↑いつもいつも、光り輝くトマトの陳列。これほどまで几帳面にトマトを積み上げている店を、わたしは生まれてこのかた、一度もみたことがない。
インドに暮らして丸4年。うち半分はムンバイとの二都市生活で、バンガロール宅の滞在は月に1週間程度だった。海外行きなどで戻れない月もあったから、合計すれば非常に短い期間だ。
その間、目をつぶって来た、あるいは気づかずにいたさまざまな不都合が、露見し始める昨今。多分、他人から見れば取るに足らないことばかりなのだが、細部に神経が行き渡ってしまう性分につき、一旦目に入ると、改善せずにはいられなくなる。
具体例を挙げるのも面倒なので割愛するが、何事に於いても、怠惰に蓄積するのではなく、日々メンテナンスをしながら快適な環境を整えることが大切だと実感する。
さて、今日は久しぶりにラッセルマーケットへ赴いた。最後に足を運んだのは、あの『仰天ライフ』の撮影以来だから、2年弱ぶりだ。やはり地元市場は、品揃えも豊富で鮮度も高い。
行きつけの果物屋のお兄さんも笑顔で声をかけてくれ、なにやら「懐かしい気持ち」にすらさせられる。リンゴやバナナ、パイナップル、ザクロなど日常の果物に加え、今がシーズンのイチゴやブドウも買った。
先ほど、夕食後、何も今やらなくてもいいのに。と思いつつ、キッチンの引き出しの大掃除をしながら、イチゴを煮込んでジャムを作った。イチゴジャム作りも、菓子焼きに負けないくらいの、いい香りを放ってくれる。
ところで、このごろは、インターネットというものの存在の大きさに、改めて嘆息だ。
わたしが初めてコンピュータを購入したのは1996年3月。ニューヨークへの1年間(の予定だった)語学留学を控え、Windows 95搭載のコンパックのラップトップを買ったのだ。
それまでは、ワープロを使用しての仕事であった。原稿はプリントアウトしてファックスで送ったり、そのまま届けたり、あるいはフロッピーディスクで渡したりした。
ニューヨークに移り、アパートメントを借り、電話回線を得たときから、「ダイヤルアップ」のインターネットに接続し、電子メールなるものを初めて送受信するようになった。
ピ〜ヒャラヒャラヒャラペ〜
と音をたてて、わたしは世界とつながったものである。
1998年に、前年起業したミューズパブリッシングの社員として新たな一歩を踏み出したとき、アップルのコンピュータを買った。2000年に、初めてホームページを作った。ここから、わたしの「インターネットで世界と結びつく人生」が始まった。
たかが10年。されど10年。
「まぐまぐ」でメールマガジンを始めたのが2000年9月。『ニューヨークで働くわたしのエッセイ&ダイアリー』。敢えてタイトルを直裁にしたせいか、2000人近くもの読者が購読を申し込んでくれた。
その後、増減はあったものの、そして皆が読んでいるかどうかはまた話は別だが、それでも多くの人が関心を持ってくれていたように思う。
それをうれしく思うと同時に、「プロのライターとして」無料で文章を公表することには、抵抗があった。その抵抗は、今でも形を変えながら、微妙に続いている。
2003年あたりには、自分の日記は「サロン・ド・ミューズ」というコーナーに記し、アンケートに答えてくれた読者にだけ、パスワード制で公開した。長いアンケートに100名を超える方々が答えてくれたことは、うれしかった。
そして2005年。すでに「ブログ」なるものの存在が、世の中に浸透し始めているころだった。わたしはブログにこそ、足を踏み入れたくないと思っていた。説明は省くが、文筆を生業としている人ならば、その気持ちを理解してくれるだろう。
しかし、インドに移るのを機に、清水の舞台でカラオケを歌うくらいの気持ちで、ブログを始めた。
ライターという職業とはなんなのか。最近よくわからない。「普通に」文章力があり、「普通に」表現力があれば、今の世の中、みなライターなのかもしれない。
すばらしい書き手が世の中にいる一方、「どうしてこの書き手が人気なの?」と、心底、わけがわからなくなるような、文書を目にすることも多い。
ライターには免許も資格も必要ないから、一度でも、何らかのメディアに文章を書き、そこで報酬を得れば、その瞬間から「ライター」を名乗れるのである。
思えば職業を尋ねられたら、たいてい「ライター」と答えて来た。旅行ガイドブックの編集者から始まった我がキャリアだが、編集者としての仕事は、ここしばらくしていない。
とはいえ、27歳で独立して以来、ライターとしてだけで食べて来たことは一度もなかった。ライターとしてだけでは、自分が望むだけのお金を稼げないことがわかっていたからだ。
だから、いくつもの仕事を掛け持ちするのに加え、写真を撮ったり、コーディネーションをしたり、ニューヨークに移ってからは、印刷の手配や広告関係の仕事、リサーチ、デザイン、レイアウト、さまざまな仕事を学びながら手がけてきた。現在も、ライターとしての仕事の利益は、ほんの一部だ。
本を一冊出したには出したが、あとはあちらこちらに原稿を書く、無名のライターである。有名な作家でもない限り、文筆業だけで高収入を得るのは、決して簡単ではない。
「専門分野」が明確なライターであれば、それを実現している人もあるかもしれないが、わたしのようにあれこれと広く浅く書いている人間には、よほど数をこなさない限り、難しい。
いかん、話が益々くどくなってきた。
ともあれ、自分の文章を多くの人に読んでもらいたいのか、それともライターにも関わらず、タダで情報を、文章を放出して、それでいいのか自分、もっと営業をして、仕事としての執筆を増やすのが筋じゃないのか自分、という気持ちとが、折に触れてせめぎあうこと少なくないここ4年なのだった。
かくなる次第で、わたしの職業は厳密に言えば、「ライター」ではない。だから最早、固執しなくていいのだ。溶け込めばいいのだ。
せっかく書くのなら、読まれたい。
それは、本音だ。だからこそ、ブログもはじめてみた。しかも4年も続いている。しかし、読解力のない人に読まれて、なんやらかんやら言われるのはいやだし、あれこれと情報提供を乞われるのもいやだ。
そんなことからコメント欄をいれずに、コミュニケーションの場としてのブログではなく、わたしが書きたいから書くサイトにしてきたのだった。
しかし、ここに来て、徐々に考えが変わってきた。
それは、インターネット上で表現する場所が、あまりにも著しく、変化しているからだ。ブログだけでなく、facebook, twitterと、書く場所はさまざまにある。
膨大な数の書き手がいて、膨大な数の書く場所、読む場所が存在し、主婦だろうが学生さんだろうがご隠居さんだろうがミュージシャンだろうがコンピュータプログラマーだろうがバンカーだろうが関取だろうがバレエリーナだろうがなんだろうが、人間是ライター、なのである。
いかん。自分が何を書きたいかわからなくなってきた。ライター失格。
珍しく、中途半端なままだが、本日はこれにて失礼。
多くの情報をタダで得ているくせに、「情報は、タダではない」と言いたい気持ちがあった。
有料の情報と、無料の情報。その二つを隔てる定義とは、いったいなんなのだ?
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■ヒマラヤ産コシヒカリをマニプールの釜で炊く。