本日、夫をミーティングに送り届けるべく、ドライヴァーな一日。ホテルで軽く朝食を済ませ、さて、車に乗り込む。それにしても、青空の、ひたすらに青いこと!
4年前のちょうど今頃。2005年の7月から11月にかけてのころ、わたしたちはこの地に暮らしていた。
インド移住直前の数カ月。さまざまな懸案事項が続出し、「行くべきか、行かぬべきか」で、大いに悩んだ歳月だ。
この清々しい環境とは裏腹に、夫婦間バトルは沸点に達する日々。自省すれば、心、茫漠として虚しく、プチ家出を繰り返しては、ひたすらあてもなく車を走らせたものだ。
泥沼状態であった。
自分が、自分たちが、どこに向かうべきなのか。わたしのためだけの選択なら、速やかに下せる。しかし、結婚している以上、夫とは否応なく運命共同体である。直感だの、気分だので、方向を決められない。
尤も、その直感は経験値に基づいて閃くものでもある、と自分では都合よく解釈しているのだが、人を巻き込むとなれば、責任は重い。
インドに行こうと言い出したのは確かにわたしだが、もちろん夫だって、乗り気だった時期はあった。
しかし、大学時代からの人生を送って来た米国を離れることは、彼にとって、簡単なことではなかった。取り巻くさまざまから、引き剥がされるような思いも同時にあったのだ。
「新境地開拓気分」を楽しむ気軽さで渡印に望んでいたのは、わたしだけであった。
とはいえ、選択せねばならなかった。
「インドへ行くべきか。インドへ行かぬべきか」
毎日のように相談し合った。というよりは、口論し合った。口論に疲れ果て、わたしは、最早どちらでもよくなっていた。どちらでもいいといいながら、しかし心の奥底で、「絶対、インドに住むぞ」とも、思っていた。
だから、業を煮やして「もう、離婚だ!!」などと物騒なことを閃いたりした直後も、「いや待てよ。離婚したら、インドに行く理由がなくなる」などと思い直して、深呼吸をしたものだ。
別にインドが好きだったわけでもないのに、いったいわたしは、何を考えていたのだか、今もって、よくわからない。
ともあれ、ベイエリアでの暮らしは実に快適で、救われた。食生活も、豊かだった。ファーマーズマーケットの潤沢な果物や野菜が夢のようであった。おいしいパンもあった。日本食のスーパーマーケットもあった。
日本の母も遊びに来て、あちこち、ドライヴに出かけた。短期間ながらも、思い出に満ちあふれた場所である。
過去の記録や写真を見れば、なにもかもが麗しく、バトルの破片さえ、見当たらない。嘘を書いているわけではないが、真実をありのまま書いているわけではない。
書く内容を、取捨選択しているだけのことである。つまり、きれいなところだけを拾い集めると、それはたいそう、きれいな日々なのである。
さて、本日、夫の打ち合わせは主にサンドヒル・ロード沿いに点在するオフィスである。この、とても「オフィス街」とは思えぬ、見晴らしのいい、緑の豊かな場所。
夫をおろし、自分はオフィスのパーキングに車をとめ、リクライニングを倒して昼寝をしたり、本を読んだり、コンピュータを立ち上げて、どこぞのシグナルを借用してインターネットに接続したりする。
同じようなことを、数年前もやったな、と思い出しつつ。
ランチタイムはスタンフォード・ショッピングセンターへ。ここは相変わらずの、色とりどりの花々が美しい場所。母とも何度か訪れたものだ。
それにしても、人の笑顔が、とてもやさしい。米国では、すれ違う見知らぬ人同士が、しかし目が合えばにっこりとかすかに微笑み合うのが習慣であり。
ニューヨークでも、それは普通のことであったが、この地の方が、人々の視線が遥かにやさしい。
ぼんやりと考えごとをしながら歩いている時、予期せぬ笑顔を受け取ると、思いがけない親切を受けたような気にさえなる。
笑顔とは、なんと強力なパワーを秘めていることだろう。
翻ってインドでの日々。
道を歩けばついつい眉間に皺が寄り。
眼前の世界に繰り広げられるは、識別可能な著しき貧富の差。
あの国は、いったいなんだったか。
まだ日暮れまでには遠く、スタンフォード大学のキャンパスを散歩することにした。美しく手入れされた椰子の木が、規則正しく続く道を走り、キャンパスへと向かう。
車を停め、その、見事な芝生が広がる庭を横切り、歩く。なにもかもが、見事にきれい。きれいだ。こういうところで、勉強をできたなら、と、訪れるたびに思う。
今からでも、不可能ではないかもしれない。入試はとても難しいから、聴講生として。そんなシステムはあるのかしら。などと考えながら歩く。
思えばワシントンDC時代。ジョージタウン大学の、「英語集中コース」に通った時期があった。あくまでも、学費さえ払えば誰もが入れる3カ月の英語強化クラスである。
それでも、束の間、真の学生たちと学生気分を味わえたのは、貴重な経験だった。あのような気分をまた、味わってみたいとも思う。
アルヴィンドもまた、同じことを考えていたらしい。もう一度、学生をやりたいと。
17歳の彼は、インドを脱出するべく、米国のいくつもの大学を受験した。
夫がインドを離れたのは1990年。1991年の市場開放前夜である。当時のインドはまだ、立ち後れた第三世界で、大志を抱く少年には、活躍の舞台なき母国でしかなかった。
当時、慢性白血病で、自らの余命が限られているとわかっていたアルヴィンドの亡母アンジナは、しかし子供たちの将来を真摯に考え、自分の手から離れることがわかっていて、積極的に米国の大学に進学することを勧めていた。
大学の資料を集めたり、願書作成のタイピングをしたりと、さまざまにフォローしてくれたのだという。そういうお膳立てがあって初めて発揮できた彼の実力であり、彼女なくして、彼が米国の大学に進学することは難しかっただろう。
アンジナのことを思うたび、一度だけでも、お会いしたかったと思う。
さて、アルヴィンドであるが、合格した中から、このスタンフォード大学とMITのどちらを選ぶかで、大いに悩んだ末、MITを選んだ。
しかし、MITのあるボストンは、冬は寒く、周囲は自分を含めギーク(ガリ勉)ばかりで、当時かわいい女の子たちは希少で、ともかく勉強勉強で、かなり辛かったらしい。
だからこそ、5年ほど前だったか、初めてこの大学のキャンパスに足を踏み入れた彼は「ここに来ればよかった!」と激しく後悔していたのだった。
露出度満点のキュートな女学生に視線が釘付けになりながら、
「ここに通っていたら、僕の人生、違ってたとのに」
と、つぶやくことしきりだった。しかし今回は、
「僕、改めて学校に通いたいな」
と、口にした。17歳、18歳では選択できなかった「学ぶべきこと」は、社会に出て、経験を積んで見えてくることもある。尤も彼は、社会人になってMBAにも2年間通って猛勉強しているのだが、まだまだ、足りないのだろう。
わたしも、次元が違うにせよ、その気持ちはよくわかる。
何年かインドで過ごした後、本気で勉強がしたくなったら、また学校に進むことだって考えられる。そのときには、わたしも一緒に学生をやりたい。そのためにも、もっと英語の勉強をしておかねばなあ、と、しかし緩く、思うのだ。
カリフォルニアに来れば、カリフォルニアの思い出が、次々と蘇る。
わたしが初めて海外の土を踏んだ20歳のとき。その地はカリフォルニア、ロサンゼルスだった。それから仕事で、プライヴェートで、幾度かここを訪れた。
ニューヨークでミューズ・パブリッシングを起業して初めての遠方取材は、日本のクレジットカード情報誌の仕事での、西海岸縦断ドライヴだった。
シアトルから西海岸沿いに南下して、サンディエゴまでたどりつく。思い出深い旅だった。2002年あたりからは、デジタルカメラを購入して、ホームページに旅の記録を載せるようになった。
確認してみたところ、いろいろと出て来た。アルバムを持ち歩かなくても、コンピュータさえあれば、自分の思い出に再会できる。本当に、便利な世の中である。
以下、カリフォルニア関連の記録をピックアップしてみた。自分で言うのもなんだが、いずれも味わい深い記録である。
米国西海岸関連の、旅と暮らしの記録
【インド以前】
■片隅の風景@ワシントンDC:夫の出張に同行してベイエリアの旅 2004年12月
■アメリカ大陸横断ドライヴ紀行 2005年6月
■片隅の風景@カリフォルニア:暮らしの写真日記 2005年7月〜11月
■土曜の朝はファーマーズマーケットへ。 2005年8月
■母と一緒にサンフランシスコへ 2005年8月
■夫と母と3人で、海辺の街、サウサリートへ 2005年8月
■ぶどう畑とワインの週末。ナパヴァレーへドライヴ 2005年11月
【インド以降】
■ベイエリア&ヨセミテ国立公園 大自然満喫の旅 2007年4月
■香港、サンフランシスコ、ハワイ、ニューヨーク1カ月旅。 2006年4月