陽光のバンガロール。久しぶりにアーユルヴェーダのマッサージを受けた後、のんびりと過ごす日曜の午後。
一昨日の早朝、インドに戻ってきた。以来ここ数日、心身を休めつつ、静かに過ごしている。
2005年11月に米国を離れて以来、当初は、半年に一度、米国に戻っていた。インド国籍を持つ夫が、米国市民権所得を考えていたことが理由だ。
数年前、市民権の取得計画はとりやめた。ただし、永住権(グリーンカード)の維持のために、今でも年に一度は渡米している次第だ。
毎年渡米することで、他の国へ訪問する機会が減るし、ニューヨークを訪れるのは数年に一度でいいとも思っている。
他に訪れたい大陸、国はまだまだたくさんある。
その一方で、定期的にこの街へ訪れることは、自分たちの暮らしを見つめ直すいい機会にもなっている。
特に夫にとっては、ニューヨーク本社の人々と顔を合わせたり、仕事関係者との会合を持つなど、休暇というよりはビジネス、ネットワークの構築の意味合いもある。
永住権を保持するということは、米国においても、毎年、所得税を支払わねばならず、それなりに負担ではあるが、それをしてもなお、米国との絆を保っておきたいとの思いは、わたしよりも、夫の方が強い。
わたしがニューヨークに住んでいたのは、1996年から2002年1月初旬まで。つまり、この街を離れて、今年でちょうど10年になる。
毎年、米国に戻るたびに、何らかの「思うところ」あり、それを書き綴ってきたが、今年は例年以上に、思うところ、重かった。
まず、その善し悪しは別として、加齢。
この件については、すでに記したが、改めて書き残しておくに、「加齢」である。
昨年までと明らかに異なったのは、今までのコンタクトレンズではもう、物を見るのが不自由なほど、老眼の度が進んでいたこと。
ニューヨークで老眼鏡を新調し、コンタクトレンズの上からメガネをかけるという心地の悪い状況であった。
実は数カ月前に遠近両用のコンタクトレンズを新調したのだが、それはどうしても見づらくて、諦めた。
今回ほど、焦点を合わせるのに苦労したことはなかった。
加えて、「外食欲」の激減。
インドに暮らし始めて以来、年々「健康的粗食」に移行している我が家。
数年前より始めたアーユルヴェーダグラムでの年末休暇、そして今年に入ってからのスリランカ旅を経て、よりいっそう、野菜中心の健康的な食生活を意識するようになっていた。
食品添加物を摂取する機会が極めて少なく、作り立てをすぐに食す、を心がけてきたここ数年。肉類、魚介類も好むがしかし、野菜の分量が圧倒的に多い。
毎度、渡米前には、
「ステーキ!」「寿司!」「焼き肉!」「イタリアン!」「スパニッシュ!」「一風堂のラーメン!」「おいしいカリフォルニアワイン!」「あれこれスイーツ!」……
と、食べたいものリストが脳裏に浮かぶのが常で、今までは、それを楽しんできたものである。
ところが今回は、旅の中盤で、わたしが胃腸を壊した。以来、アルコールも歓迎しない。体調は帰国後も不全で、ようやく今、こうしてブログを綴る気力が蘇ったほどだ。
不思議なもので、というか、当然のことなのかもしれないが、身体が受け付けないと、精神的にも、食事に興味がなくなってしまう。
夫は今回、最後まで元気だったがゆえ、彼に付き合っていろいろな店は巡ったものの、わたし自身の喜びは浅かった。
米国を訪れて、牛肉のステーキを食べる機会が一度もなかったというのも、今回が初めてであった。
夫が7歳年下だということもあり、自分が40代になってからも、どこかしら、ライフスタイルなり精神的有り様が30代のままでとまっていたように思う。
その夫も、今年で40歳になる。
身体と心の調和を意識しながら、ライフスタイルもまた、徐々に「大人らしく」変えて行くべきなのだろうなということを、今回の旅では強く感じた。
普段からそこそこのエクササイズは心がけているし、幸い、基本的な体力はある方だ。大病をしたこともない。だからといって、油断しているわけでもない。
インド移住後は、むしろ健康に殊更留意するようになった。そのせいか、歯科や定期検診を除いて、病院にかかったことは、今回(昨日、咳のために病院へ行った)を含めて3回目。
アーユルヴェーダの効果もあって、腰痛はなくなり、米国在住時よりも健康になっていた気がする。
しかし、ニューヨークで冷気にさらされ、雨に降られ、いつもと違う朝昼晩の食事によって、たちまち不調となった。
過信するなかれ、ということであろうか。
それに加えて、鏡。
非日常の鏡には、日常とは違う自分の素が映る。普段見慣れた鏡では、見えなくなっている自分の素が、突きつけられるように迫る。白髪さえ、増えて見える。
たとえば鏡面壁に映る自分の姿。試着室の中の全身鏡に映る自分の姿。
鏡を見るにも、普段は自分に都合のいいように、視覚情報を取捨選択していたのだな、とさえ思える。
インド移住の直前は、その準備期間として西海岸のベイエリアに5カ月ほど住んだが、その前に、D.C.には3年半、暮らしていた。
ニューヨークでレンタカーを借り、久しぶりの道を走る。
運転するのは、実に3年ぶり。あまりのブランクに、運転する前は緊張したものの、一旦、街に出ると、徐々に身体がなじみ、感覚が戻って来る。
マンハッタンの、交差点の、人々が信号無視をして突進して来るさま。
トンネルをくぐり抜けてニュージャージー州へ出て、左手に摩天楼を眺める様子。
幾度となく見た光景を、久しぶりに目にして、時間は急速に戻る。縮む。
たとえブランクがあっても、それなりに経験があれば、勘はすぐに戻るものだということがわかり、それはうれしい発見だった。
もっとも日ごろは運転していないとはいえ、インドの路上を走る際には、たとえ後部座席からであっても、あちこちに注意を払いつつの日々。
今のドライヴァーは運転がうまいので安心しているが、以前は気が抜けない人たちばかりだったから、感覚はむしろ研ぎすまされているともいえる。
そして到着した7年ぶりの米国首都。かつて暮らしていた国立大聖堂にほど近い、ジョージタウンの北側にあるホテルに滞在した。
夕刻、到着したころには、雨が降っていたものの、翌日は夢のような快晴で、すばらしい一日だった。
かつての住まいを訪れたり、なじみの庭園を散策したりするうちに、7年前が瞬く間に昨日にかわる。こんなにも長き不在だったとは、最早信じられぬほどの、見慣れた光景。
インドでの6年半は、幻だったのですよ。
といわれても、そうかもしれない、とさえ思えるような、時間の遡り。
「浦島太郎」の物語が、とても身近に感じられる瞬間。
あの物語は、実は、このような現象を語っているのではなかろうか。久しぶりに戻ってきた「懐かしい街」。
竜宮城で過ごした歳月は、実は久しく、玉手箱を開けるとたちまち白髪の老人になる。あの物語の深さがまた、感じられもする。
人は歳を重ねれば重ねるほどに、全人生における1年の割合が小さくなる。
そんな風に考えると、子どものころの1年は、今とは比べ物にならないくらい、長く濃密であり、年を重ねてからの1年は、その逆ともいえる。
記憶はまた、その経験の質によって、その色濃さを変化させる。印象的で強い経験であればこそ、記憶に深く、濃く、刻み込まれ、振り返れば、突出している。
いつでも、時空を軽々と超えて、すぐにも思い出せる。
ときどき「記憶を上書き保存する」といった表現を目にすることがある。それは、無理な話だ。と、いつも思う。
少なくとも、わたしにとっては。
たとえば、わたしは24歳のときに、初めてバルセロナを訪れ、サグラダ・ファミリアに上った。それは、ガイドブックの取材であった。
初めて、アントニオ・ガウディの建築を目の当たりにした時の衝撃。上空から見下ろすオレンジ色の屋根屋根の様子。
遥か彼方を眺望しながら、風に吹かれ、自分の未来の果てなさに、思いを馳せた。1年後のことさえ見当がつかない、動きのある歳月を送っていたころ。
その後、27歳の時に、当時のボーイフレンドと、サグラダ・ファミリアに上った。
その後、32歳の時に、当時ボーイフレンドだった夫と、サグラダ・ファミリアに上った。
最後に、アルヴィンドと訪れたときには、まさに「前回の記憶を上書きしたい」との思いがあった。
当時は「上書き」などという表現はなかったが、確か桐島洋子のエッセイの一文に、同じような行動をとった彼女の経験が記されており、影響を受けていたと思う。
昔の思い出を消すために、同じ場所で、新しい思い出を作る。
それがいかに、無駄で意味のない行為であったかは、その数年後、気づくのだ。
自分の中では、サグラダ・ファミリアは、初めて見た時が一番のインパクトで迫っており、次いで、2番目、3番目と続く。
上書きどころか、最初を強調させる結果となっている。夫には悪いが、しかし、夫は今でもわたしのそばにいるという点において、多分、その安心感から、突出することがないのだとも思う。
これはあくまでも、一例に過ぎない。
何が言いたいかといえば、記憶に深く刻まれた大切なことは、どんなに歳月を重ねても忘れないし、いつでもそばにある。
そしてそれは、決して悲しむべきことではなく、たとえ苦い思い出であったとしても、意義深いことかもしれない。
ここに住んでいたころ、闘病の果てに亡くなった父。そして同じ歳の友人。
このカテドラルでは、二人のこと、自分の心の平穏のこと、どれほど、祈らせてもらったことだろう。
そんな日々のことが、この地を訪れて、怒濤のように迫ってきて、脳内が非常に混沌としていた。
夫にしても同じことであった。わたしとは異なる想念であれ、彼にとっても、ここに住んでいたころの出来事はまた、重く。
さまざまな決断を強いられ、実行してきた。インドに住もうと決めたのもこの街。
自分の決意が間違いであったとは認めたくがないために、インドでの日々を前向きに生きてきたのは事実。しかし、決して無理をしてきたわけではない。
未知なる世界に対する好奇心。尽きない話題。インドの魅力は、わたしにとって宝のようなものである。
インドで得ているもの、学んでいることの大きさは、ひと言では尽くせない。
一方で、インド移住を選んだ選択が、夫にとっては正しかったのか。との自問も沸く。
これについては、何とも言い難い。
他人の人生に、強い影響を与え合いながら、結婚。
相手が「結婚相手」というだけで、こんなにも巻き込み、巻きこまれの人生。その縁というものについても、思いを馳せる。
振り返る過程の中で、夫に対してもまた、もう少し謙虚に在るべきだな、と、反省もさせられた、今回の旅でもあったのだ。
なんだか理屈のわかりにくいことを書いてしまったが、わかる方にはわかっていただけよう。
自分の考えや有り様が、決して多数派ではないのに、多くの人の賛同を得られるはずがないではないか、ということを、このごろは切に思う。
少数派でも共感してくれる人があれば、その方々に、楽しんでもらえれば、とも思う。
それにしても。先進国の、工業製品の多さ。選択肢の多さとは、果たして幸せなことなのか?
スーパーマーケットひとつ訪れても、最後には、もう、息が詰まるような思いがするのはまた、いよいよマイノリティの有り様であろう。
ともあれ、混濁する思いを、徐々にクリアにしていきながら、さて、日常を軌道修正してゆこう。
東西南北の人になる。
20代のわたしの、テーマだったな。と、風見鶏を見て、思い出す。
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