すこし無口でいようと決めた3月11日の周辺。
昨年、補習校の授業を行った際に受け取った中学3年の国語の教科書。
さきほど、何気なく手に取り、ぱらりとめくったら……福島県出身の詩人、長田弘の文章が、目に留まった。
今の気持ちに、かなり近い文章が、そこにはあった。ここに抜粋する。
「はじめに……」について 長田弘
時代はどんどん新しくなり、変化はいよいよ激しくなって、歴史はいっそう加速して遠ざかって、つい昨日のことが、あたかも昔のように感じられてしまう。そういった感覚さえ、今ではもう疑われなくなっているかのように見えます。それが現在だ、と。そして、それがわたしたちの生きている時間なのだ、と。
けれども、たとえそんなふうであっても、人は、遠ざかるきりの歴史と無縁のままの存在ではありません。むしろ反対に、人の一生というごく短い時の間に、人類の長い長い、遠い遠い記憶を、それぞれがそれぞれの日々に、一生かけて生ききる。それが、人という生命ある生き物の不思議です。
人はそれぞれに、あくまでも個人。そうであって人は、個人である自分のうちに、いわば人類の一人としての記憶を秘めている存在です。
どれほど時代が変わろうと、人はこの世に、原初のままに生まれます。
そうして、だれもがこの世で自分が最初の人間であるかのように、大気を息し、声を発して、言葉を覚え、やがて、自ら自分の現在を生きる一人になってゆきます。
育つというのは、原初から現在への時間を、人が一身に、深々と生きてゆくということです。
はじめに……
星があった。光があった。
空があり、深い闇があった。
終わりなきものがあった。
水、そして、岩があり、
見えないもの、大気があった。
雲の下に、緑の木があった。
樹の下に、息するものらがいた。
息するものらは、心をもち、
生きるものは、死ぬことを知った。
一滴の涙から、ことばがそだった。
こうして、われわれの物語がそだった。
土とともに。微生物とともに。
人間とは何だろうかという問いとともに。
沈黙があった。
宇宙のすみっこに。
この詩は、詩集「黙されたことば」の冒頭に収めた詩です。詩は(わたしにとっては)語るための言葉ではありません。黙るための言葉です。
大切にしたいのは、世界をじっと黙って見つめることができるような、そのような言葉です。声が言葉を求め、人が言葉に自分を求め、そして、言葉になった声から人の物語が育ってゆく。
わたしたちが世界とよびならわしているのは、その広がりです。
※以上、中学3年の国語の教科書(光村図書)『人間と言葉』より抜粋。