今回の旅は天候に恵まれているだけで、ずいぶんと幸運だ。本日、日曜日もまた、好天で、気温もほどよく、気持ちのよい一日だった。
昨日土曜日は、以前バンガロールに暮らしていたエミさんとショーンが郊外から車で駆けつけてくれた。
バンガロールで妊娠し、ニューヨークで出産した長男もすでに3歳。
半年ぶりの再会を喜び合い、近況報告をし合う。
バンガロール移住当初に彼女たちと過ごした1年足らずの記憶が、会うたびに遠のいて行く。
今回の旅。今まで以上に、自分がずいぶんと、歳を重ねたということを痛感している。
半年おきに訪れているこの街で、前回と今回とで決定的に異なることなどはなにもないのだが、しかし、自分が歳をとったな、と思う。
初めてニューヨークの土を踏んだのが30歳。45歳を目前にした今とでは、心境が異なるのは当然のことなのだが、前回にも増して今回は、明確に、加齢感。
老眼が進んだとか、歯の具合がいまひとつとか、シワやたるみが気になるとか、そういう諸々の現象が、いつもとは違う鏡に映すと、際立って見える、ということもある。
当たり前のことだが、肉体と精神は、呼応し合って、生きている。
しかし、今回は精神面において、自分自身に変化を感じる。加齢、というよりは、むしろ成長、と呼ぶ方がいいのかもしれない。
この街に住んでいたころのことを思い返すときも、なにやら、遠くなってきた。
そもそも、記憶を鮮明に封じ込めている方だと思うのだが、一つ一つの記憶を取り出す時、そこに積もっている埃の厚みに、ハッとするのだ。
東京時代の、20代のころの記憶に至っては、もう幻のように遠い気がする。
第二のブログにも記したが、紀伊國屋書店で購入した本の一冊に、須賀敦子著のエッセイがある。
日本に住んでいたころは、彼女のことを知らず、読んだこともなかったのだが、今年の1月、インドを訪れたクライアントの方から、彼女の名を聞いた。
わたしよりも更に歳を重ねてのち、しかし彼女が若かりし頃の経験を綴ったその本。
細部の描写が、あまりにも鮮明。
一つの出来事を、ただ丁寧に綴っている。
彼女の何たるかを、背景を、多くを語らずとも、彼女の言葉から透けて見える人となり。
その、読み手との間の、「付かず離れず」というほどよい距離感。
『街の灯』。
わたしには、たった一冊の著書が在る。
すでにそれは、過去の欠片で、しかし唯一で。
出版してから8年が過ぎようとしている。しかし次に続く本を書きたい、出版したいという衝動が、未だに沸かない。
沸かないがしかし、本という形に残せるような、文章の書き方、残し方、在り方、というものに、改めて向き合うべきとも、思う。
もう、あふれるほどにあらゆる文章が氾濫しているインターネット世界で、ブログ上に綴る言葉の方が圧倒的に多い歳月。
わたしはなにをどのように、表現していきたいのか。もう、随分と久しく、何年もの間、こういう自問を繰り返しているのだ。
ということを、旅をすると、殊更に、思う。
書き捨てる。読み捨てる。無数の有り難みのない言葉を生むよりも。
しかしそれは、誰がために? わたしのために? あなたのために?
★更なるNY滞在記録はこちら→インド発、元気なキレイを目指す日々