ニューヨークからドバイまで13〜4時間。ドバイからバンガロールまで3時間余り。毎度、長旅である。
前回、エミレーツ航空を利用して初めてニューヨークへ渡ったのだが、欧州経由で7〜8時間ずつよりも、こちらの方が長時間睡眠が取れるので比較的、楽である。
楽であるとはいえ、遠い。毎度帰国後は「時差ぼけ」というよりは「よく寝る日々」が2、3日続く。夕べは、夫もわたしも午後11時には就寝したのだが、夜中、二度ほど目を覚ました以外は爆睡。
セットし忘れていたのか、なぜか目覚まし時計が鳴らず。ドライヴァーが鳴らす玄関のベルで目覚めた。午前9時である。夫婦揃って都合10時間も寝ていたとは!
「早く起きて! オフィスに行かなきゃ!!」
せかす妻に、
「ん〜。今朝はミーティングがないから、慌てなくてもいいよ。ヨガはスキップするし」
と、のんきな返事。いいご身分である。妻はシャワーを浴び、弁当を作り、朝食を食べ、久しぶりに「通常態勢」に戻る。
それにしても、バンガロールの気候の、本当に心地よいこと。4月5月のニューヨークは、季節の境目で寒さと暑さが混在。最早、春はない。ただ、冬と夏が行き来する。
それをわかっているからこそ、革のジャケットと薄手のシャツ、ストールなどをスーツケースに詰め込んでいたのだが、今年はジャケットを脱いで歩ける日が一日しかなかった。
2週間の間、ほぼ毎日、冬。ときに雨。こんなに冷たい4月は、本当に珍しかった。それでも、せっかくのマンハッタンを満喫すべく、連日、歩き回った。
そもそもは、旅の後半、ワシントンD.C.へドライヴをする予定であったが、この寒い気候がドライヴ気分を削いだ。
同時に、「やっぱりニューヨークの方がいいよね」ということになり、去年同様キャンセルした次第。
1996年に初めてニューヨークの土を踏んで以来、15年。すなわち夫と出会って15年。結婚して10年。2001年のテロから10年。
ニューヨークへ来るたびに、自分を復習するのが常ではあるが、今年はまた、例年以上に「節目」を意識した。これからのことについてを、意識的に、考える、いい機会となった。
ニューヨークでは、日本の震災に対する支援のためのコンサートやライヴ、バザーなどが連日のように開催されていた。随所で募金箱のようなものも見かけた。
2週間のうち、一番多く訪れたのは日本食の店だった。人気のある店を選んだせいかもしれぬが、いずれもいつもの通りの込み具合だった。
このところ、ニューヨークはラーメンがブームらしく、一風堂のほか、話題の鳥人(TOTTO)のラーメンも試した。個人的にはとんこつスープな一風堂が好みだが、鳥人の鶏ガラ白濁スープも美味だった。
ちなみに鳥人は焼鳥店もあり、かなりおいしい料理が味わえる。滞在したホテルの近くなので、前回の旅に引き続き、今回も数回、訪れた。
寿司、刺身の店も繁昌しているふうに見えた。放射線被害に関連する風評被害などからは、遠そうに見えた。
しかし話によれば、気にする客も少なくないらしく、ある寿司屋は「放射線チェッカー」(と呼んでいいのか?)を用意しているらしい。
そもそも人気のある店、強い店は、逆風にも強いし、その逆の店は、逆風に弱い、ということも言えるだろう。
JFK空港の地上係員をしている友人によれば、日本行きの乗客は、震災以来激減しているという。日本への便を減便している航空会社もあるようだ。
そういえば、震災の1週間後に開かれた夫のMBA関連のパーティで出会った二組のカップルが、たまたま日本への旅行を間近に控えていた。
1組は5月。もう1組は7月。彼らはそれぞれに、わたしと会話をしたのだが、それぞれが、
「こんなときだからこそ、わたしはキャンセルしないの。日本を見てきたい。それがきっと、日本を励ますことにもなるから」
と、敢えてわたしに言ってくれるのだった。彼らの言葉に最早「勇気がある」とさえ思えた。この時期、わざわざ旅行で日本へ行こうと言う人は、少ないであろうことは、言うまでもない。
駐在している日本人ですら、一時帰国を控えるくらいなのだから。
東北に限らず、日本全国がひとまとめで、敬遠されている事態であろう。観光業界の打撃もまた、計り知れないことだろう。
夫が「iPad 2」を買いたいというのでApple Store(左上写真)へ赴くも、品切れ。慢性的に品薄状態が続いているようで、店側もいつ商品が入荷されるかわからないという。
開店前から店頭に並び、運が良ければ、その日入荷されたものを購入できるかも。という事態らしい。ネットでは買えるようだが、それでも数週間待ちのようだ。
地震の被害を受けている日本の工場からの、パーツの供給が不足していることも原因なのだろうか。
ともあれ、夫は店員から話を聞けば聞くほど、「iPad 2」の魅力を認識し、欲しくてならない様子。
「この1台に、本屋にある本のほとんどが、おさめられるんだよ」
「これから先、書店はどんどんなくなるに違いないね」
彼の言葉に、一抹の寂しさ。ってか、だいたい、そんなに大量の本、読まんやろ!
これから、どころか、すでにわたしたちの出会いの場所、リンカーンセンター前にあった大型書店、BARNES&NOBLEがなくなっていた。右上写真がそれである。
本屋がなくなりつつあるなんて。近未来小説の中の出来事のようだ。
過去にもまして、「ペットもの」の店が増えている気がした。同時に、街をゆく犬たちの、きれいなことに、驚かされる。これはまあ、インドの薄汚れた野良犬たちを見慣れているが故のことであるが。
店内、それも飲食店内に犬が堂々と入ってくるのを見ると、一瞬、怯む。が、ここはニューヨーク。犬は汚くないのだ、多分。インドとは、違うのだ。と、怯む自分を戒めること何度となく。
2週間のうち、わずか1日だけ夏日があった。その日だけ、26℃にもなったのだが、それ以外の日は、最高気温でも10℃前後。
曇天も、多かった。
だからこそ、晴れた日は、セントラルパークを歩いた。滞在したホテルは、いつもと同じカーネギーホールの斜向い。セントラルパークからは数ブロックだし、ミッドタウンにも、アップタウンにも近い、便利な場所である。
セントラルパークから、アッパーウエストサイドをゆっくりと歩いた。かつてのご近所は、他のエリアに比べて、歩くのが楽しいし、懐かしい。
なじみの店。新しい店。スーパーマーケットでの買い物。決して特別ではない、日常の延長のような時間が、気持ちをなごませてくれる。
この人とはもう、15年も一緒にいるのだ。そして幾度となく、この街を歩いて来たのだ。飽きもせず、楽しみながら。
15年の間、そらもう、いろいろあったし、これからもいろいろあるんだろう。
けれど、多分お互いに、飽きていないところがいいし、これからも、飽きずにいたいものである。
わたしたちには、かすがいとなる「子」はいないけれど、二人で積み重ねて来た歳月が即ち、かすがいのようなものである。
喧噪のインドでは、二人で「街歩き」をすることもなく、だから、米国に住んでいたころは日常だった「手をつないで歩く」ことさえも、なごむ。
今回は、ブロードウェイのミュージカル、『ビリー・エリオット』を観賞したのを始め、カーネギーホールでは、チェコからの近代音楽の楽団の演奏を、リンカーンセンターではジュリアード音楽学院の生徒らによるバロック音楽の演奏などを楽しんだ。
中でも、ハーレムのシアターで行われた日本の被災者支援を目的としたチャリティ・コンサートは、非常に心に残るものであった。
この街に住んでいたころは、日常に追われ、時間的にも、経済的にも、そして心にも、あまり余裕がなく、先延ばしになりがちだった娯楽。
それを思うと、短いながらも2週間、なんとも豊かに過ごせていると思う。
友人たちとの再会に始まり、インドではほとんど買い物をしない夫の、ショッピングに付き合うのも恒例のこと。
インドで食べられない料理を味わうべく、西へ東へ。毎度、日本食が中心になってしまうのだが、今回は更に、ZAGATなどを参考にして、新しい店をいくつか開拓した。
雨の日は屋内で過ごすべく、メトロポリタン・ミュージアムや国立自然史博物館を訪れたり……。
あのころは、「折に触れて」しか経験できなかった「愉しみ」であることを、今回夫に諭され、ひとまとめで経験できているんだということを再認識し、有り難く思うのだった。
リンカーンセンターから眺める、わたしの住んでいたアパートメント・ビルディング。
そもそも1996年の移住当初、語学学校に通っていた頃、わたしはこの近所の安アパートに住んでいた。一方の夫は、新卒ながらも、このアパートメントの2ベッドルームを、友人とシェアして暮らしていた。
やがて夫と付き合い始め、二人で1ベッドルームに引っ越した。家賃は折半。当時勤めていた日系出版社の月給は安く、家賃を払うとほとんど残らず、貯金で食いつないでいた。
当然、貯金が、底をつくのが目に見えていた。
起死回生を図るべく、起業した。その直後、彼はMBAへ進むべくフィラデルフィアへ。一人で1ベッドルームの家賃を払えるはずもなく、ついにはステュディオへ移った。
自宅兼オフィス。ソファーベッドを使って寝ていた。見た目はオフィス優先。狭い部屋に、2000ドルの家賃。起業したてのころは、本当に際どい日々だったが、半年後、一年後には、余裕が出て来た。
フリーの季刊情報誌『MUSE NEW YORK』の発行も開始した。阿呆のように2万部も刷っていた。取材から執筆、デザイン、印刷、配達に至るまで、一人でやっていた。
あの熱さは、いったい、なんだったのだろう。たいした利益にもならんのに。
利益どころか、『MUSE NEW YORK』は、単に「趣味」としかいいようのない世界だったのに。
この街では、本当に、好き勝手やらせてもらえたと、しみじみと思う。無茶をすることができたのは、無茶をさせてもらえる土壌があってのことだ。
ろくに英語も話せん外国人にも関わらず、ましてやろくに資金がないにも関わらず、起業できた。
なんとか就労ヴィザを自給自足できた。
もちろん、それ相応の努力はしたとはいえ、「米国の寛大さ」に、背中を押されたことは言うまでもない。やはり、有り難いことであった。
さて、まとまりなく綴ってしまったが最後に。
ハーレムへチャリティ・コンサートを聴きに行った日の記録を、裏ブログ『胡蝶の夢』より以下、転載する。非常に、心に残る夜だったので……。
夜。コンサートに行くべく、ハーレムへ向かった。
日本の震災に対し、ニューヨーカーたちが大小の活動をしている様子を、この滞在中、しばしば目にした。各種チャリティ・バザーやチャリティ・ライヴ、個人的な募金など。
遠く離れた日本に対し、関わりがある人はいっそう、そうでない人もまた、身近な人々のことのように、気持ちを寄せてくれている人が少なくないことに気づく。
先日、日本食料品店に置かれていた無料の日本語新聞をめくっていたとき、ある記事が目に飛び込んで来た。
「ハーレム・フォー・ジャパン チャリティー演奏会」というタイトル。
さまざまなミュージシャンが集い、東日本大震災の被災地支援チャリティコンサートを開催するというもの。
入場料は任意寄付(推奨25ドル)で、収益は在ニューヨークの日系機関を通して、被災地支援団体に寄付されるという。
出演者の中に、妹の中学、高校時代の友人、歌手ユウコ・ダージリンさんと、その伴侶の作曲家、小田裕一郎さんの名があった。
ユウコさんとは、フェイスブックでつながっており、数年に一度、メールのやりとりをしていたが、直接お会いしたことはない。
いつかお会いしましょうといいつつ、今回も予定が合わなかったのだが、彼女が出演するならぜひ足を運びたいと思った。
ワシントンDC旅をキャンセルしたおかげで、火曜の夜もマンハッタン。というわけで、コンサートへ赴くことができた次第だ。
ライブハウスのようなところかと思いきや、約700人収容のかなり大きなホールが会場だ。
入り口で配布された出演者一覧は27のミュージシャンやダンサー、バンドだったが、最終的には29ものグループが出演した。
著名人らしき人もいれば、素人軍団のようなグループもいて、実にさまざまな顔合わせであったが、いずれも非常に、心にしみるライヴであった。
演奏が始まる前に、日本領事館や日本商工会など関係者からの挨拶があった。中でもジャパン・ソサエティのプレジデントのコメントには驚かされた。
ジャパン・ソサエティだけでも、15,000人のニューヨーカーから寄付を託されたのだという。総額5億円。
ほかの支援機関への寄付金を思えば、ニューヨークだけでも莫大な寄付金が集められたことが予測される。多くの人たちからの、「気持ち」が、本当にうれしい。
以下、いくつかのバンドについて、簡単に記録しておく。
まずは和太鼓の演奏。女性たちの姿がひときわ格好いい。和太鼓を習いたい! とまた、単純なわたしはすぐに影響される。
観客を巻き込んで、盛り上げるバンド。観客は、あいにく日本人が少なく、主にはハーレム在住の人たちだと見受けられた。彼らの乗りは本当に、よすぎる。「映画で見るシーン」のようである。
左上は、歌とダンス。今回の震災を思わせる、自然の仕打ちの苦しみを表現したもの。右上は、ユウコさんと小田裕一郎さん。
左上。若干「学芸会」はいっていた、多分ローカル・コミュニティのグループによるダンス。右上は、15歳の少女。どこからどうみても少女には見えんが少女。
わたしの体格のよさなど、吹けば飛ぶような、この恰幅のいい15歳。彼女の歌がそらもう、ワンダフル。声量がありすぎ。やっぱり、身体の構造が違うよ。声の深み、振動が違うもの。
東洋人の細身の骨格とは、そもそもの「楽器」が異なると改めて思う。
情感の表現はまだまだ未熟ではあるが、ともかく、声量と音程、声の質、つまり素養がある彼女。黒人の人たちは、彼女のように歌がうまい人、多いのよね……。
聞いていて、本当に、気持ちがよい。
29ものグループが次々に1曲ずつ披露するのである。使う楽器も違えば、ダンスなどのスペースを確保する必要もある。
ミュージシャンたちは、多分「最低限の条件」で、披露できる楽曲を選んでいるに違いない。それでも、つつがなく、次々にステージが進行する様子にも感嘆した。
中にはチューニングが十分でないバンドもあり、微妙に音がずれたまま進行して辛い一面もあったが、そんなネガティヴな印象は本当にごく限られたものにすぎず。
あるバンドのギタリストが、チューニングの際に、軽く弾いたSUKIYAKI SONG(上を向いて歩こう)の旋律を耳にしただけで、滂沱の涙である。
音楽の力は、本当に、たまらん。
右上は、日本人ピアニスト、TOYA(徳家敦)さん。今回の震災を受けて作曲したという「無題」の一曲が、披露された。
トリを飾ったのは、Chuck Jackson。彼の歌を聴くのは初めてだったがもう、そのすばらしさに、圧倒されまくり。もう、声がすばらしすぎて!
マイクなしでも十分いけるほどの、驚きの声量。ときに敢えて、マイクを遠くにぐ〜っと離したりもしてもう。
北島三郎?
こんなすばらしい歌をライヴで聞けるなんて、本当に幸運だと感動する。
多分、告知が間に合わなかったのだと思うけれど、もっともっと多くの日本人にも来てほしかったと、つくづく思った。ホールのシートがまだたくさん余っていたのが、本当にもったいなく思えた。
日本のために。
みなさん、本当にありがとうございますの思いで、いっぱいだ。
日本にライヴに行ったことのある人たちも多いようだ。
彼は「今回の活動はあくまでも端緒。これからも継続して支援を続けたい」と話していた。
夫も、思いがけず多彩な音楽に触れられたこのコンサートを非常に楽しんでいた。
冷たい雨が降る中、西137丁目の地下鉄駅に向かって歩きながら、しかし心は高揚し、本当に、いい夜だった。