■迫り来るガジェッツの波を、かわしつつ、すくい上げて、残るもの。
1988年。新卒で就職した旅行関係の出版物を制作するプロダクション。外部ライターの原稿はすべて原稿用紙に手書きだった。
1991年。転職し、初めてアップルのコンピュータに触れた。小さなブラウン管のテレビのようなそれを、ワープロとしてしか使っていなかった。
1994年。東京でフリーライターをしていたころのわたしは、SANYOのワープロが商売道具だった。
1996年。東京を離れ、ニューヨークへ渡る直前に購入したのはコンパックのパソコン。WINDOWS 95が搭載されていた。インターネットの接続は電話回線で、つなぐたびに、「ぴ〜ひゃらひゃらひゃらぺ〜」という音がした。
1997年。Muse Publishing, Inc. を設立するのを機に、「一人制作プロダクション機能」を果たすべく、アップルのコンピュータを買った。DTP(デスクトップパブリッシング)に必要なソフトを買いそろえ、試行錯誤して使用方法を習得した。
1998年。アルヴィンドから携帯電話をプレゼントされた。オレンジ色のNOKIA。それが初めての携帯電話だった(遅っ)。
こうして過去の記録と即座に向き合えることもまた、インターネットのすごさ。
ともあれ、右のデカイ電話が初代。左の小さいのは2002年に購入。しかし小さすぎて、使い勝手が悪かった。その後、SAMSUNGの折りたたみ式に買い替えた。
1999年。Muse Publishing, Inc.のホームページを立ち上げた。メルマガを始めた。
2000年。MacBookも購入した。
2000年。初めてのデジタルカメラを購入した。
2005年。デスクトップは使わず、以降、MacBook、iBook、MacBook Proなど、ノートパソコンを買い替えつつ使用する日々……。
と、軽く復習してみたのはなぜだろう。
そうだ。ここに来て「基本アナログ」であり「ミニマムにデジタル」なわたしも、やっぱりiPhoneとiPadがあった方が便利かも、と真剣に思い始めたからだ。
いや、これまでにも何度となくそんなことは書いてきた。そもそも昨年の8月、インドでもiPhone 3Gsが発売されるというので、誕生日にそれを買うつもりだった。しかし発売されないまま月日が流れて今年。
ふと思い出し、やっぱり買おうと思い立った矢先、今度はiPhone4が発売された。インドでは9月より販売開始という。さあらば、新しい物が出るまで待ちたい。
そうこうしているうちに、また次のモデルが発表されて……ということを、延々と繰り返しそうである。ともあれ、iPhone4はインドで発売されたら、今度こそ購入する予定だ。
それからiPad。こちらは、日本の書籍を購入、ダウンロードして読める仕組みがシンプル化した段階で、多分購入することになるだろう。
海外に住んでいるからこそ、実はこのような新しいガジェッツの利便性が身にしみる場合もある。国境を越えて母国と触れ合える。仕事ができる。
1999年にホームページを立ち上げて以来、日本から受ける仕事の大半は「ホームページを通して」であった。
インドに来てから入って来る仕事は、自分が営業をしたもの、あるいは知人から紹介を受けたもの以外、やはりすべてがホームページ、あるいはブログを通してである。
モダンなテクノロジーあっての、わが仕事である。
そして最近、Twitterというものが加わり始めた。
すでに数名の方から、仕事関連の問い合わせを、Twitterを通して、受けている。
Twitterとは、いろいろな意味で興味深くも恐ろしい。わたしは情報の渦で窒息しそうになるのを避ける意味でも、「フォロー」はほとんどしていない。まだ、使いこなせる自信も使いこなしたい衝動もない。
一方、3桁、あるいは4桁もの人たちをフォローし、フォローされている世間の人々の存在を目にする。尤も、わたしのTwitterをフォローしている人のTwitterを訪れての情報ではあるが。
携帯電話などで、それらの流れる言葉を眺めるように読みながら、自分にとって有益な情報をピックアップするのだろうか。いずれにしても、そのすばやすぎる感覚にはついていけないし、今のところはついていこうとも思わない。
ただ、使い方によっては、自分と目的や嗜好を同じくする人を見つけやすいし、有効利用の可能性に満ちているのだろう潜在力は、素人なわたしにも察知できる。だからこそ、大勢の人々や企業が使っているのだろう。
それにしても。この中毒になりそうなほどの、活字の量と、世間の人々のつぶやきと。
こんな風にしみじみと、日曜の午後、デスクに向かって、窓の向こうの緑を眺めつつ、言葉を綴っていることすら、前時代的な行いに映るようで。
ところで、新規での仕事の打診、依頼に関するメールを受け取った際、わたしは必ず一度、電話でお話をするようにしている。それはニューヨーク在住時から続けている習慣だ。
メールでのやりとりだと、行き違いも発生するし、互いの文章力、読解力の誤差から生じるトラブルも少なくない。しかし、電話でのやりとりもまた、一長一短。
これまでも、「お仕事としてお願いしたい」「近々インドへ訪問するのでアテンドをお願いしたい」などとの話で、電話をもらったことがたびたびあった。
電話であれこれと尋ねられ、こちらが相当の情報を提供したにも関わらず、「近々ご連絡します」との言葉を最後に、音信不通というのはよくあることだ。
情報に対する価値。人の時間をもらうことの意味。そのあたりの定義はもう、ハチャメチャであろう。自分で調べなくても、足を運ばなくても、そこそこの情報、ならば簡単に手に入る。
目に見えない相手の真意をはかることは難しい。あからさまに、電話で無礼を言われたこともある。インドに関心を持つ人には、個性的な方も多いようである。そんなケースはむしろ、お断りしやすいのでいい。
便利であるべきものを、便利に使う。便利が行き過ぎて不便にならないように。
不都合が生じ、小さな軋轢が満ちあふれないように。
マナーの定義、常識の定義も、千差万別で、スタンダードをはかれない。
互いにとって、有益な関係でいられる仕事に出合うために、わたし自身もネットワークを駆使して、もっと自らアプローチする必要があるのだろうか。そんな風にも考えさせられる、このごろは、この情報の大海の岸辺にて。
今年のバンガロールは、本当に涼しい。曇天の日も多く、夏好きなわたしとしては、もっとカ〜ッと照りつける太陽も望むところなのだが、猛暑日本列島に住まう人からは「なにを贅沢な!」と言われそうなので、これ以上は言うまい。
この週末は、それでも時折、青空が見えた。昨日はクローゼットの冬物衣類を取り出して虫干し。思えばインド移住以来、5年以上も着用していない冬のコートやセーターなど。
時折訪れるニューヨークはじめ、寒い土地を訪れる際に着ることもあろうかと保存しているが、かさばるコートなどは持参することがなく、まさにタンスの肥やしと化している。
衣類は適宜処分する人生。たとえば引っ越しのたびに。そもそも高級ブランドの衣類などはほとんど持っていないので、処分に躊躇する程度も知れている。
インドに来てからは、数年着用しない物は寄付するようにもしている。無駄に場所をとるものを増やしたくない。なるたけ身軽に、物に埋もれたくはないと思う。しかしながら、気がつけばクローゼットはいっぱいになっていて、時折の見直しが必要なのだ。
その点、サリーは収納に便利な衣類。この家の内装工事の際、クローゼットに「サリー収納用」のコーナーを設けたが、まだまだ余裕がある。サリーは折り畳んでハンガーにかければ場所をとらないのだ。
しかもサリーは、着なくなった後の応用の幅が広い。基本、5メートルの1枚布であるから、何にでも作り直せる。我が家お気に入りの、GOOD EARTHのブランケット"Dohar"も、その伝統を汲むものである。
このブランケットは、幼少時からタオルケット好きだったわたしにとって、その代替品として余りある優秀な存在であった。
ちなみにタオルケットとは「タオル」と「ブランケット」を合体させた和製英語であるだけに、日本ならではの商品だ。海外の寝具売り場で「タオルケットください」といっても、通じない。通じないし、基本、売られていない。
日曜の午後。夫は今、アーユルヴェーダの診療所でマッサージを受けているところだ。昨年末、アーユルヴェーダグラムで1週間の滞在をする前は、「男性からマッサージを受けるのはいやだ」と頑に拒んでいた。
従っては、バンヤンツリーグループのスパで、タイから派遣されたエステティシャンがトリートメントを施してくれるところのアンサナ・スパが、彼のいきつけであった。
確かに、アンサナは雰囲気もいいし、心身ともに優雅にリラックスできる。オイルも「まみれない程度」に使用され、品がある。なにしろ、エステティシャンのスキルが高く、心地が良い。
一方で、アーユルヴェーダはマッサージの最中の気持ちよさは、アンサナに劣るものの、その後の効果が違う。オイルは決して「いい匂い〜」とは言い難い、むしろ「臭い」ともいえるものだが、皮膚はしっとり、いやねっとりと潤うし、「薬効が効いている!」の実感がある。
わたしは双方を気分とコンディションに応じて使い分けているが、腰痛や肩こりなど深刻な疾患があるときには、アーユルヴェーダのオイルマッサージの方が効くと思っている。
そんな次第で、先日、アーユルヴェーダグラムの姉妹店を我が家から車で15分ほどの場所に見つけたため、そこに通い始めた。
最初は躊躇していた夫だが、久しぶりに訪れたところ、その後の「身体の疲れが取れて、その後、力がみなぎってくる」感じに好印象を受けたようで、今週もまた足を運んでいる次第だ。アンサナに比べて値段は1/3とリーズナブルでもある。もちろん、設備もムードもエレガントではないが、プラクティカル、実践的だ。
何かとストレスのたまるインドでの生活&ビジネス(わたしはさほどたまってないが)。一方で、このように疲労を癒せる場所に気軽に赴くことができるというのが、本当によい。
■アーユルヴェーダ診療所でマッサージ(←Click! キレイなブログの記事)
そうこうしているうちに、夫、帰宅。
「マッサージ、どうだった?」
「まあまあだった」
「どうして?」
「一人の男の手が荒れていて、あと、二人がしゃべるのがうるさかった。しゃべらないでって言ったけどね」
確かに、こういうこともある。本人にさえ気づかない、ほんの小さなささくれが、肌に触れると大いに不快になるのがまた、オイルマッサージである。手は大事。
加えてアビヤンガとは、二人がかりで身体の左右から対照にマッサージをしてくれる。場合によっては二人がおしゃべりをすることもある。そのあたり、庶民派診療所はサーヴィスが徹底していない。
なんだかんだと、一長一短だ。
インド発、元気なキレイを目指す日々(第二の坂田ブログ)(←Click)