今朝、目覚めてコンピュータを立ち上げ、メールを受信したところ……。日本に暮らす旧友らからのメールが複数、届いていた。
中には、ブログの読者だという見知らぬ人たちからも。
今朝のNHKニュースで、東大のバンガロール事務所開設のニュースが流れ、そこでマイハニーことアルヴィンドが登場したらしい。
先日のジャパン・ハッバの際、東大のブースの前でインタヴューされていたのだが、それが放送されたようだ。
それはそうと、友人らから一斉に突っ込まれたのは、アルヴィンドが「学生」として紹介されていたこと。
いくらマイハニーが童顔だからって、妻の愛に育まれてピチピチ・ツヤツヤだからって、今年で40歳のおっさんに「学生」はないやろ。
インドのメディアもいい加減だが、日本のメディアもいい加減なもんだ。
ところで日本で東大事務所の件が報道されたのは、昨日、記念式典が開催されたからに他ならない。というわけで、以下、簡単にレポートを。
昨日、バンガロール市内のホテルにて、東京大学バンガロール事務所のオープンを記念する式典が開催された。
午後2時から基調講演とパネルディスカッション、そして夜はレセプション(カクテル&ディナーのパーティ)である。
午前中の記者会見にも招かれていたのだが、別件の用事があったため、午後から出席した。
東京大学がバンガロールに事務所を開設した目的は、インド人留学生の獲得だ。現在、東大では中国人留学生が1000人ほど学んでいるのに対し、インド人留学生は35人だという。
この動きは、2009年に立ち上げられた「グローバル30(国際化拠点整備事業)」の一環である。
文部科学省が打ち出したプロジェクトで、2020年までに30万人の留学生受入れを目指す「留学生30万人計画」だとのこと。
採択されたのは、13の国公私立大学。
国立大学は、東北大学、筑波大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学、私立大学は、慶應義塾大学、上智大学、明治大学、早稲田大学、同志社大学、立命館大学だ。
英語のみのカリキュラムにより『学位取得』が可能かどうか、また留学生の受け入れ態勢が整っているか否かなど、諸条件を満たした学校が選出されたようだ。
このプロジェクトについては、個人的に思うところが多い。多すぎて、まとめる自信がない。
ただ、今回、この式典の最中に、米国在住時に考えていたことを思い出した。それは、過去メールマガジンに記したので、以下、転載しておこうと思う。
インドらしく、式典はオイルランプへの点灯式によってはじまった。主賓はインフォシス創始者のナラヤン・ムルティ氏だ。
先日、ハンピで行われたカンファレンスでもお目にかかっており、わたしとしては「とても親しげ」な気分になってしまい、目が合ったときに満面の笑みで黙礼したが、さりげなく、スルーされた。そらそうだな。
基調講演。ナラヤン・ムルティ氏によるスピーチは、意図が理解できた。しかし東大の、上記の教授によるそれはもう、わたしには途方もなく意味不明で、わけがわからなかった。
ナノ量子。と日本語で書かれていても、よくわからないのに、Nano Quantum。
しかし、講演のあとに「あれ、わかりました?」と知人数名に声をかけたら、何人かが「最後の方はわかった」とか、「興味があるから、わかった」という返事が返ってきて、それにも愕然とした。
パネルディスカッションはまた、辛うじて理解できそうな気がするプレゼン、理解不能なプレゼンが続いた。
理解不能時には、「いったい、誰に向けて、どういう意図での、この専門的な講義なのだろう……」と思い、招かれざる客である自分を自覚して、中座しようかと思った。
と、インド人の教授が、やはり難解なプレゼンをしていた時に、一番前の席に座っているナラヤン・ムルティ氏が、彼に厳しい口調で声をかけた。
「そういう専門的な話ではなく、一般の人にわかる話をすべきだ。君のプレゼンは、難解すぎる!」
ご自身の講演が終わっても、会場を離れることなく熱心に聞かれていたナラヤン・ムルティ氏の言葉に、「わが意を得たり!」と、思った。
しかし、その「標的」となられたインド人教授は当然ながら動揺されており、少々、お気の毒だった。
終盤にスピーチされた在バンガロール日系企業の重役であるインド人男性のエピソードが一番、わたしにとっては、腑に落ちた。ご子息が昨年より東北大学に留学されているとのこと。
大震災が起こったあとの日本を敢えて選び、「津波に遭うよりも、バンガロールで交通事故に遭う確率の方が高い」と笑い飛ばして日本へ発った彼。
そのご子息もいらしていた。日本で留学生活を経験中の彼のスピーチこそ、聴きたいくらいだった。
日本の教育がいかに高度か、ということを喧伝するも大切だが、もっと実践的な日本における留学生事情もまた、貴重な話だと思われる。
以上は、見当違いと思われるかもしれんが、わたしの個人的な感想だ。
ともあれ、夜のレセプションでは日本人、インド人、多くの方々とお会いできて、かなり有意義な夜だった。日本からも大勢のゲストが訪れている中、九州大学の教授とお目にかかれた偶然も楽しかった。
インド在住の駐在員の方で、このブログの読者だと仰る方からも、複数名からお声をかけていただき、楽しかった。
レセプションにはアルヴィンドも招かれていたので、途中で合流。チェンナイで学校経営をしている老紳士の話を二人して熱心に聞いた。
昨今のインドの子供たちの傾向、富裕層の教育に対する問題、昨今の高度経済成長で急増する「成金」の人たちの行為。貧富の差。インターネットと子供たち。善し悪しを決められない親の行為……。
普段、感じていながら、うまく裏付けがとれない現象とその背後にあるものを、会話をシェアすることで納得でき、実り多き会話であった。
と、綴ればきりがないので、このへんにしておく。
ところで、以下は、前述した通り、米国在住時の記録だ。
「2000年」の記録、そしてその経験を思い返しての、「2003年」の記録。一昔前の記述ゆえ、今とは考えが異なる部分も多々ある。しかし今読み返してみるに、なかなかいいこと書いてるじゃん! である。
というわけで、ぜひお読みいただければと思う。この「グローバル30プロジェクト」に通じるものが、文中に散らばっているので。
それはそうと、2000年はまだわたしも独身。アルヴィンドをして「ボーイフレンド」と呼んでいた。懐かしい。のちに、「A男」と記しているが、それはアルヴィンドの仮名である。
●マサチューセッツ工科大学の同窓会に同席して(2000年6月執筆)
「ミホ、6月にボストンで大学の同窓会があるんだけど、一緒に来ない?」
ボーイフレンドが尋ねる。
「大学の同窓会にガールフレンドが同行するのは妙だから、一人で行っておいでよ」
とわたし。
「そんなこと言わずに、見てよ、このプログラム。同窓会は何日もあって、いろいろな催しがあるんだよ。もちろん家族やボーイフレンド、ガールフレンドも一緒に参加できるんだ。お父さんや姉さん夫婦もちょうどこの時期こっちに来るから、みんなで行こうよ」
彼の母校では5年に一度、大規模な同窓会が開かれる。全卒業生が一気に集うのではなく、5分の1ずつの卒業生が参加するという。
たとえばわたしのボーイフレンドは1995年の卒業生だから、90年、85年、80年、75年……と、5の倍数の年に卒業した人々と同窓会を共にすることになる。
折しも彼は、MBA(ビジネススクール)の卒業式を控えており、卒業式に参加するため、ニューデリーに住む父親が渡米することになっていた。加えて、バンガロールに住んでいる彼の姉も、生物学者である夫がリサーチのために、偶然にも彼の母校の研究室に来ることになっていて、夫婦で訪れる予定だった。
「同窓会ねえ……」
つぶやきながら、さりげなく受け取ったプログラムに目を通して驚いた。木曜から週末にかけての4日間、ディナーパーティーに始まり交響楽団のコンサート、テニス、ゴルフなどのスポーツイベント、ボストンの市内観光、バーベキューパーティー、ダンスパーティーなど、実にさまざまなイベントが予定されているのだ。
もちろん各種セミナーやパネルディスカッションなどもある。
「何だか面白そうだから、一緒に行くよ」
わたしは答えた。
6月のとある木曜日。わたしとボーイフレンドはアムトラック(長距離列車)に4時間ほど揺られてボストンへ向かった。すでにボストンに到着している彼の家族とは、宿泊先のB&B(ベッド&ブレックファスト)で合流した。
その日の夕方、わたしたちはコンサートに参加するため、シンフォニーホールへ向かった。ボストンにはシンフォニー・オーケストラだけでなく、ポップスと呼ばれるオーケストラがある。百年以上の歴史を誇るポップスは、人々に気軽に音楽を楽しんでもらうのを目的に誕生したという。
なるほど、1階のオーケストラシートは座席が取り払われ、代わりに丸テーブルが配されている。流れてくる音楽も、耳慣れたブロードウェイのヒット曲やジャズの名曲、映画音楽などさまざまだ。
ステージに近いテーブルでは、年輩の同窓生たちが美しく着飾った伴侶と共に、グラスを片手に聴き入っている。ときに観客が演奏に合わせて歌い始めたりもして、何ともいえず心が躍る。
さて、コンサートのあとは、彼の家族と一緒に、出発前から楽しみにしていた名物のロブスターを食べにシーフードレストランへ繰り出す。ボストンのあるマサチューセッツ州にほど近いメイン州はロブスターの産地として有名で、ここボストンでも新鮮で品質のよいロブスターが味わえるのだ。
まずはボストンの地ビールであるサミュエル・アダムスで乾杯。
アサリやジャガイモがたっぷり入ったクラムチャウダーに焼き立てのパン。そして蒸しあがったばかりのアツアツのロブスターがテーブルに届く。しばし殻と格闘したあと、たっぷりの身を取り出し、黄金色の溶かしバターをほんの少し付けて食べる。
プリプリとした歯ごたえのロブスターは、噛めば噛むほど甘みが増して実においしい。付け合わせのインゲンもまた新鮮でいい。おいしい食事に会話も弾み、幸せなひとときである。
翌日からの数日間は、ゴルフの初心者向けプログラムに参加したり、大学に併設された科学博物館を見学したり、彼がレクチャーを聴講している間、キャンパスでくつろいだりと、さまざまに楽しい時間を過ごした。家族みんなでボストンの中心街に出て、ショッピングや観光もした。
夜はダンスパーティーに参加し、彼の同窓生やその家族と、何度となく挨拶を交わした。友人との久しぶりの再会に、彼は立ち話をすることもしばしばだったが、こうやって旧交を温める場があるのはいいものだと、おとなしく傍らに立って見守った。
一連の同窓会イベントの最終日。全卒業生が集まってのランチ兼報告会が開かれるというので、わたしも彼に同行することにした。
広々とした体育館に、いくつもの丸テーブルが配され、テーブルごとに卒業年度の数字が記されている。わたしたちは「1995年」と記されたテーブルに座り、すでに着席している人たちと挨拶を交わし、食事をしながらおしゃべりをする。
わたしたちと同じくニューヨークから来た人、ワシントンDCから来た人、サンフランシスコから来た人……、とみなそれぞれだ。
さて、ランチを食べ終え、テーブルにデザートとコーヒーが運ばれてきたころ、関係者の挨拶などが始まった。途中、司会を務めていた卒業生によって、今年度同窓会の、大学への寄付金の発表が行われた。
古い卒業年度順に、寄附した人の割合とその総額が読み上げられる。最初、特に注意を払わずに聞いていたのが、その数字の大きさに、我が耳は急に鋭敏になり、そのアナウンスに集中した。
「1945年度卒業生、63パーセント、総額5ミリオンドル」
「1950年度卒業生、64パーセント、総額7ミリオンドル」
年度別に読み上げられるたび、会場から大きな拍手があがる。それにしても、その額の多いこと! 1ドル100円として、1ミリオンは1億円である。
最終的に、今年の同窓会で集められた寄付金は総額34ミリオンドルだった。しかも同窓会の時期以外にも、事業に成功した卒業生たちが随時、数ミリオン単位の寄附をしているという。
ここで集められた寄付金は、大学の設備投資や研究費などに充てられるという。これらの予算がさまざまな人材を育み、その可能性を引き出し、最終的にはその成果が多様な形で国家に、さらには世界に貢献するわけだ。
センチメンタルな愛校精神にとどまらない、卒業生のアメリカの未来に対する期待が、寄付金に形を変えているようにさえ思われる。
巨額の収入を得た卒業生にとって、あるいは寄附は税金対策の一つかもしれない。貧富の差が激しいアメリカでは、限られた人間に富の集中が見られ、それがしばしば取り沙汰される。
しかしその一方で、稼いだお金を個人のためだけに使うのではなく、寄附をしたり、非営利団体を設立するなどして、社会に還元している人も少なくない。
その事実を今、目の当たりにして、わたしは少なからずショックだった。自分がこれまで、日本で見聞きしてきた世界とはまったく違う「志」や「理念」が、そこにあるような気がした。
寄付金の報告が終わったあと、現在同大学の教授である卒業生の一人がマイクを握り、スピーチを始めた。スピーチの終盤、彼が口にした言葉に、またもやわたしの耳は集中した。
「……ところで先月、わたしは出張でアジア諸国を巡りました。ジャパン、タイランド、シンガポール、ホンコン、タイワンなどです。
どの国を訪れても実感したのは、我が大学の卒業生が、単に企業の牽引役にとどまらず、その国の経済や社会に影響力を与えるべく、重要なポジションに就いていることです。彼らは国家のために、大いに貢献していました。これは非常に印象的で、同窓生としてとても誇らしいことでした……」
寄付金のことで衝撃を受けているわたしに追い打ちをかけるように、彼の言葉が激しくわたしの心を揺さぶった。
(ああ、アメリカという国は、すごい)
ただ単純に、そう思った。もちろんアメリカを、諸手を上げて賛辞するわけではない。国際社会における立場にしろ、国内における政治の在り方にしろ、問題は尽きないし、いいところばかりじゃもちろんない。
しかし、いずれにせよこの国が特殊で強力であることには違いない。今、ここに身を置き、わずかばかりのインフォメーションを耳にして、アメリカの強さの理由の一つは、ひょっとすると「大学」という存在にあるのかもしれないと思った。
この国ほど、世界各国の学生たちを受け入れる国があるだろうか。
無論、世界各国の大学も、世界中の学生へ門戸を広げているには違いないだろう。しかしながらアメリカの許容量は他国が及ぶところではないはずだ。移民の国だから当然だ、共通語が英語だから有利だ、などと言えばそれまでだが……。
世界中の優秀な学生たちがこの国の大学を目指して訪れるのは、彼らが実力を発揮できる魅力とチャンスとステージがあるからこそだろう。
たとえば日本国内に、アジア各国の学生たちが大勢に集える大学があるだろうか。アジアで出会う可能性のないアジア人同士がこの国で交流の場を育むのである。
国境を越え、国家を超え、世界各地から集った人々が学舎を、あるいは寮生活を共にし、4年間の歳月を過ごす。学問以外に得ることの大きさは計り知れない。
国家のイデオロギーを問わず、友として結ばれた絆が、あるいは国家間の軋轢を緩和する役割を担っているのかもしれない。単に「懐かしい友に会うための同窓会」にとどまらない意義が、ここにはあるように思えた。
ネットワークとは、個人の利益や満足のためだけに構築すべきものではなく、広い視点から語られるべきものかもしれないとも思った。
こんなわたしの心の動きに気付くはずもなく、ボーイフレンドはデザートのチョコレートケーキを口に運びながら、隣席の同窓生とニコニコしながら話をしている。
わたしは自分が卒業した、日本の地方都市の小さな大学を誇りに思っている。あの大学で過ごした4年間は、今のわたしを育む上でとても貴重な日々だったと思っている。ほかの大学に進んでいればよかった……、と思うことなど、これまではなかった。
いや、すでに自分で選んだことなのだから、悔やむことはしたくない、常に肯定的に生きようと、あえて他の可能性を想像しなかったのだとも思う。
しかし、今日、この場に身を置き、わたしはさまざまに打ちのめされる思いがした。そして、このような母校を持つボーイフレンドのことを、とてもうらやましく思ったのだった。
●22世紀へ向けて、アジアに、アジア人のための国際大学を! (2003年9月執筆)
前回、「アジアに、アジア人のための国際大学を」と書いた件について、「すでに日本にもそういう大学がある」というメールを送ってくださった方がいた。確かに、アジア各国からの学生を積極的に受け入れている大学があることは理解しているが、わたしがイメージしている「国際大学」というのは、少々、イメージが異なる。
「非現実的」で「絵空事」だと思われるのは承知で、「こんな大学があったらいいのに」というイメージを、書いてみたいと思う。
その前に、なぜ、こういうことを考えるに至ったか、その理由ときっかけを記してみたい。
先日、A男と、ジョージタウンにあるMie En Yuという、エキゾチックなアジアのモチーフが散りばめられたレストランで、のんびりと語り合いながら夕食をとっていたとき、下記のようなことが話題になった。
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●米国の大学には、中国、台湾、韓国、インドなどアジア各地から訪れる優秀な学生があふれている。特にカリフォルニアの大学で学ぶアジアの学生は増加する一方で、バークレー大学などはアジア人に「占拠」されている状況となり、アジア人の入学を制限する必要がある(もしくは制限を始めた)とのこと。
●韓国では1998年に経済が悪化し、一時、多くの留学生が帰国を余儀なくされたが、現在は、経済的に余裕のある家庭の多くは、子弟を米国に留学させようとしている。子供の教育のために、一家総出で米国に移民する家族も少なくない。
●1999年当時、シリコンバレーのハイテク関連企業の2割以上が、アジア系の移民によって率いられていた。さらに移民ではなく、H1Bビザ(一時就労/非移民ビザ)にてシリコンバレーに勤務するインド人、中国人は非常に多く、ITビジネス全盛期、インド人をはじめとするアジア人が、米国経済の好況に大きく貢献した。
●シリコンバレーの全盛期、H1Bビザの発給数(毎年数が異なる)は大幅に引き上げられた。9/11のテロ直前には50万人近くがH1Bビザで就労していたが、うち半数が、インド人と中国人で占められていた。
●現在、ITバブルの崩壊により、レイオフ(解雇)されるインド人はじめアジア人は相当数に上る。無論、米国人もレイオフされているのだから、外国人だけが被害を被っているわけではないが、外国人は解雇された瞬間から永住権を持たない限り、帰国を余儀なくされるため、人生設計の狂いが著しい。
●インドには、マサチューセッツ工科大学(MIT)に並ぶ、あるいはそれよりも難しいとも言われる、インド工科大学(IIT)がある。A男の話によると、彼が大学進学を考えていた時期(つまり10数年前)、この大学の「年間の学費」は、わずか100ドル(1万2000円相当)だった。
●A男はインドの難関高校を卒業しているが、成績の上位者ほど、米国の大学に進学する比率が高かったとのこと。また、上記インド工科大学の卒業生の多くも、米国の大学院に進学したり、米国の企業に就職している。
●A男の姉、スジャータの夫、ラグバンはサイエンティストで、普段はインドのバンガロールというIT産業が盛んな学園都市で、エイズ・ワクチンの研究などをしている。しかし、エイズ・ワクチンを実際に製造するための直接的な研究は、米国の製薬会社を通して行っている。
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こんなことを話しているうちに、常々心の隅にあった違和感が、ふつふつと浮上してきた。
自分が好きでこの国に住んでおきながら、こんなことを言うのもなんだが、「ある側面において」アジア諸国が、米国に翻弄されているような気がしてならないのだ。あくまでも、「ある側面において」だけれど。
世界各国からの若者を受け入れ、教育の場を提供している米国。その「懐の広さ」は非常にすばらしく、感嘆すべきことだと思うが、その一方で、アジアの優秀な頭脳を「ほしいまま」に集め、「有効利用」しているしたたかさをも、強く感じる。
たとえば、インド国内にはすばらしい教育システムを持った学校があり、国民を「安価で」学ばせているにも関わらず、優秀な学生らは米国へ飛び立っていく。絵に描いたような頭脳流出である。
鍛えられた頭脳を有効利用できる土壌が、インド国内にないと言ってしまえばそれまでだが、「流出の構図」があまりにも疑いなく、自然の流れになっていることが、どうにも腑に落ちない。
A男のインド人の友人の中には、米国の経済に貢献している人もいれば、「精神的な文化の違い」が原因でアメリカ人と渡り合えず、くすぶっている者も少なくない。ある友人は、ビザの問題で帰国を余儀なくされ、近々米国を離れるという。
日本人の優秀な学生も、日本の大学を出たあと、米国の大学でPh.D(博士号)を取る人が大勢いるが、日本人の場合、「言語」や「文化」への同化云々の問題もあり、他のアジア人に比べれば「最終的には帰国」する人が多いような気がする。
無論、言語だけでなく、学んだことを社会に反映できる素地も、国によって異なるから、一概に傾向を語ることはできないけれど。
そんな話をしながらA男を見ているうちに、この人は、いつかきっと、インドに帰って、インドで力を発揮するべきだ、と強く感じた。MITやMBA時代の、インド人の友人らと協力しあって、インド経済のために仕事をするのが、いいのではなかろうか、とも思えた。
前置きが長くなってしまったが、そんなことを話し合っているうちに、やはり、米国以外に、アジア各地の学生らが「ぜひとも行きたい、学びたい、理想的な大学」が、アジアのどこかにあればいいのに……、という発想に至った。
それはむしろ、大学というより、「一大アジア学園都市」である。22世紀まであと100年もあるから、そのうちに、こんな絵空事も、ひょっとすると現実的になるかもしれない。
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●アジア各国が同等の立場で、協調態勢を取り、学園都市の構築に関わる。
●学園都市の場所は、気候のよい、どこかアジアの国の「島」まるごと、なんていうのもいい。授業が終わったら、海でひと泳ぎ、というのも気分がよさそうだ。
●場所を「島」とした場合、その「アジア学園島」の共通言語は「英語」と定めるのが手っ取り早いだろう。そのためにも、日本国民「総バイリンガル化」が望ましい。
●「アジア学園島」は、基本的にアジアの特定の国に属せず、独立国家的、あるいは自治区的な存在が好ましい。まあ、そのあたりは、追々考えるとして。
●学部はできるだけたくさん。ともかく、欧米の大学に、軽く太刀打ちできる幅広さと奥行きがほしい。
●島内に、アジア各国それぞれの「村」を作る。ここに各国の宗教施設や領事館などを設けるほか、商店や住宅施設も充実させる。
●各国の「村」は、アミューズメントパーク的な要素も採り入れ、「観光収入」が得られるよう工夫する。
●米国の大学に絶対的に欠けている「食」を、全島をあげて充実させる。人間、食生活が貧困だと、勉強の意欲もそがれるというものだ。米国の大学に通う大学生が、どれほど「故郷の味」に餓えているか。というわけで、食堂街の充実。祖国の味がそのまま味わえる屋台村もほしい。
●ついでに、フランスのル・コルドン・ブルーや米国のCIA(Culinary Institute of America)に並ぶ、アジアの「名門料理学校」も設立したい。そこの生徒による「調理実習」の料理を、格安で食べられるレストランも作る。
●「食」はともかく、大学病院も、もちろん併設。学生らの「心身の健康」はすべて安価な保険でカバーされるような仕組み。新薬その他を開発したら、「アジアの製薬会社」で商品化し、全世界へ向けて販売。
●学生らを対象とした「起業支援システム」も完備。随時、起業案のコンテストなどを行い、優秀なアイデアを持つチームには積極的に起業を支援し、ベンチャー・キャピタルが投資しやすい環境作り。
●アジア各国で開発される、さまざまな分野にまたがる「新製品」の試用(市場調査)を、学園島内で積極的に行う。従って、学園内は、基本的に「アジア最先端」の技術が結集する。
●アジア各国にとどまらず、他の国々との国際交流は不可欠。欧米はもちろん、南米、アフリカ、オセアニア、中東……と、世界各国の大学との「交換留学制度」も充実させる。
●学生らの卒業後の就職先など、将来どのように「鍛えられた頭脳」を生かして行くべきか、それをも研究機関化して、アジア経済の貢献に結びつくような「橋渡し」をする。
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……とまあ、一笑に付されることを承知で書いてみた。こんな学園島がもしもあったら、今すぐにも通いたい気分だ。
学生になるには勉強不足とあらば、「日本村」か「インド村」で民宿経営、というのもいいな。あるいは、学園島の「ガイドブック」や「情報誌」を作るのも楽しそうだ。
100年後の世界の構図。どうなっているんでしょうね。