急に気温が下がり、雨が降ったり、青空がのぞいたり、風が強かったりしている。ニューヨークらしい、気候が急変する季節の変わり目。
インドから持って来ていたジャケット。インドでクリーニングに出していたのを、そのままスーツケースに入れて持って来て、ホテルで開けたら……。
インド臭い。
日本に帰った時にも家族に指摘されたことだが、インドにいると気づかないうちに、さまざまにスパイシーなインド臭が、身の回りにしみついているのである。
というか、むしろ「超個性的なパフュームの匂い」ができ上がって、逆効果。
仕方なく、クリーニングに出すことにした。
ホテルのクリーニングは「新しい衣服が買えるのでは?」というくらいに高いので、夫のビジネスシャツも数枚携えて、コロンバスサークル界隈にあるランドリーを訪れた。
と、支払いの段になって、驚く。ホテルよりは少し安いが、しかし高い!
夫のシャツ1枚のクリーニングが6ドル50セントとは! 昔は3ドル程度だった気がするが。確かカリフォルニア在住時は2ドルくらいだった気がするが。
自分のジャケットのクリーニング代がいくらだったかは、最早書くことさえ、憚られる。クリーニング代とは、日本もこんなに高いのだろうか。
Brooks Brothersのノンアイロンシャツが売れるのがよくわかる。あれは洗った後、乾燥機に入れて、完全に乾く直前に取り出してハンガーにかけておくと、ピシッとしわが伸びるのだ。
乾燥させすぎたものを乾燥機に放置しておくと、再びしわが寄ってしまうので注意が必要だけれど。
それにしてもだ。インドではアイロンが1枚3ルピー(6円)。この感覚に慣れているから、100倍な値段には、どうしても一瞬、驚いてしまう。
インドでは、都市部、特にムンバイの不動産は異常に高く、2ベッドルームのアパートメントが、ゴージャスでもなんでもないのに、家賃が50万円もするし、通信費や光熱費も高い。
家賃だけでなく、小じゃれたレストランなどは先進国価格を提示しているし、全体的に見れば、米国在住時と出費はあんまり変わらない、などと思うこともしばしばだが、しかし、こういう細々とした部分において、その差は歴然である。
さて、ランチは、タイムワーナービルディングの地下にある、WHOLE FOODS MARKETのEAT INへ。これまでも幾度か記したが、ここはオーガニックの食料品などもそろえた、米国でもクオリティの高いスーパーマーケットである。
わたしがこの近所に暮らしていたころは、まだオープンしていなかったが、ワシントンDCのジョージタウンに住んでいたころは近所にあったので、いつも利用していた。
ニューヨークに住んでいたころ、この店があったら、わたしの食生活はかなり向上していたのに、といつも思う。
仕事に追われているときなどは、ここのサラダバーなどで野菜や果物をあれこれと選び、サーモン寿司の一つでも買えば、優雅な夕食であったろう。
いつも同じレストランを数店、ローテーションに出前物を頼んでいたころもあった。野菜をたっぷりとるよう心がけてはいたが、今思えば、問題ありだった。よく元気でいられたものだ。
しばらく界隈をウインドーショッピングした後、日本の本が読みたくなり、またしても紀伊國屋書店まで南下する。重いから購入を思いとどまっていたのだが、やはり買った。
いろいろと、村上春樹の作品についても綴りたいことがあるのだが、尽きないので、やめておく。
ともあれ、本を携え、2階にあるカフェで、いつもと同じ「グリーンティラテ」を注文する。
ついでにロールケーキも買う。
日本的なふわふわのスポンジが懐かしい。食べ終えて、ページをめくる。まだ最初のところしか読んでいないが、そこにこんな一文があった。
「機会があるごとに、天吾はまわりの人に尋ねてみた。思い出せる人生の最初の情景は、何歳のころのものですかと。多くの人にとって、それは四歳か五歳のときのものだった。早くても三歳だった。それより前という例はひとつもない。(中略)少なくとも三歳になってかららしい。それより前の段階では、すべての情景は理解不能なカオスとして目に映る」
これは、ほんとうだろうか? だとすれば、わたしはかなり特殊なのか?
わたしが3歳半の時に、妹が生まれた。わたしには、妹が生まれる前の思い出が、たくさんある。多分、わたしの、父との思い出は、その3年半に集約されている。
父にとってどうだったかは知らないが、少なくとも、わたしにとっては。
乳母車に乗っているときの記憶もある。あれは1歳になったばかりのことだろう。
1歳半のとき、家を引っ越して、歩き始めたばかりのわたしは、門のあたりの緩やかな下り坂を歩いて降りられず、お尻をついてずるずると降りて行った。
そのときの、砂利のざらざらとした感触も覚えている。
2歳くらいになると、父からカメラを向けられるのがいやになった時期があり、わざと変な顔をしたり、タンスの後ろに隠れたりした。
今は埋め立てられた近所の海岸を、夕暮れ時、父と散歩をしていて、下駄の鼻緒が切れた時、父がおぶってくれたのは、夢の中のできごとのように、麗しい記憶だ。
母が妊娠して、苅田の父方の祖父母の家に預けられたこと。父のトラックの助手席に乗って、苅田まで行ったものだ。その日は、短く切られた過ぎた前髪が気に入らなくて、泣いた。肌にくっついたままだったのだろう、髪の毛がちくちくして、それもいやだった。
しかし、本当は、父が帰ってしまうのが、寂しかった。
3歳とはいえ体格もよく、しっかりしていたわたしは、いろいろなお手伝いができた。
中でも、グリーンピースのサヤから豆を取り出すのが好きで、祖母の家では、よく手伝っていた。
しかし、夜は寂しかった。遠くに見えるシェル石油の看板が、その寂しさを凝縮していた。祖母が団扇で扇ぎながら、添い寝をしてくれた。夏だったから、3歳になるかならないかのころだろう。母はつわりがひどかったのかもしれない。
昼間、寂しくて、台所で、突然大声で泣いて、祖母や叔母を困らせたこともあった。よちよち歩きの、年下の従兄弟のかつみくんが、びっくりしてわたしを見ていた。
おばさんやおばあちゃんから、「かつみくんに、笑われるよ。お姉さんは泣いちゃいかんよ」
と言われて、そんなことはどうでもいい、泣きたいんだと思いながら、泣いた。台所に並んだ鍋や釜やボウルなどが、涙で歪んで見えるのが、面白かった。
次の日、おばあちゃんが買い物に連れて行ってくれた。
小さくてふわふわのスピッツ(イヌ)がくっついた、小さな電気スタンドのような飾り。たいして欲しいと思わなかったが、どれが欲しいかと言われて、取り敢えず、それを選んだ。
嘉穂郡の、母方の祖父母を巡る記憶もとても多い。
あの夜の記憶はまた、鮮明だ。あれもまた、妹が生まれる前だから、2歳か3歳のことだろう。嘉穂のどの駅からだろう、叔父や叔母や従兄弟たちが、名古屋へ集団就職に向かった。わたしは手に、チョコボールを持っていた。
蒸気機関車の汽笛が鳴る。蒸気が吹き出す。祖父が、涙を流しながら、動き出した列車を追いかける。普段、穏やかな祖父の感情のほとばしりに、驚いた。
妹が生まれる間際は、彼女の誕生を、父と心待ちにしていた。出勤前の父と、生まれてくるのは男がいいか、女がいいかで、いつも楽しく言い合った。
父はいつも、「男の子がいい!」といい、わたしはいつも「女の子がいい!」と言った。尤も、父は男でも女でもいいと思っていて、ただ、わたしとそうやって、言い合うことが楽しかったのだと思う。
そうして、車に乗り込んだ父を、角を曲がって見えなくなるまで、手を振った。父は、いつも、右折する間際、窓から右手を出して振ってくれた。
……と、こんな風に、次々に、3歳前の記憶が鮮やかに、その心情も含めて、蘇ってくるのだ。まだまだ例を挙げればきりがない。具体的に、鮮明に、記憶が蘇ってくる。
これは、特殊なことなんだろうか。特殊なことだとして、それは何かに有効利用できるのだろうか。どう考えても、今更、特に活用法はないと思われる。
やれやれ。
村上春樹からは、ずいぶんと話がそれてしまった。ニューヨークに来てまで、わざわざ書くようなことでもないことを書いているような気もするが。ともあれ。