一転二転する諸事情に付き、あと数カ月はやはりホテル住まい@ムンバイとなりそうだ。わたしにとってはウェルカムな状況である。
昨日、一昨日の苦労が水の泡、という気がしないでもないが、水の泡になってくれてありがたいというものである。
「健康のために自炊した方がいい」などという考えは改めた。週末はバンガロールで手料理を食べられているのだし、ホテルの食事だって、先日も記した通り、工夫さえすればかなりよい。相当よい。贅沢を言っている場合ではない。
とはいいつつも、実は今回、試験的に「プチ自炊セット」を持参してきたのであった。
ドバイ旅行での収穫と言えば、空港の免税店で購入した、この日本製のトラベルクッカーである。
米1.5合程度を10分ほどで炊ける。
電気釜を買えばいいという話もあるが、このコンパクトさがいい。
米を炊く以外の調理にも、もちろん使える。
ところで今回持参したのは、日本米、ゴマ、鰹節、梅干し、醤油、塩、いなり寿司のもと、海苔、そしてインスタントみそ汁。
あれこれあるようだが、これで作れる物といえば、おむすび、いなりずし、そしてみそ汁という地味なバリエーション。
しかも、あまりヘルシーとはいえない。
しかし、ランチタイムは多忙なハニー。秘書に買って来てもらうパッとしないサンドイッチを毎日食べるよりは、愛妻によるおむすびの方がいいのではないか、という話だ。
この際、夫の国籍はさておき、「日本の心」である。
初日に作ったおむすび。トラベルクッカー使用初とあって、水加減が今ひとつ掴めず、少々固めのご飯となってしまった。おむすびの味もいまひとつ。
気を取り直して翌日は、水を多めに入れて炊く。それから、やはりドバイのホテルに隣接する日本食料品店で購入したところの「いなりずしのもと」でいなりずしを作る。いったいドバイへ何をしにいったのだという話はさておき、このいなりずし、かなり美味であった。
ホテルのバスルームの一隅で、せっせといなりずしを作る我。なかなかに味わい深い日常のひとこまである。
朝。夫が部屋でヨガをしている間、わたしはホテルを出て、マリンドライヴの遊歩道を歩く。ウォーキングをする人々が行き交うこの遊歩道。インドとは思えないほど、きれいに整備されている。
とはいえ、ここはインド。野良犬もいれば、浮浪者もいる。
行き交う人々の様子を眺めているだけで、思うところさまざまに。
誰も着飾っているわけではない。中にはサルワールカミーズやサリー姿の女性もいるが、たいていがTシャツや短パン、ジャージ姿の人々である。
しかしながら、どうしてだろう。皆が似たような服装をしているにもかかわらず、その人物そのものから発せられるオーラが、その人となりの断片を、浮き彫りにしている。
身のこなし、なのか。それとも表情、なのか。その人物から発せられる、その人物のバックグラウンド。ただすれ違うばかりなのに、その人の背景が、著しく透けて見えるのだ。
それはインド生活2年余りのうちに身に付いた習慣ともいえる。
米国や欧州や日本など、他国ではなかなか察知しがたい、「人の層」のようなものが、この国ではあまりにも、くっきりと見えるのだ。
もちろん、わたしの印象が正解だとは限らない。しかし、大きく外れていることはないと思われる。
ビジネスマンの顔。学者の顔。おぼっちゃまの顔。メイドの顔。雇用主の顔。令嬢の顔。有閑マダムの顔。ドライヴァーの顔。物乞いの顔……。
さらには、不満の顔。いらだちの顔。平穏の顔。豊かの顔。渇望の顔。不安の顔。幸せの顔。不幸の顔……。
その見えやすいことの善し悪しはさておき、その人々の発する無言のオーラのようなものを眺めつつ、翻って自分。
裸一貫でも。
という言い方は極端だが、ともあれ自分を装飾するものなにひとつない、まっさらな、ただ自分の身一つの状態で、いかに自分という個性を明らかにして生きていられるかが決め手なのだ、と、歩きながら思う。
素手でも戦える心意気のようなものを常に持っていたいと、折に触れて思うのだ。身一つで勝負できる強さや勇敢さを。
いまひとつ、うまく表現できないが、おわかりいただける方にはおわかりいただけよう。
こういうことに思いを馳せる時、いつも武術を身につけておけばよかったと思う。空手、柔道、合気道など。いざというとき、自分の身を、いや自分だけでなく夫を含めて周囲の身を守れるくらい強かったらな、とさえ思う。
なにも戦闘態勢に入る理由はまったくないのだが、強く在りたいとの思いは、幼少時より潜在的にある。
いかん。話がフィジカルな方面に偏ってしまった。
身一つでも、優雅で品格のあるオーラを発せられるよう、自分を磨かなければ、ということが言いたかったはずだったが、ついうっかり、肉体的な逞しさを重視しがちな我である。
まだまだ、道のりは長く、目的地は遠いようである。