2日目の南ムンバイとは打って変わり、3日目の昨日は新興エリアの北ムンバイへ。印パ(インド・パキスタン)分離独立した1947年以来、インドは社会主義的政策をとってきた。しかし、1980年代後半に起こったペレストロイカをはじめとする世界情勢の変化の余波を、インドも受けることになる。
1991年。インドの保有外貨が底をつき、債務不履行が目前となった際、ナラシンハ・ラオ政権下、当時は財務相だったマンモハン・シン元首相によって、インドは市場は開放され、自由経済への扉が開いた。この経済改革を端緒に、外資の参入が始まり、インドの社会や経済が変化し始める。2000年代にはその傾向が顕著となり、欧米先進諸国の資本が続々、流入し始めた。
わたしは2001年に初めてインドの土を踏み、デリーで結婚した。そのときには「こんな国には住めない」と思っていたはずなのに、その後、米国のメディアなどを通してインドを学ぶにつれ、2003年の終わりには「これからはインドの時代だ」と確信した。
2003年12月にインドを再訪、ムンバイ、デリー、バンガロール、チェンナイを旅しつつ、インド移住を決意したのは、この国の、あらゆる側面における深さと面白さ、そして未来への躍進が、漠然と、しかし確実に、肌身に感じられたからだ。
そしてその感覚、未来への期待感が、今なお、変わらない。
2005年にインドに移住して以来、わたしは、バンガロールよりもむしろ、ムンバイやデリーの視察旅行を重ねてきた。以来、複数のクライアントを案内してきたが、最も頻度が多く、軸となった仕事は、日本の広告代理店大手の研究開発局に所属されていたN女史との仕事だ。2006年から10年間に亘り、彼女と重ねてきた視察旅行や市場調査、家庭訪問の仕事は、わたしにとって、かけがえのない財産だ。
N女史との仕事はじめ、他のビジネスで得られた情報は、もちろん外部に公開することはできないものの、手元には膨大な資料が残っており、開けばたちまち、過去を検証できる。無論、そのときのジャーナルやブログに掲載した写真を眺めるだけでも、当時の出来事や趨勢、トレンドが脳裏に蘇る。過去を紐解きつつ現在を眺め、未来を展望することができる。
さて、過去5年間は、視察や市場調査の仕事が減少していたこともあり、変貌著しい北ムンバイへ足を運ぶ機会が減っていた。
経済成長に伴う地価の高騰で、ムンバイのビジネスの中心地は、それまでの南ムンバイのナリマン・ポイントやカフパレードといったエリアから、空港のある北ムンバイに移行してきた。特に、バンドラ・クルラ・コンプレックス(BKC/ Bandra Kurla Complex)と呼ばれる複合商業施設や、北と南を結ぶ「バンドラ・ウォーリ・シーリンク」の誕生(2009年)で、その傾向は加速。
現在、海外駐在員の多くは、北ムンバイのバンドラやポワイ、ジュフ、マラド、アンデリといったエリアに暮らしているものと思われる。柴田氏曰く、ムンバイ北東部のナヴィ・ムンバイや、ムンバイの西に位置する都市プネなど、他エリア、他都市の開発も進んでいて、街並みの変化が著しいようだ。
そんな背景を踏まえ、昨日は柴田氏の案内で、彼が知る新しいエリアを訪れた。BKCに新しくできたショッピングモールを巡りつつ、時代の変遷を感じずにはいられない。目に留まる一つ一つの店舗について、なにかしらコメントせずにはいられないが、エンドレスだ。
バンガロールだけでなく、ムンバイ視察旅行も絶賛、承れます……と確信。
柴田氏たちが空港に赴くまえに、JUHUに車を走らせ、ビーチ沿いにあるSoho House Mumbai(英国発)でランチをとった。海を眺めながらの、なんとも心地よい空間だ。ここはダイニングだけでなく、上階にはビジネスセンターや宿泊施設、ジムを併設した会員制のクラブになっているとのこと。界隈に暮らすボリウッドスター達にも人気のスポットらしい。海は決してきれいだとは言い難いが、いい風情だ。
時空を超えて、思いが去来する。水平線の、麗しさ!
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