土曜日以来、連日、一面に報道されているフランス人の父親の、幼女虐待のニュース。彼、パスカルとその妻スージャの名前は、新聞紙面、テレビ、ネットで流布されており。
フランス大使館は、パスカルに対して特別な処置をするでもなく、インドの警察にその処罰を任せる意向のようだ。
従っては、パスカルは昨日、逮捕されたのであった。
昨日は、普段、噂話をしない我が家のメイドのプレシラ、そしてドライヴァーのアンソニー、ともに、この話題を口にした。当然といえば、当然だ。あまりに身近な事件だから。
インドにおいて、使用人を抱える生活をしている人たちは、使用人らによって家庭内の噂がばらまかれていることを覚悟せねばならない。
それくらいに、彼らの噂は早い。幸いにも、プレシラもアンソニーも、噂話を嫌うわたしたちにとってはありがたいほどに、「つるまないタイプ」であるゆえ、実害はない。
が、今回ばかりは別である。二人が異口同音に言うには、パスカルを知る近所のドライヴァー、使用人がみな、彼に対して好印象を持っており、とても性犯罪を犯すような人物には見えないと、言っているとのこと。
みなはむしろ、温厚なパスカルに対し、スージャの方がトラブルメーカーだったのでは、とさえ、思っているらしい。
普段は無口なアンソニーも、昨日は珍しく、車内で自分から話しかけて来た。
「マダム。僕はどうしても、フランス人のご主人があんなことをするとは信じられません。こういっちゃなんですが、教育やステイタスのないインド人の夫であれば、理解できます。
しかし、彼は、教育を受け、領事館勤務で、しかも海外に暮らしている。そんな人が、あのような犯罪を犯すでしょうか?」
このようなことを、滔々と、語るのだ。
スージャ、パスカル、双方と話をしたことがあるわたしたち夫婦にとっても、深い仲でなかったにせよ、この事件は心に重く、真実の行方がわからない。
スージャは今、4人目の子どもを妊娠中である。そんな身で、たとえば夫を陥れるための狂言を働く理由があるだろうか。
自分の夫を犯罪者とし、牢獄にぶちこむほどの理由が、あるだろうか。その一方で、無罪を主張しているパスカルが、もしも本当に無罪だとしたら、いったい、彼の人生はこれからどうなるのだろう。
傍観者には、まったくわからない。夫婦間のかかわり。外の顔。内の顔。
話は変わって。
マッケンジー・カンパニーの元CEO、ゴールドマン・サックスやプロクター・アンド・ギャンブル(P&G)の元取締役など、さまざまな職歴を持つ、インド系米国人のラジャト・グプタ氏が、インサイダー取引事件に巻き込まれ、逮捕された。
この件については、米国では大々的に報道されており、インドでも少なからず報道されている。
ラジャト・グプタ氏は、その優秀な頭脳や厚い人望、豊かな経歴により、米国経済に大きな影響を与えて来た人物のひとりだ。社会貢献事業にも積極的で、インドでも彼の存在は敬意を伴って知られていた。
彼はまた、わが夫アルヴィンドが勤める投資会社の創始者の一人でもあり、勿論、夫も彼とは面識がある。
インサイダー取引が取沙汰された昨年、すでにグプタ氏は夫の会社との関わりを断ったものの、夫が彼の事件を気にしないはずがない。
当然といえば、当然だが、グプタ氏を直接知る人は、彼が故意に利益を得るべくインサイダー取引をしたとは思っていない。はずだ。
夫の話を聞くにつけ、陪審員制度の危うさ、いい加減さ、そして暴利を貪る弁護団の実情などが浮き彫りになり、真実は、どこにあるあのだろうとの思いが強くなる。
マーサ・スチュワートがやはりインサイダー取引で逮捕された時のことを思い出す。
グプタ氏は、すでに60歳を過ぎて、巨万の富とステイタスを築き、家族に恵まれた暮らしを送っている。その彼が、敢えて法を犯して不当な利益を得るべく何かを、敢えてやるだろうか。
米国はといえば、最早リーマンショック以降、投資や金融に関わる人々を、十把一絡げで邪悪なもののように扱う傾向もまた見られ。
確かに米国の貧富の差、格差社会は、インドとは違う意味で、すさまじい。日本人には想像できない「超資本主義」ともいうべく実態。
greedy。すなわち、富や権力に強欲な人たちも、もちろん大勢いる。その一方で、そうでない優秀な人格者もたくさんいる。
夫のビジネスを通して、そのような世界の一端を目の当たりにするにつけ、「金銭欲の底なし感」や「果てしなき物欲」や「虚勢を張ることの虚しさ」などについてを、考えさせられてきたものだ。
だからと言って……と話がまた、逸れてしまった。思うことをうまく書けないのでこの辺にしておく。
ともあれ、どんな事件であれ、裁くことの難しさ、判断することの難しさを思う。
翻って日常。
日常のなかにも、罪深いな、と思う出来事に遭遇する。この、インターネットの世界においても。
溢れる噂話や中傷。小さな罪の数々。特に、匿名だからこその気ままさで、人を気軽に侮辱するような人々の存在。
いつも、思うのだ。
人の肉体に、故意に傷をつければ、すぐにそれは犯罪となる。しかし、人の心に傷をつけても、罪とみなされることはほとんどない、ということを。
核心のない悪い噂を流布したり、人をいたずらに陥れたり。そういう世界が、実は日常にも満ちあふれている。
別に善人ぶるわけではないが、いやしかし、人はときに、善人ぶって平和を目指すべきではないか。
人は邪心を抑えて善人ぶってでも生きねば、世界は汚れちまった悲しみにあふれるに違いない、とも思う。
何が書きたいのかわからなくなってきたが、ともあれ、一側面だけで物事の善し悪しを判断するのは控えよう。広く世界を見る目を養おう。
と、改めて思う46歳の夏なのだ。