先日、日本に帰国して思うところは多々あった。ということは、先日の西日本新聞の記事を掲載した際にも記した。
限られた文字数の中で思うところを伝えるのは簡単ではないし、まだまだ書ききれていない「所感」もたくさんある。
このまま年を越してしまうと、改めてここに記すこともなくなってしまいそうなので、どうしても書いておきたいことだけを記しておこう。
「老衰」と「延命治療」についてだ。
わたしの母方の祖父は、わたしが4歳のころ他界した。70歳と少し、だったと思う。
直接の原因は「餅を喉に詰まらせて」という、まるでギャグのような理由であったが、それはきれいな死に顔だった。
ちなみにわたしは幼少時の記憶が鮮明であるので、祖父と遊んだ記憶、会話した記憶はしっかりと覚えている。
餅に喉を詰まらせたのは、ある冬の日の、夕刻のこと。その直前に、祖父は銭湯へ行って身ぎれいにし、なぜか家の下に野良猫がいるから追い払いたいと猫を気にした。
そのあと、みかんを食べ、餅を食べ、喉に詰まらせて、亡くなったという。苦しんだ時間は短かったと聞く。わたしたちが到着した時、畳の間に布団が敷かれていた。
布団には、祖父が横たわり、白い布が顔にかけられている。茶碗にこんもりと盛られた白飯。突き立てられた1本の箸。そして線香の匂い。枕元で、祖母が声を上げて、泣いていた。
それは、今であれば「事故」とされているのかもしれないが、しかしわたしたちは祖父の死を、「老衰だった」と認識してきた。
一方、父方、母方、双方の祖母は、90歳を過ぎて、つい数年前まで生きていた。しかし、彼女たちの、最後の十数年、いや20年近くは、「生きていた」と呼ぶには難い、歳月であった。
父方の母は、久しく恍惚の人で、先に他界した父、つまり彼女にとっての息子に会っても認識することができず、当然息子の死も、伝わってはいなかった。
このような例は、我が家に限らず、日本中にあふれているだろう。
だからこそ、7歳年下の夫がなにかにつけて、
「ミホは僕より長生きするよ。だって、ミホは世界で一番の長寿国の日本人だからね」
と言うのを、笑って聞き流すことができない。
ロスに住む同じ歳の友人がいる。彼女の母方の祖母はご健在で、90歳を過ぎても元気だったのが、あるときを境に急に老化が著しくなった。
東京在住の彼女の母(70代)が、祖母の面倒をみることになるのだが、東京ではホームも簡単には見つからず、まさに老老介護の状況に陥っていることを憂いていた。
そのおばあさんはまもなく100歳だと言う。
「**が痛い」「だるい」「なんでこんな思いをしなくちゃならないのか」「早く死にたい」
と、口癖のように言うという。
それは、わたしの母方の祖母もそうだった。
「早く死にたい」
家族が見舞うたびに、そう口にしていた。
こんなことを、わたしがわざわざインドから発信することではないかもしれない。しかし、敢えて書いているのは、「渦中にいると、違和感なく、それが普通のこと」に思えてしまいがちだからだ。
わたしが日本に住んでいた頃は、「年寄りが病院やホームで、死にたいといいながらなかなか死ねず、ついには恍惚の人になって、身体の器官がぼろぼろになって、ようやく死ねる」という事態を、「一般的なこと」として認識していた。
それが、「普通なのだ」と、いつしか思うようになっていた。
しかし、一旦、国を離れて客観的に見れば、それがいかに異様なことなのかがわかる。この際、どの国がよくて、どの国が悪いという比較をしているのではない。
米国や欧州やインドに比して、日本がどうのこうのと言っているのではない。ただ、複数の国、都市で暮らした経験があり、多くの異人種の価値観をつぶさにしてきたうえで、感じることは、当然あり、その上で記している。
日本に関して言えば「世界一の長寿国」であることが、かつては、多分、ポジティヴに捉えられてきた。
しかしそのことが、いかに大きな問題を孕んでいるかを懸念しているのは、もはや日本人だけではない。
たとえば、左の写真。
ウェブサイトの記事を印刷したので、白黒であるが、先月20日発行のThe Economistだ。
日本に関する特集が組まれている。
夕張市の話題を皮切りに、日本の高齢化社会やソサエティの現状、雇用問題、企業のカルチャーなどがレポートされている。
従来、日本人とは長寿であり、それが医療の向上や食生活のよさと結びつけられて考えられてきた。しかし、それは決して「望ましい世界」ではないということを、多くの人が認識しているはずだ。
一つ一つの事柄について例を挙げて語るときりがないので、取り敢えず今日のところは、PEG(胃ろう)についてだけを、記しておく。
PEG(胃ろう)
ご存知の方は、多いのだろうか? わたしは、今回帰国し、福岡の総合病院で看護師長をしている中学時代の同級生と20数年ぶりに再会した折、彼女の口から聞いて初めて知った。
久しぶりの再会にも関わらず、熱く語り合ったのは日本の高齢化社会とその実態についてだった。
ここ数年の間に、入院している高齢者の患者家族に対して、ドクターが「PEG」の使用を促すケースが増えているという。
食事ができなくなった疾患者のために、胃に穴をあけて管を通し、栄養分を摂取させるという技術らしい。たとえば、意識があり、将来治癒の可能性や見込みがある人たちに、この治療法は偉大なる救いであるに違いない。
しかし、すでにアルツハイマーとなり、嚥下力が損なわれ、衰弱している老人にさえも、この処置を積極的に受けさせているというのだ。
つまり、死ぬに死ねない老人が、今、いっそう増えている、というのである。言うまでもなく、意識のない老人は延々と生き延びる。
その間の治療費は、いったいどこから出て来るのか。誰が捻出しているのか。
言わずもがなである。
友人曰く、一旦PEGを取り付けると、途中で抜き取ることができないという。「植物状態」が延々と続く可能性もあり、家族が後悔するケースが少なくないとのこと。
「PEGを使っての、高齢者の延命には、問題がある」
「使わんでほしい」
と言い切っていた彼女。このことを、どこかに書いて欲しいと、彼女から言われていたのだが、わたし自身が、その世界に対してまだ勉強不足であるため、外部の記事にするには憚られる。
あくまでも、この個人のブログ内で、現在持ちうる知識のなかで判断したことを書き記しておくに、個人的にいえば、自分の身の回りの人間(高齢者)に対して、この延命治療を受けさせたくない、ということだ。
今回、母を3カ月近くインドに招いた。健康診断を受けてもらったり、アーユルヴェーダの治療を受けたりしたことは、ここでも記した。また、食べ過ぎによる便秘による体調不良による入院騒ぎ、についても、記した。
母が入院した時に、身を以て感じた。万一の時に、どのような判断をすればいいのかを、あらかじめきちんと考えておくべきだということを。
母に限らず、自分の周囲の人間も含め、何らかの事故で「不測の事態」に陥った時、どのような治療(点滴、人工呼吸器 etc.)を施してもらうべきなのか、そのことを考えておかねばならないと、思った。
母も妹も、治る見込みがほとんどない状況での延命治療を受けないという点において、意見は一致している。若い世代は別にしても、特に高齢者に関して言えば。
そう心に決めていても、いざ、身内の死を目前にして、冷静な判断が下せるかどうかは別の問題だ。ともあれ、このような実態があることを、知っておくだけでも意義あることだと感じている。
誤解を招きやすい表現かもしれないが、敢えていえば、日本においては、あまりにも「死がタブー視されすぎている」と、感じる。だからこそ、このような延命治療が一般的になろうとしているようにも思える。
ところで今回、PEGに関しての情報を探していたところ、非常にわかりやすく説明されているサイトを見つけた。
参考までに、ここにリンクをはらせていただく。関心がある方もない方も、ぜひ目を通していただければと思う。
【誰でも通る、延命治療、終末期医療】
■高齢者の終末期医療 胃ろう (PEG)1(←Click!)
■高齢者の終末期医療 胃ろう (PEG)2(←Click!)
■インド発、世界2010:坂田の個人ブログ(←Click!)