香椎潟、千早の里は、
緑濃き森のやしろよ……
(千早小学校の校歌)
白雲うつる 香椎潟
千古の波は 陽に映えて……
(香椎高校の校歌)
🌊
昨日、「ガーデンズ千早」で高橋彦太郎氏と再会を約束して別れたあと、母校の千早小学校、そして1年の2学期まで通った香椎第一中学校を眺めつつ、香椎宮参道を歩く。
わたしは、断片的ではあるものの、幼児期からの記憶が鮮明だ。かなり特殊な部類に入ると思う。1歳数カ月で生まれ故郷の熊本県荒尾市から、福岡市名島汐見町(現在の福岡市東区千早)に引っ越してきたときのこと、家の前の緩やかな坂をよちよち歩くのに難儀したことなどを覚えている。
福岡市に移り住んだ1966年(昭和41年)当時の近所の情景や、その変遷もまた鮮明に覚えている。1960年代の終盤、近所の道という道が舗装され、「溝(どぶ)さらい」が不要になった。薪を焚いて沸かしていた風呂が、都市ガスに変わった時のことも覚えている。
縁側に寝転んで、稜線を眺めるのが好きだった彼方の山。その山肌は切り開かれて三の丸団地が建てられた。
浴衣姿で父と散歩をした海辺の記憶は鮮明だ。ちょうど、昨日の1975年の写真のあたりが、まだ波が打ち寄せる砂浜だった。そこを歩いている時に、下駄の鼻緒が切れてしまい、父がおんぶしてくれた。あのころが、父とわたしが、最も仲がよかったときだと思う。
そんな愛しき海が埋め立てられて、次々に団地ができた。故に、幼い頃から「郷愁」に伴う「故郷喪失の念」が、鮮烈に身近な感覚だった。
わたしが環境問題などに敏感だとするならば、損なわれた山の稜線や海岸線、砂浜への憧憬にも起因しているに違いない。
わたしは、香椎高校を卒業した後、下関の梅光女学院大学(現梅光学院大学)の文学部日本文学科に進んだ。大学1年の夏休み。自由課題の宿題が出たとき、そのテーマを「香椎、千早、名島地区の学校の校歌」にした。暑い中、点在する学校を訪ね歩き、校歌を写させてもらった。学校の場所、創設年、歌詞の内容を分析しつつ、そこから導かれる歴史や自然環境についてをまとめた。あいにく、その課題は手元に残っていない。今、ひどく読み返したい。
朝鮮半島を望む玄界灘を眺めながら、遠い異国を夢想した子供のころ……と、当時の思いを綴れば尽きず。
参道にある「Nanの木」というカフェに立ち寄った。少しお腹が空いていたので、バタートーストを注文した。素朴に、おいしい。
コーヒーを飲みながら、しみじみと味わいつつ、自分が57年近くも生きてきてなお、昔日の感性が身近にあることが、奇妙にも思える。そんなとき、インドはとても遠い。インド? と思う。……人の記憶とは、なんなのだろう。
母校の香椎高校は、香椎宮のすぐそばにある。この校歌は、作詞/火野葦平、作曲/古関裕而。古関裕而氏は、第二次世界大戦中、大本営陸軍報道部より報道班員に任命され、インパール作戦の取材を命ぜらたとのことで、火野葦平氏も同行したという。
このことは、『インド独立の志士 朝子』の著者である笠井亮平氏のFacebookの投稿を通して、先日知ったばかり。敢えて知ろうとしているわけでもないのに、ご縁がバシバシ攻めてくる。
帰り道、線路脇の小高い場所にある「香椎潟 万葉歌碑」を見つけた。ここは、初めて訪れる場所だった。
「昭和初期までは、この丘のふもとまで波が打寄せ、丘上からは、まだ潮干狩りのできる遠浅の磯浜を見渡すことができた」とある。
無機質なビルディングが立ち並ぶ眼前の光景。目を閉じて、100年前を夢想する。
本日の派手なお召し物もまた、バンガロール空港で羽織っていた迷彩ジャケット同様、NICOBARのもの。だいぶ目立っていたようで、小学生男子らから声をかけられて話が弾んだり(どこ住んどうと? インドから来たと! え、インド知らんと? カレーの国よ、等々)、小さい子から指を指されて「きれいなお洋服」と言われたりして、なかなかに楽しかった。
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