、でも当然のことながら、それぞれが、それぞれの思いを抱えて、一生懸命だったのだ。
右の写真のおっさんは、3年のときに同じクラスだった安武くん。
家業の鉄工所を継いで、「安武工作所」の社長である。
香椎高校は、その派手な体育祭で知られていた。
当時は準備期間も長く、彼は応援団、わたしはチアリーダーに属し、準備を口実にみんなで集まっては遊んだものだ。
当時広い家に住んでいた我が家に集まって、駐車場で団旗を作ったり、女子は衣装である法被やはちまきなどを作ったり、みんなで「うまかっちゃん」(ラーメン)を大鍋に作って食べたりと、大賑わいだった。
母が出したモロゾフの粒チョコレートをして、
「おばちゃん、これ何? オレ、こげなチョコレート、生まれて初めて食べる」
と言ったのも、当時の安武くんである。
「メールアドレスって、なん?」
と言う安武くん。本当に変わってない。
「あんたさ、Mりんのこと、好きやったろ? あんとき、結局ふられたっちゃろ?」
「ふられたばってん、いっぺん、映画見に行った」
「なんば見に行ったと?!」
「ネバ〜エンディングスト〜リ〜」
いきなり歌いだすおっさん。変わってない。
「そういやあんた、Nのことも好いとらんやった?」
「好いとった」
学年が変わるごとに好きな人が変わる。それもまた、高校生ならではである。わたしも人のことは言えない。2年の時好きだったのはバスケ部のU先輩。3年の時に好きだったのは後輩のSくん。
二人とも、口もきいたこともなかったのに、そのバスケをする姿だけに、惚れていた。ああ。あれこれと思い出は蘇る。書きたいことは尽きぬ。
ヴァンレンタインズ・デーのチョコレート。体育祭の、弁当の差し入れ。手編みのセーター。刺繍入りのタオル……。我ながら、なんて古典的な愛情表現をする女子だったか。
再会を楽しみにしていた友人の一人、ミキっちとは、成人式以来の再会だ。高校時代、ダンスが上手だった彼女はチアリーダーの指導者をつとめ、クラスメイトたちに踊りを伝授してくれたものだ。
確か「スクールメイツ」に属していたはずで、当時からカラオケなども大好きだった。カラオケマシンのある友人宅に集い、松田聖子やら中森明菜やら早見優やら松本伊代やらの曲を熱唱したものである。
高校を卒業してからも、彼女とはディスコやら、当時「おかまバー」と呼ばれていた「あんみつ姫」やらに、出かけたものである。
今回、再会を前にして、23年ぶりにメールで連絡を取り合った。彼女はまだ独身とのことで、
「日本語しゃべれるイケメン外人いたら紹介して下さい」
と書かれていた。高校時代から理想の高い彼女。あまりにも、変わらなさ過ぎるその姿勢に大笑いだ。そして23年ぶりに再会した彼女は、相変わらずきれいでスタイルもよく、実に華やかだ。
今は「競艇の実況中継のアナウンサー」をしているとのこと。
この際、恥ずかしいが面白いので、成人式のときの写真を。これは講演会にも使った写真である。20歳のとき、米国へ1カ月のホームステイをしたわたしは、資金集めのためにバイトをしたが足りず、親に支援を仰いだ。
「成人式の着物はいらないから!」
などと、今思えばナンセンスな申し出だが、そんなわけで、母のコートを着て、スカートだけを購入しての「恐るべき晴れ姿」である。
ミキっちの着物の趣味も、とても成人式とは思えない渋さ。「銀座のママ」 vs 「中洲のママ」の写真を再現したく、二人並んで記念撮影である。
それにしても、この写真。彼女は170センチ、わたしは166センチ。二人とも大きい上、このファッション。どこからどうみても、新成人の初々しさはない。むしろ、怖い。
先日、アルヴィンドにこの写真を見せたら、「これ、誰?」と、尋ねられた。「わたし」と答えたら、絶句したまま、何事もなかったかのように立ち去った。ハロウィーンの仮装、とでも思っていただきたいところだ。
左の写真の黄色いシャツはラグビー部だった上田くん。総会の実行委員長だ。彼とは2年の時、同じクラスだった。月曜日の講演会も出席してくれて、本当にうれしかった。
同じクラスになったことがなくても、体育祭で同じグループ(赤組、青組、白組、黄組)に属していたりで、顔なじみの人も多い。顔を見れば、当時の様子が瞬時に思い出されて、本当に不思議なものである。
22歳の子どもがいる人もあれば、1歳の子どもがいる人もいる。子どもなし、あるいは独身、再婚者……。それぞれに、さまざまである。
これがもし、10年前であれば、こんな風にリラックスして、皆が肩肘を張ることなく、再会していただろうか。そう思うとき、今44歳を迎える「一段落」した時機に、幹事の年が回って来て、再会の機会が設けられていることの意義を感じる。
自分が何をしてきたか、今、何をしているか、などということはさておいて、当時の自分たちを、楽しく懐かしめる状況にあること。笑顔いっぱいで再会できること。そのことが、なによりも大切に思われた。
確かにわたしは、土地を転々とし、海外で起業するなどの経験をして「すごいね」と言われることがある。確かに、努力もしたし、一生懸命にもやってきたが、それは誰もが、形は違えど、やってきたことだ。
子どもを育てること、親の仕事を受け継ぐこと、自分のキャリアを貫くこと、若々しさを保ちながら生きること……。みなそれぞれに、自分の世界の中で、精一杯に生きている。
思うところ多く、もっと多くの、エピソードを綴りたいが、尽きない。
わたしのブログを欠かさず読んでくれているというリエコさんの言葉もうれしかった。わたしの言葉が誰かを励ましたり、力づけているとわかるのは、この上ない喜びである。
それから柳田くん、帰りのタクシー代、出してくれてありがとう。講演の時の花束贈呈もありがとう。柳田くんは、我が実家のすぐ近所の「柳田畳店」のご主人だ。
高校のとき、彼はバンドでシンセサイザーをやっていた。わたしも別のバンドでキーボードやシンセをやっており、話しているうちに、当時のことを、じわじわと、そしてくっきりと、思い出した。
右上の写真は、高校2年のとき同じクラスだったホジ。人のことを持ち上げるようなことを口にして、一瞬喜ばせておきながら、
「ウッソ〜。」
と叩き付ける話法が未だ変わらず、あまりにも悔しい。
最初、店に入って来た時、見た目(ファッション)が若くて、誰かわからんかったけど、話し始めたら、すぐに記憶がすり合わせられた。カヨちゃんやチアキちゃんにも会いたかった。
それから、会報担当のマユミさん、それから御塚くん、会報の校正作業は「遠隔操作」でも可能やけん、連絡してね。わたしも作業を手伝うけん。広告も、謹んで、出させてもらうよ。
そして今日の会をまとめてくれたユウコさん、どうもありがとう。
右写真中央は、小学校、中学校と同じ学校に通っていて、何度か同じクラスになったことのあるナオミさん。共通の友人である丸岡ちゃんを通して、高校は異なるのだが、宴の前に顔を出してくれた。中学の卒業式以来の再会だ。
わざわざ、ほんの少しの間だというのに、会いに来てくれて、本当にうれしかった。小学校のころ彼女の家に行くと、セキセイインコや十姉妹が飼われていたのを思い出す。いつかまた、ゆっくりと再会できればと思う。
それから丸岡ちゃん、歯ブラシありがとう! 半年前に会った時、歯科技師(だっけ?)である彼女からもらった歯ブラシが使い易くて、感動していたのだ。
さて、月曜日の講演会の折、同窓生に大ウケだった高校時代の写真を載せておこう。時代を感じさせる制服の長い丈、そしてヘアスタイル。
そうそう、二次会の途中で、仲のよかった上野君(名古屋在住)にも電話もいれたのだった。26日のこのブログに載せている講演会の写真。背景に写っているのが、左下の卒業式の写真だ。
ちょうど花束を抱えた上野君が写っている。彼はこのブログを読んでくれたようで、びっくりしたとのことだった。
声や話し方の様子は少しもかわらず、本当に、懐かしい。彼のご実家は、確か花の農園を持っていらして、例の体育祭の準備で我が家に集合した時など、彼は我が家にバラの花束を持って来てくれて、母が大喜びしていたことを思い出す。
話をしているうちに、10月の総会にも参加して、みんなにまた会いたいと思えてくる。
社会人となって後は、ただ外を目指して、ひたすらに新しい世界へ走る日々だったけれど、こうして自分の原点に戻り、スタートラインのあたりに立ってみると、自分がいかに長い旅をし続けているのだろうとの思いに駆られる。
あたかも自分には、戻る場所がない、くらいの勢いできたけれど、事実、こうしてコテコテの博多弁に戻り、歳月を瞬く間に飛び越えて立ち返れる場所が自分にあるということに、我がことながら、新鮮な驚きだ。
自分が、25年も故郷を離れ、13年も日本を離れ、博多弁はおろか、日本語さえ滅多に話さない環境にあることが信じられないほど、今回の旅は、自分の中の「三つ子の魂、百まで」を見せつけられる思いだ。
好きな異性のことや、髪型のことや、スカート丈の長さや、部活のことを考えることで精一杯で、勉強もろくにせず、体育祭やバンド活動には無闇に燃えて、わけのわからん高校時代だった。
そのわけのわからん時代を、利害関係など当然なく、社会のしがらみもなく、時間を共有して来た友人らの存在とは、なんと不思議なものであろうと、つくづくと、思った。
このような人間関係は、社会に出てから築こうと思っても築けないものである。
当時は、いや、再会するまでは、それほど大切だとさえ思っていなかった過去の交流が、こうして蘇ることによって、交友関係を超え、自分自身を見つめ直すという意味において、非常に意義深いことであるとも思った。
最後には、みんなにハグをして別れた。もうこうなると、「欧米化した女性」というよりは、「抱きつきたがるおばさん」である。なんかしらんが、抱きつかずにはおれんかった。
相手が若い男子なら「セクハラ」とさえ言われそうである。でも相手は若い男子ではないので、いいのである。
本当に、楽しい夜だった。
夕べ集まってくれたみんな、本当にありがとう!