これまで公私に亘り、様々な土地を旅して来たが、今回ほど、その地の天然自然の観光に留まらず、歴史的背景や人々の暮らし、現在の情勢、そして未来について、思いを巡らせる旅はなかったと思う。
今回の旅の主催者であるデヴィカとは、数カ月前に初めて出会った。
実際、今回の旅の前に彼女に会ったのは、その一度きりだった。
彼女が支援する女性たちの自助グループ、"ANU'S"を訪ね、取材を終えた帰りの車中。
あれこれと話をしていたときに、彼女から、「手工芸品を巡るカシミールの旅を企画しているの。10人限定なんだけど、行かない?」と誘われた。
予定が空いているのを確認した直後、二つ返事で参加を決めた。その後、彼女から電話があり、
「もしも興味があれば、5日間のツアーを終えた後、わたしが支援しているプロジェクトのある村まで、足をのばさない?」
と声をかけられた。そのときも、二つ返事でOKした。
カシミール州の州都、スリナガールでのツアーには、7名(うち子どもが2名)、その後のプロジェクトツアーにはわたしを含め2名が同行。
デヴィカのネットワークは広く、彼女の活動に関心を持っている人、旅に行きたいと思う人は少なくないはずだ。しかし予定が合わない、カシミール情勢に不安があるなどの理由で参加できない人も多かったらしい。
そんな中、自分がこの旅に同行する機会に恵まれたことを、まずは、今、深く感謝している。
旅の最中には、身内に余計な心配をかけたくないこともあり、敢えて載せなかった写真を、まずは載せる。そして、それに伴うこの地の情勢について、簡単に記しておく。
上の写真は、スリナガールの町中にある工房付近で撮影したもの。「軍事パレード」を行っているのではない。こういう光景が、カシミールでは日常なのだ。
澄み渡る青空と、緑麗しき山なみ。豊かな自然美に包まれた街の至るところに、迷彩服やカーキ色のユニフォームを着た兵士らが常駐している。
もちろん、町中だけではない。郊外へ続く道。田園風景広がるのどかな街道沿い、家族連れで賑わう観光地でさえ、ある一定の間隔で兵士らの姿を見かける。
1947年。英国統治を経て、「インドとパキスタンが分離独立」して以来、久しく続いている、カシミールのこの光景。
そもそも1947年の分離独立以前、「インド」という「国」は存在していなかった。
現在のインドやパキスタン、バングラデシュなど含む一帯は、500を超える藩王国が散在しており、それら大小の国々を、英国が間接的に統治していた。
その広大な地域をして、「英国領インド帝国」と呼ばれていた。
英国からの独立にあたっては、マハトマ・ガンディーの運動をはじめ、とても簡単には綴れない歴史的な背景が交錯しているので、極力、間違いのないように、結果だけを簡潔に記したい。
この広大な地域は、「ひとつのインド」として、平和的な独立が実現できなかった。
ヒンドゥー教徒が多数の現在のインドと、イスラム教徒が多数のパキスタンとに分離独立した。
この「分離」をして、インドでは「パーティション」と呼ぶ。
ちなみに、インド北東部に位置する現在のバングラデシュは、パキスタンと国境を接していないにも関わらず、当初、「東パキスタン」として独立していた。
1947年8月15日に、こうして分離独立がなされたのだが、その際、カシミールだけは、印パどちらにも属していなかった。
カシミールの藩王自身はヒンドゥー教徒だったが、住民の大多数がイスラム教徒だったことから、独立を貫くことを考えていたのだ。
ところが、1947年10月、パキスタンがカシミールに侵攻。それを恐れたカシミール藩王がインド政府に武力介入を要請。これが第一次印パ戦争の契機となった。
この結果、カシミールは、上の地図にも見られるように、印パがそれぞれ分割支配することになった。
北部の緑の部分がパキスタンの統治下、オレンジ色の部分、ジャンムー・カシミール州がインドの統治下にある。なお、東部のアクサイチンは、中国に支配されている。
カシミールの地理的概要などについては、下記を参照されたい。
■カシミール: Wikipedia (←Click!)
1947年の印パ分離独立。これを契機に、カシミールは印パの紛争の舞台となり続けており、大小の紛争を繰り返して来た。
イスラム教とヒンドゥー教の対立。
職のない若者たちによるゲリラ活動。
テロリズムの頻発と観光産業の打撃。
経済的な貧困……。
ヒマラヤを望む豊かな大自然。歴史に育まれた伝統的な手工芸品。
その麗しい側面とは裏腹の、核戦争に至る可能性を抱え続けて来た情勢。
この背景を知るからこそ、目の前に広がる光景の麗しさが、痛みを伴って、胸に染み入って来る。少し、屈折した、感嘆。
「カシミール、いいところよ〜! ぜひ行ってね!」
と、屈託なく言うことのできない現状。
なにしろ、日本の外務省の海外安全ホームページには、こうあるのだ。
カシミール地方管理ライン付近:退避を勧告します。渡航は延期してください。
これから、カシミール旅のレポートを記すが、しかし「ぜひカシミールへ行ってください」とは言えないし、言わない。
カシミール訪問に興味のある方は、あくまでも自己判断で、決めていただきたいと思う。
旅に出る2日前、新聞記事に「スリナガール」の文字と、燃える建築物の写真を見た。築200年以上の歴史的な建造物である木造の寺院が焼失したという記事だった。
火災の原因は漏電。人為的なものでなかったにせよ、消防隊の対応が悪すぎたらしく、一部の信者たちが暴徒化し、小競り合いがあった。
このような地域では、なにがどう、大きな事件に発展するかわからず、正直なところ地元の情勢がつかめなかった。
しかし、スリナガールに暮らすデヴィカの友人で、今回、ツアーのコーディネーションをしてくれたレヌカから、ツアー実施に問題がない旨、連絡があったため、その判断を仰ぐことにしたのだった。
ちなみに消防隊であるが、地元の消防車が駆けつけたものの、十分な水を備えてなかったことから鎮火できず。
中央の大きな消防署(実際に見たが、非常に立派であった)の応援を頼んだものの、消防署の入り口ゲートの鍵を持った人が見つからず、消防車が外に出られなかったという事態が発生。
「緊張エリア」にも関わらず、その実態は、超インド的な間抜けっぷりである。
これをして、怒らぬ市民がいるだろうか、いや、いまい。聞いているわたしですら、腹が立って仕方がなかったのだから。
というわけで、火災発生から数日間、街の公共機関は州政府の通達により、すべて営業を停止。言わば「厳戒態勢」となっており、非常に静かな状態が続いていたのだった。
そんな中で、今回のツアーは催行された。ちょっとしたハプニング(夫の来襲含む)はあったものの、無事、終了したのだった。