再び、暖かな日が戻って来た。うれしい。予定が確定せぬまま、突然のニューヨーク来訪だったが、ともあれ月曜日まではここに滞在となった。
火曜日の午後にはサンフランシスコに向かう。しかし、滞在するのはサンフランシスコ市街ではなく、その南に広がるベイエリア。シリコンヴァレー界隈だ。
夫の仕事関係のオフィスが集中するメンローパークに近いパロアルトのホテルに予約を入れた。インド移住前、半年ほど暮らしたサニーヴェールにも、足を運んでみようと思う。
夫はサンフランシスコの北部に位置するカリフォルニアワインの産地、ナパ・ヴァレーに行きたがっているが、打ち合わせの予定がいっぱいで、無理のようだ。
今日はひとりでゆっくりと過ごそうと思う。天気がいいので、まずはセントラルパークへ。しばらく読書をしたあと、ランチを食べに街へ戻り、57丁目から五番街にかけてのあたりをウインドーショッピングする。
途中でコーヒーを飲みながら、本を読む。そしてまた、街を歩き始める。
途中で、Brook Stoneという店に立ち寄る。マッサージ機とか、テンピュールピローとか、便利小物などを売っている店だ。そこで、不思議なものを見つけた。
いくつも並べられた小さな水槽。その中には、小石やミニ竹などと一緒に、2匹のカエルが入っている。とんとん、と水槽の表面を叩くと、カエルは動く。本物のカエルだ。
「そのカエルは、5年ほども生きるんですよ」
背後から、店員のお兄さんが言う。
「その水槽は、カエルにとって理想的な環境なんです。外敵がなく、生きるのに必要な条件が揃っている。ほら、この2年分の餌、この餌を週に2回与えて、1年に2回、水を換えるだけでいいんですよ」
カエルにとって理想的な環境?
頭の中が真っ白になる思いだった。
例えばカゴの鳥にしても、水槽の亀や金魚にしても、同じことかもしれない。しかし、生命力を感じさせないその水槽の中で、まるで「モノ」のように売られているカエルが、とてつもなく気の毒に思えた。
こんな世界で、5年も生きねばならないなんて。ペラペラと、弱々しいカエルをしばし眺め、わけのわからぬ気持ちのまま、店を出たのだった。
Frog-O-Sphere Ecosystem with 2 Aquatic Frogs
右上の写真。五番街で見るインドの国旗。そう、このホテル・ピエールは、数年前にインドのTAJ GROUPに買収されたのだ。
こんなところで出会うインドの国旗は、なぜか心にぐっと染み入る。
五番街のブティックなどを、いくつか訪れた後は、再びセントラルパークに戻る。暑すぎもせず、寒すぎもせず、ちょうど心地の良い気温。こういう日に遭遇できるのは、本当に幸せなことだ。
太陽の熱で温まった「古代からの岩石」に座って、これは岩盤浴のようなものかもしれない、と思いつつ、本を広げて、読む。
ところで、光に反射して普段よりも髪の毛がつやつやに見えるわたしだが、実際、いつもよりもつやつやである。
というのも、昔から、わたしには、ニューヨークの水が合う、のだ。住んでいる時には気づかなかったが、ワシントンDCに移って、水が合わずに困った。同じシャンプーを使っても、髪がぱさぱさになる。
だから数カ月おきにニューヨークを訪れ、ホテルをでシャワーを浴びるとき、その水の滑らかな心地よさに、いつもほっとしていた。水の感触が、とてもいいのだ。
聞くところによると、ニューヨークもDCも、水質は硬水らしいのだが、わたしにとっては、ニューヨークの水が断然柔らかく感じる。むしろ石けんの泡切れも悪いくらい、つまり温泉的な肌触りなのだ。
今回、インドから持参した、いつものKHADIのシャンプー(約300円)を使っているにも関わらず、しかもコンディショナーを忘れたので、シャンプーのみの使用にも関わらず、毎日しっとり艶やかである。
これはつまり、どんなにシャンプーやコンディショナーを厳選してみたところで、水が合わなかったらどうしようもない、ということであろう。
ちなみにインドでは、概ねパサパサな髪である。
小枝やドングリが散らばる木陰の芝生の上に、腰掛ける。そして、本を読む。時折、本から目を離して、周りの光景を眺める。人々の様子を眺める。
空を見上げる。ゆっくりと、雲が移動している。遠近感がおかしくなって、雲が間近に迫っているように見える。
ここに住んでいたころは、こんな風に日がな一日、公園で本を読むという精神的な余裕が、ほとんどなかった。
週末、フィラデルフィアやワシントンDCに住んでいた、当時ボーイフレンドだったアルヴィンドがニューヨークを訪れ、二人して公園で過ごすことは少なくなかったが、しかし、心にはいつも、一抹の強い焦燥があった。
そもそも、こんな風に心地のよい気候を楽しめるのは、一年のうちに半分もない。その半分のうちの、週末だけを数えても、20数回。その20数回のうち、天気がよくて、公園でゆっくりと過ごせる心境にある日は、多分、数えるほどしかなかった。
だから今、こうして一人でのんびりと、時間を気にすることなく、好きなだけ本を読んでいられるということが、とても有り難く、そしてうれしい。
住んでいるときには見えなかったことが、離れてみて、よく見える。
太陽の光が傾き始めるころ、ホテルに戻った。ほどなくして、夫も戻って来た。
疲れているようだが、しかし清々しい笑顔を浮かべている。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外しながら、いつものように、今日の出来事を復習するように、語り始める。
今日はミッドタウンのとあるオフィスで、終日ミーティングだった彼。
トップエグゼクティヴをはじめ、各部門の精鋭たち12人と、一人ずつ個別に約30分ずつ、延々とインド市場に関するミーティングを続けたらしい。
途中でランチ休憩があったらしいが、それにしても、次々に鋭い質問をかっとばしてくる人々と、連続して打ち合わせるには、相当な集中力が必要だったに違いない。
それでも、インドに強く関心を持つと同時に、深く理解している人たちと踏み込んだ話ができて、彼もいい時間を持てたようである。中には、流暢なヒンディー語で話を進めるロシア人もいたとかで、夫は舌を巻いていた。
次から次へと、ミーティングをこなす。それはあたかも、ミーティング、椀子そば状態である。そう思ったわたしは、夫の労をねぎらいたく、日本語で、言った。
オツカレサマデシタ。
すると彼は、微笑みながら、こう言うのだった。
ゴチソウサマデシタ!
……なにがなんだか。