日曜の深夜、デリーから戻った。自分のライフについて、諸々、思うところ多かった滞在でもあった。
デリー滞在中、なるたけ身軽に動きたく、写真撮影は「iPhone」に任せた。それらは随時、MiPhone@Indiaに残しているので、ご覧になった方もいらっしゃるかと思う。
印刷媒体に掲載する写真は別として、ウェブサイトに載せる目的であれば、iPhoneのカメラで十分だな、との思いを強くした。
確かにシャッタースピードは遅い。動作も鈍い。画面に青みがかかりがちで、料理がおいしそうに見えない、などの問題もある。
が、身軽さには変えられない。
もちろん、プロ用のカメラ、高品質のカメラの味わいの深さは理解している。が、日々の記録を気軽に残す目的には、iPhoneで十分だな、という主観的な印象だ。
上の蓮の花は、まるでわたしたちの帰宅を待ち構えていたかのように、月曜の朝、開花してくれた蓮華。これもiPhoneで撮影した。
これは今朝の庭に舞い飛んできたゲスト。ひらひらと気ままに飛び交う束の間、息を殺して近寄り、撮影。2年前のちょうど今頃、初めてこの蝶に出会ったときは、本当に感動したものだ。
■赤い蝶に見送られて行ってきます。 (←Click!)
あれはちょうど、ニューヨークへ旅立つ日の午後だった。それにしても『キレイなブログ』も過去となりて、最早懐かしい。
このときは、米国在住時に購入していたEOSで撮影した。当然ながら、iPhoneよりは、しっかり撮れている。被写界深度も浅く、味わい深い。
デリー滞在中のあれこれは、当然ながらMiPhoneの「キャプション的文章」では綴りきれないが、楽しげな一側面は、雰囲気を感じ取っていただけたと思う。
このブログにたどりついている方々の、多分、半数以上は「インド」がキーワードだろう。
だからこそ、インドに暮らす自分を綴ってきているが、しかし、そもそもは、それ以外の世界観が、ここにはもっと、広げられるべきだったし、これからはその方向性を強めて行こうかとも思っている。
そんなことをも、おぼろげながら、考えたデリー滞在だった。
惑わされること多き世界。心に軸を。行動に筋を。
移住当初から、「遠心力付きで振り回されるインドの日々」ゆえ、自分の軸を、しっかりと据えておかねばとの思いがあった。
しかし今は、「激変するインド世界」だけではなく、ライフスタイル、仕事の在り方、人との関係性など、あらゆる点において、「地球規模で」価値観が揺るぎやすい。
震災。経済危機。ネット上の社交世界。
流動する世界にあって、「不易流行」を心に刻む。
どんな世界にあっても揺るがない、たとえ裸一貫になっても(!)毅然としていられる自尊心、品性、強さというものを、これからは身につけるべき時代だと、痛感する。
取捨選択できる審美眼。選択眼。
ところで、上の写真は、デリーの叔父・叔母宅に招かれたときのもの。前菜の前のアミューズだ。一人一人に小さな花も添えられている。
インド料理はマルハン実家の料理人、ケサールの作るおいしいものを食べているだろうからと、独創的フルコースを用意してくれた。
「この器、かわいいでしょ。ニューヨークのCRATE&BARELLで見つけて買ったのよ。スーツケースで運んだら、いくつか割れちゃったけどね」
小さな陶磁器類が大好きで、家中にコレクションがある彼女。その、どっしりとした存在感、仕事ができる女性ならではの、鋭い視線と口調には、あまりにも似つかわしくなく、愛らしい趣味。
ちなみに料理は、叔母が勤続30年超の自宅の料理人を指導、彼らが給仕してくれる。
マルハン家、そして夫の母方のプリ家。義姉スジャータが嫁いだヴァラダラジャン家。更にはその周辺の親戚……。
わたしのインド家族には、学歴、職歴、ステイタス、いずれもそれぞれの世界で一定のポジションを築いている優秀な人ばかりである。
そのことを、最早、語るのはよそう。尽きないし、単に親戚自慢と思われるのが関の山だ。
ただ、敢えて言えば、そういう人たちと、縁があって親族となっている自分は、彼らの善き側面から、もっともっと、学び取るべきである、との思いだ。
夫のオリジンが鏤められているデリー周辺。
価値観をしっかり持った人たちは、昨今見られる「成金」あるいは、「バブルにリッチ」な人たちとは違う、確固たる経済観念と、自尊心と、価値観とを持っている。
華美でない。豪奢ではない。
しかし、一朝一夕には培うことのできない、即座には真似のできない、気品と強さ、揺るがなさ、がそこにはある。
惑わされない強さ。自分に必要な物、不要な物を見分けることができる審美眼。
そのような自己を育む環境に育たなかった人間は、わたしを含め、自ら切磋琢磨して、時間をかけて、身につけていくしかない。
それはもちろん、それを望む人において、の話であるが。
仕事の面においては、日本での8年間、米国での10年間。そしてインドでの6年余り。停滞期も少なからずあったが、ある程度の矜持を伴いつつ、堂々と自分を語れるに至った。
それらはすべて、経験が育んでくれた宝である。
少なくとも、日本在住時のわたしは、20代のわたしには、今の自分を想像できなかった。
今の自分に決して満足も充足もしていないとはいえ、それでも今在る自分に対し、一定の評価を与えるべきだと思う。
同時に、今のわたしが想像できないような10年後、20年後のステップアップを実現するために、わたしはまた、異なる形での切磋琢磨が必要なのである。
ということをも、デリーの旅を通して、思ったのだった。
尊敬できる人々が周囲に大勢いることを、本当にありがたいことと思う。そして、そういう場所にたどりついている自分を、少しは、認めてやりたい。
自己実現と、社会的責任。
自己評価を低くすること、つまりは日本的な謙虚さは、時に自分の足をひっぱることになるかもしれない。少なくとも、日本以外の国では。
そのことについても、今回は改めて、思いを馳せた。
言葉にするに難く、読む人が読めば傲慢とも取られかねないだろうが、他者のネガティヴな反応などを気にするも愚か、と、このごろは思う。
それも、歳を重ねたことによる宝。
尊敬すべき、憧れるべき人を常に見据えながら、自分の軌道を確保せよ。
見果てぬ未来の、自分のために。