今朝、「中国残留孤児」について書いた後、ふと、ある曲が脳裏に浮かんだ。『フレディもしくは三教街〜ロシア租界にて〜』。
さだまさしの歌である。
中学1年の3学期。転校を機に、あらゆる面において「転落傾向」にあった我。13歳。まだ若いのに、なんであんなに、悲観的やったっちゃろうか、というくらいに、鬱屈していた超反抗期の日々。
ふてくされまくっていた日々、眠れる夜に聴いていたカセットテープはTDK。
ではなくて、さだまさし(グレープ)の歌であった。きっかけは、いくつかあるが、ともあれ、ある曲が気に入ったのを機に、片っ端からカセットを集めた。
LPを買った、というのではなく、カセットを集めた、というのは、友人からダビングしてもらったがゆえである。友だちは、年の離れたお姉ちゃんが買ったLPからダビングしたとのことだった。
たまに、曲の途中でぶちっと切れていたり、雑音が入ったりしていたが、それもまた、懐かしく思い返されるものである。
上田美恵さんと、お姉さん。あのときは、ありがとう。
さて、それらの曲。なにしろ寝ながら聴いていたから、催眠学習のようなものである。多くの歌詞を、いまでもしっかり覚えている。
「心揺さぶられる歌」は数多く、なかには「魂さえも揺さぶられる曲」がいくつかあった。
そのうちのひとつが、『フレディもしくは三教街〜ロシア租界にて〜』だ。13歳の想像力を、力一杯刺激してくれたその曲。探してみたら、YouTubeにあげられていた。
すばらしい画像が添えられているが、しかしできれば一度は、目を閉じて、聴いて欲しい。
超反抗期の13歳にしては、かなりしぶい好みだったと思うが、まあ、それはそれである。
ちなみに当時、友だちには、「わたし、さだまさしの歌が好きっちゃん」とは決して言えなかった。思春期とは、そういうものである。
この曲はちなみに、さだまさしの母君の経験をもとに、作られた歌詞のようだ。
あれは20数年前。取材で、コペンハーゲンからスウェーデン南端の街、マルメに入った日の夜。石畳の街の一隅のレストランで、同行のカメラマンとライターと食事をとっていたときだ。
ライターのその女性のお母様が、漢口(ハンカオ)で生まれ育ったとのことで、『フレディもしくは三教街〜ロシア租界にて〜』についても、彼女は詳しく知っていた。
その彼女から、さだまさしの母が漢口に暮らしていたときの経験を歌にしたのだ……ということを聞き、しみじみと、過去に思いをはせたのである。
今となっては、あの、マルメの、石畳に照りつける夕日の色さえ遠く、何もかもが、ひとまとめに遥かに、懐かしい。