ライプツィヒ、ドイツ LEIPZEG, GERMANY, 1994
あれから、20年がたったとは。わたしもずいぶん、長く生きているような気さえ、する。
ベルリンの壁が崩壊して1年と数カ月たった1991年、取材でドイツを旅した。時は折しも湾岸戦争の最中。各社が海外出張や取材を自粛する中での渡航。旧西ドイツから、旧東ドイツへ向けて、車で旅をする仕事だった。
冬の欧州の曇天は、重く……。あの旅もまた、心に深く刻まれる出来事の、光景の、満ちあふれた旅だった。
ベルリンの壁の傍らの露店では、ベルリンの壁の破片が、プラスチックケースに収められ、売られていた。自分のためにひとつ、買ったはずなのに、手元には残っていない。
あの取材のとき、通訳をしてくれたハイケ嬢は、どうしているだろうか。ベルリン、という言葉を耳にするたびに思い出す。
彼女は確か、壁が崩壊するわずか半年ほど前に、東から西へ、亡命したのだった。彼女のボーイフレンドはイラン人で、だから毎日、新聞を広げては、湾岸戦争のことを気にしていた。
一度、彼も交えて夕食をとった。キャンドルの明かりが揺れる、薄暗い店だった。
分厚い黒いコートを羽織った彼は、ハイケ嬢と、同行のライターと、そしてわたしの、3人の女性に一輪ずつ、赤いバラを贈ってくれた。
あのときわたしは、25歳だった。
知らないことが、あまりにも多すぎた。
ニューヨークでミューズ・パブリッシングを経営していたころ、自社出版で『muse new york』という冊子を発行していた。その冊子の中で、ドレスデンのことを記したことがあった。今から約10年前だ。その記事を、一部修正して、ここに転載したい。
『muse new york』Vol.3, February, 2000
■蘇りし風景、ドレスデン
ベルリンの壁が崩壊してまもない冬のドイツを、取材で旅したことがあった。旧西ドイツのフランクフルトを起点に、グリム兄弟ゆかりのメルヘン街道をすりぬけ、旧東ドイツに入りベルリンを目指すというルートだ。
基本的に速度無制限の高速道路であるアウトバーンを、フォルクスワーゲンやベンツ、BMWが滑るように走って行く。アクセルを踏む足に、つい力が入ってしまうドライブルートだ。
ところが旧東側に入った途端、状況は一変する。ガタガタとしたつぎはぎだらけの道路、もうもうと排気ガスを巻き上げながらのろのろと走る車……。内装に紙を使っていることから「紙でできた車」との異名を持つトラバントだ。
あたりの風景も、壁の崩れ落ちた家並みや、お化け屋敷のような廃屋が目に飛び込んできて、なんとも寒々しい。トイレに行きたくなっても、いっこうに姿を見せないドライブイン。
延々と走り、ようやくパーキングのサインを見つけるも、本当に駐車場があるだけで何の建物もない。仕方なく物陰で用を足す。
途中、道路が封鎖され、1時間近く身動きが取れなくなった。事故かと思いきや、地元住民がストライキを起こし、道路を封鎖しているという。そこはまさにトラバントの工場がある町で、住民の大半が工場に勤めていた。
東西の統合により民営化された旧東側の工場は、瞬く間に淘汰されていく。
BMWやベンツを前にして、トラバントが生産され続けるわけもなく、職を失い途方に暮れる人々が、不慣れなストライキを決行していたのだった。
18世紀後半から19世紀前半にかけて、ゲーテやリストが暮らし芸術の都として栄えた町、ワイマールに立ち寄る。西側の手が入っていない街並みは、時の流れが止まっているかのような、古びてなお美しいたたずまいを呈している。
更に東へ車を走らせ、ヨーロッパで最も古い磁器窯のあるマイセンを訪ねた後、ドレスデンを目指す。
ドレスデン。エルベ河畔に広がる麗しき古都。ツィンガー宮殿やゼンパー劇場など、ロココ、バロック様式の建築物が点在する芸術の都だ。ドレスデンは1945年、英米空軍の大空襲を受け、3万人を超える死者を出すなど壊滅的な被害を受けた。
戦後、少しずつ復興作業が行われていたものの、未だに戦災の跡が生々しい光景が残っていた。その一つが、かつて聖母教会と呼ばれていた瓦礫の山。街の中心地に、形跡をとどめぬほど崩れ落ちた、煤けた残骸が横たわっている。
再建された優美な建築物と、どす黒い瓦礫の山と、社会主義時代に建てられた巨大で無機質な四角いビル群。これらの取り合わせが奇妙な印象を与えてはいるものの、街そのものは過去の栄華をしのばせる力強いオーラを放っていた。
それから3年後の1994年、私は再びドレスデンを訪れた。今度は取材ではなく、3カ月に亘る欧州一人旅の途中で。前回訪れたとき、この街には再び訪れたいと、切望していたのだ。
ドレスデンは、その街の、何もかもが、まるで違う場所のように変貌していた。マクドナルドにバーガーキング、ハーゲンダッツの色鮮やかな看板、ピカピカに磨かれた通りのショーウィンドー、ブティックの扉からこぼれてくる香水の匂い……。
鼻についていたトラバントの排気ガス臭もない。どこを歩いても目に飛び込んでくるのは、クレーン車と鉄筋の足場と外壁を覆うビニールの幕。街全体が機械のうなり声に満ちている。
40余年の眠りから突如目覚め、大慌てで化粧直しをしているといった風情だ。
宿泊先の安ホテルの、酒場で出会った労働者の一人が言う。
「俺はイギリスから来たんだけどね。とにかくひどいもんだよ。急いで工事を進めろというが人手不足でお金もない。こいつは旧西ドイツ、あっちのテーブルの奴らはクロアチアから来た。雇用主との間で何かとトラブルが絶えなくてね。この間も3週間ただ働きさせられたトルコ人たちが、泣く泣く帰ったよ」
その当時のドレスデンは、古い時代と新しい時代との狭間で、激しく混沌としていた。そんな気ぜわしい風景の中で、私は次第に気が滅入り、滞在予定を短くして明日にもこの街を出ようと考えながら歩いていた。
その時である。私の目の前に、聖母教会の工事現場が現れたのは!
3年前、それは瓦礫の山だった。ところが今、それらの瓦礫は一つ一つ丁寧に取り除かれ、フェンスの中の巨大な棚に、まるで展示物のように整然と並べられている。彫像の一部や時計台の文字盤などもある。
新築でも改築でもない。彼らが行っているのは、忠実な復元だった。瓦礫を除去して新しい教会を建てる方が、どんなに簡単だろう。途方もなく難解な立体ジグソーパズルに、この国の人たちは真っ向から挑んでいるのだ。
戦争で壊滅状態に陥ってなお、数十年の停滞を経てなお、荘厳な風景を取り戻そうとする情熱と執着。そして、自分たちの築き上げたものに対する深い誇り。
しばし茫然とする思いで、そばにあったベンチに腰掛け、作業の風景を眺めた。工事現場の横には完成図の立て看板。完成予定は2006年とあった。
そして1999年11月。ベルリンの壁が崩壊して10年、というニュースを耳にして、ドレスデンの聖母教会を思い出した。あれからどうなったのだろう。
インターネットで探してみたところ、とあるサイトで聖母教会の現在の写真を見つけた。まだ完成ではないとコメントされているものの、威風堂々とした構えの外観が、スクリーンに映し出されていた。
2006年、完成した聖母教会を見に、もう一度ドレスデンを訪ねてみようと思う。
【参考写真/資料】
↑ 爆撃の傷跡をそのままに残す瓦礫同然の聖母教会(1991年)
↑ インドのオート3輪に勝るとも劣らぬ、猛烈な排気ガスをまき散らしながら走っていたトラバント(1991年)
↑地道な復興作業が進められていた聖母教会(1994年)
結局、1994年以来、わたしはまだドレスデンを訪れていない。聖母教会は2005年の終わりに、完成したという。いつか必ずドレスデンを訪れて、この教会に触れたいと思う。