11月26日のテロで被害に遭ったホテルは、海外のメディアでは「タージマハル・ホテル」と「トライデント・ホテル」となっているが、正確には、「タージマハル・ホテル」と「トライデント・ホテル」「オベロイ・ホテル」の3つのホテルだ。
オベロイ・ホテルに隣接し、内部の廊下で繋がっているトライデント・ホテルは、オベロイホテルグループのホテルであることから、二つがまとめて一つのホテルと判断され、海外メディアではトライデント・ホテルの名前だけが取り上げられているようだ。
二つのホテルは当然、チェックインのロビーも異なるし、客室も違う。ただ、双方のホテルやスパなどの施設は、どちらの宿泊客もルームチャージできるなど、全く別のホテルとして機能している訳ではない。
ちなみに数カ月前までは、トライデント・ホテルはヒルトン・ホテルだった。ヒルトン・ホテル時代もまた、経営はオベロイ・グループだったので、システムは同じであった。
21日に営業を再開したのはトライデント・ホテルの方で、ダメージの大きかったオベロイ・ホテルは未だ修復作業中だ。
さて昨日。夫はトライデント・ホテルでのランチミーティングに出かけた。そこでオベロイ・ホテルのティフィン (Tiffin) というレストランのマネージャーと顔を合わせたという。
わたしたちはムンバイ移住前、数カ月をオベロイホテルで過ごしたので、ティフィンで朝食をとるとき、マネージャーとも言葉を交わし、顔なじみになっていたのだ。
夫曰く、マネージャーは怪我したのか、足をひきずるように歩いていて、ずいぶん憔悴しきっていたとのこと。あの夜、ゲストを救出するのに尽くしたそうで、もちろん詳細の多くを語らなかったらしいが、辛い経験をしたのが見て取れたという。
個人的にタージマハル・ホテルのことが好きなので、タージマハルのことをばかり記して来たが、わたしたちにとって、オベロイ・ホテルもまた、相当になじみのある場所なのだ。ということを、今更のように、思い出した。
以下、過去の記録に、オベロイ・ホテルの写真を載せている。
■ホテルのこと。日本人多し。混沌モール。(2007年12月3日)
■二都市生活のはじまり。がんばっていこうぜ。(2008年2月20日)
■ムンバイ。ホテルライフの食事情(2008年3月7日)
■今しばらくは、ホテル住まい。身一つで、勝負。(2008年4月2日)
さて、わたしはといえば、今日、テロから1カ月を待たずに営業を再開したタージマハル・ホテルの様子を見に出かけた。
インド門からホテルにかけての一帯は、いつもなら大勢の観光客や物売りや自動車や観光馬車でごった返しているというのに、未だ道路は閉鎖され、閑散としている。
ホテルに入る前、空港と同様の機械で手荷物のセキュリティチェックを受ける。そこに立つスタッフたちの、あまりにも覇気のなさに、心が淀む。
ドアマンが、いない。自分で、重いドアを開ける。以前と変わらない場所のはずなのに、まるで別の世界のようだ。あたりに、うっすらと悲しみが霧になって立ちこめているようにさえ、見えた。
五感が鈍っているのに、しかし頭だけは冴えている、まるで睡眠不足のときのような感覚に襲われる。
あの日、ここで起こったことを、新聞や雑誌の記事でいくつか目にした。そのせいか、自分が惨劇を目の当たりにしたわけではないにもかかわらず、知らずのうちに脳裏に思い描いていた情景が再現されて、ぐっと身体が沈むような感じがする。
ロビーの奥にある、メモリアルのコーナーへ赴く。亡くなった人々の名が連なった墓碑銘に向かって、手を合わせる。
白いオーナメントで装飾されたクリスマスツリー。弾き手のないピアノが、ぽつんと力なくたたずんでいる。
行き交う人があれど、みな、静かだ。レセプションの背後の、M.F.フセインの絵画の鮮烈な赤やオレンジが際立ち、そこだけが力強い生命力をほとばしらせているようだ。
新館だけがオープンしたのだと思っていたが、店舗に関してはそうではなかった。新館と旧館を結ぶ廊下沿いの店も、ダメージを受けていなかったのだろう店は開店していた。
ただ、銃撃戦の舞台となったレストランのあたりは、上の写真のように壁が作られ、絵画がかけられていた。初めてここを訪れる人には、どこで何が起こったのかわからないほどに、きれいに修復されている。
旧館の方も、あの吹き抜けの回廊あたりこそ閉鎖されているものの、プールやショッピングアーケードは、一部営業していた。
お気に入りのJoy Shoesも開いていた。よかった。しばらくは閉店だろうと思い込んでいたので、安心した。入ってはみたが、しかしスタッフの誰もが暗い表情で、とても辛そうだった。
ふだん辛さをあまり見せない人々の多いインドにあって、持ち前の楽観を喪った人たちを見るのは、いたたまれない。が、これも現実。
インド門を見下ろすお気に入りの場所、Sea Loungeはまだ、閉鎖されている。新館側のダイニングで一息つくことにした。
コーヒーの、濃く苦みばかりが、感じられる。実際のところ、濃すぎるコーヒーではあった。
人はまた、喉元過ぎれば熱さを忘れることも、必要なのではないか、と思う。
人が、傷ついたり、病んだり、命を落としたりする、その状況というものは、あまりにも千差万別で、しかしどんな種類のものであれ、痛みは痛みだ。
命ある生き物としての人間を生きているわたしたちは、多かれ少なかれ、渦巻く生と死を見ながら生きている。人には、愕然とするほどの生命力の強さを持っている人もあるし、信じられないほどあっけなく消え去る命を持っている人もいる。
自分の命の種類を、その末期の有り様を、生きている誰一人として、知り得ない。
取り戻せないものに固執せず、果敢に前進することこそ。
この、清らかに守られた場所から一歩外に出れば、街には、ただ今日一日を生きるために、地を這うように生きている人たちが、あふれている。裸足で歩き、地べたに眠る人たちがいる。
感傷、という概念さえ持ち合わせぬ、ただ、生き延びるためにあがいている人たちが、無数にいる。あまりにもの混濁ぶりに、言葉がない。インドという国の、ムンバイという土地においては。
この際、最早、どこでもいい。
どこでもいいから、そこに立っている以上は、振り回されて軸がぶれないように、両足を踏ん張って屹立し、両の目で、しっかりと見ておきたいと思うのだ。