午後2時に車を手配し、パンチシールにある実家を出る。今回、ガイドブックLOVE INDIAのデリー版を参考に、街を巡ってみようと思う。
コンノートプレイスをはじめ、カーンマーケットやスンダナガールマーケット、サウスエクステンションにグレートカイラシュなど、市街のあちこちに点在する商店街はすでに訪れたことがある。
今回は、行ったことのない「ロディ・マーケット」へ行ってみようと思う。
緑豊かに木陰が心地よい公園を挟んで、並ぶこぢんまりとしたアーケード。
日向は暑くてくらくらするので、日陰をじわじわと歩く。
ガイドブックに紹介されていたファッションブティックに立ち寄るが、いまいち。
隣接している有名デザイナー、マニッシュ・アロアのブティックも、いまいち。
結論から言えば、全体にかなり地味である。足を運ぶまでもなかった、という感じ。
しかし、ミッタル・ティー・ハウスを見つけたので、涼を求めて入った。
いつもはスンダナガールマーケットの店舗を訪れるため、この店の存在は知らなかった。
店の人に「スンダナガールの店とは姉妹店なのですか?」と尋ねたら、そうだという。
品揃えも似ている。
でも、なにかが微妙に違う気がする。
しかし、せっかくだからお茶を味見し、おすすめのマンゴーティーやハーブティー、それとマサラチャイ用の茶葉、ヒマラヤの岩塩などを購入する。
その後、やはりガイドブックに従って、ロディ・エステートにあるNGO団体、INTACH (Indian National Trust for Art & Cultural Heritage) を訪れる。
しかし、紹介されている工芸品店は「極小規模」で、ビルディングは主にはオフィスとなっていた。
インド各地の村々で作られた洗練された工芸品があるとのことだったが、ううむ。という品揃え。
マニアックな本だけに、マニアックな店選びではある。
時間に余裕のある住人ならよいが、束の間の旅人にはお勧めできないポイントだ。
そんな次第で、本日、LOVE INDIAからのピックアップは「失敗ぎみ」であった。
●新しい都市型リゾート、アマン・ニューデリーを見学
さて、気を取り直して、ディリハートに向かおうかとも思うが、まだ日が高く、屋外を歩き回るには辛そうだ。
と、ロディ・ロードに新しくアマンリゾート系列のホテル、アマン・ニューデリーがオープンしていると聞いていたのを思い出し、立ち寄ってみることにした。
ラグジュリアスなホテルを訪れるにはふさわしくない、ジーンズにTシャツという出で立ちであるが、ちょっと中を見学するだけでも、と思い赴く。
今年の3月にソフトオープニングしたこのホテル、グランドオープニングは10月とのこと。
ロビーでブローシュアを見せてほしいと頼んだところ、スタッフの一人が館内を案内してくれるという。
まだ全室オープンしておらず、ゲストが少ないとはいえ、とても感じのよいサーヴィスである。
二つあるダイニングのうちの一つは、ジャパニーズ&フレンチが融合した料理を出すNAOKIという店。
カウンター席だけのこぢんまりとした空間ながら、雰囲気がよい。ランチメニューは1200ルピーからとのこと。ぜひ一度味わってみたいものである。
その後、スパやビューティーサロンも案内してもらう。スパは、一つ一つの部屋がとても広く、ベッドにソファー、そしてバラの花びらが浮かんだバスタブもあり、「住めそう」なくらいである。
ビューティーサロンもまた、ネイルケアですら個別のブースで受けられ、プライヴァシーも守られた空間。とてもいい感じだ。
帰りしな、案内してくれたスタッフがわたしの国籍を問うので「日本人だ」と答えたら、マネジメントのスタッフに日本人女性がいるから紹介してくれるという。
彼女は1年ほど前から、このホテルの立ち上げのためにデリーに暮らしていらっしゃるとのこと。自己紹介をしあい、しばらくお話をした。
宿泊することはないにしても、ダイニングやスパはぜひとも訪れたいものである。ホテルのイメージはこちらのサイトでどうぞ。
●そして炊飯釜を求めてディリハートへ。
入場料を払って、ゲートをくぐった途端、思った。ウマ。あなたのおっしゃる通りでした。ここは、あまりにも暑すぎる、と。
午後4時を回っていても、まだ日ざしは鋭くて、むしろ西日はがんがんで、店番の人々も大半がぐったりとしていて、けだるさ120%。
それでもせっかく来たのだからと、全体を、一巡するのである。なるたけ、なるたけ、日陰を選びながら歩くのである。
ところで上の大きな写真。これはNAVDANYAというオーガニック農業を支援する組織のブースにて販売されていた穀物の写真。この件については、あれこれと調べた上で書きたいことがあるのだが、ともあれ、自らの備忘録も兼ねて、ここにサイトを記しておく。
■NAVDANYA(←文字をクリック)
さて、目的のナガランド陶器であるが、あいにく見つからなかった。しかし、やはりインド北東部の、ナガランド州に隣接するマニプール州の陶器を売る店があり、そこで炊飯釜にも使えそうな鍋を見つけた。
すぐご近所だし、マニプールも米食文化のようだし、この釜でも十分いけるだろうと判断した。
聞けば、この石(左写真)の粉と水を混ぜ合わせたものを素材に作られた陶器らしく、調理に使われる鍋釜には、ケミカルを一切使わず焼いているのだという。
ちなみにこの石。ウェザーストーン、だと彼はいうのだが、調べがつかない。
ともあれ、直火だけでなく、オーヴン、電子レンジにも対応するとのこと。
悩んだ末、三つある中から一番大きいサイズ(写真右側)の鍋を買った。
最初、店の人に「ここにはナガランドの鍋はないのか?」と訊ねたたところ、彼から「君はナガランドから来たのか?」と問われた。
別のところでも、「ナガランドのブースはないのか?」と訊ねたところ、「君はナガランドから来たのか?」と問われた。
ナガランドの人たちは、わたしたち日本人と似たような顔をしているのである。
帰り際、彼がわたしの国籍を問うので「日本人だ」と答えたら、「マニプールには日本人の墓がある」という。
日本人兵士の慰霊碑のことだろう。以前ナガランドのことを書いた時にも記したが、ナガランド州やマニプール州のインパール界隈の地域は、第二次世界大戦中のインパール作戦の部隊となった場所だ。
多くの日本兵たちが、ここで命を落とした。
詳しくはウィキペディアなどに記されているので関心のある方はどうぞ読んでいただきたい。以下、ウィキペディアからごく一部を抜粋させていただく。
■インパール作戦(←文字をクリック)
インパール作戦(-さくせん)(日本側作戦名:ウ号作戦(うごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。
補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、歴史的敗北を喫し、日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞として、しばしば引用される。
結果として本作戦は日本軍参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り、戦病者は4万人以上(そのほとんどが餓死者であった)を出して7月1日に中止された。
戦後、インパールのあるマニプール州などのインド東北部は、隣接するナガランド州などの分離独立運動による政情不安のため、インド政府は外国人の立ち入りを規制、このため現在に至るも遺骨収集などは遅々として進んでおらず、日本政府がインド政府の協力の下、インパール近郊のロトパチン村に慰霊碑を建立したのは1994年(平成6年)のことである。
一昨日、8月6日の記録に、エノラ・ゲイの記録を追加更新しているので、どうぞ遡ってご覧ください。