仕事が山積につき、ブログを綴っている場合でもないのだが、しかし、自分が忘れないためにも記しておきたく、今日の出来事と、思うところを。
今日は、OWC (Overseas Women's Club)が主催するイヴェントを訪れた。
OWCが支援する25の慈善団体の多くが一堂に会し、活動内容をOWCのメンバーに紹介する場で、インド移住以来、毎年訪れている。詳細は過去の記録を見ていただければと思う。
今年は来訪者が少なめで、決して盛況とはいえない雰囲気だったが、それでも、顔なじみの人たちと言葉を交わし、資料を改めて受け取るなど、個人的には意義深いひとときだった。
これまでとの大きな違いは、手工芸品を制作、販売する試みを始めた団体が増えていたこと。そのクオリティは、団体によって差があったが、どの団体も模索しつつ、活路を見出している様子が伺われた。
ミューズ・クリエイションでは、12月にバザールの開催を予定している。その際に出店協力をしてくれる団体を探そうとも思っていたので、それは個人的にも喜ばしい状況であった。
数カ月前に開催したバザールに来てくれた団体も、前回の手応えがよかったことから、またぜひ協力したいとのことである。
うれしい限りだ。
ミューズ・クリエイションも、がんばって「販売できるもの」を仕上げたいところである。
さて、今日の訪問で、「改めて」その存在の有り難さを痛感したのは、上の写真の彼ら、であった。かつて訪問したホスピスである。
できれば、下記の記録を読んでいただきたい。
今までいろいろな慈善団体を訪問して来たが、ここだけは、他とは異なる存在意義が感じられ、慈善活動云々を超えて、考えさせられることが多かった。
■喧噪の中の静謐。涅槃に近い場所、ホスピス。 (←Click!)
今、自分で読み返して、すっかり詳細を忘れていたことを認識し、改めて、なんとすばらしい場所だろうと思う。
メイドのプレシラの義母が末期の胃がんにさいなまれていることは、先日記した。結果的には、現在、病院を離れ、自宅療養している。
インドの病院は千差万別。メディカルツーリズム云々で、最先端の技術で以て外国人をも受け入れる病院がある一方、筆舌に尽くし難い「とんでもない病院」が多数あるのだ。
その詳細を、今日のところは記さないが、ともあれ、プレシラの一家では、これ以上望みのない治療のために入院費を払い続けるのは不毛であると判断したとのことである。
だからといって、末期がんの患者を自宅でケアするとが、どれほどたいへんか。想像に難くない。
主には嫁であるプレシラが義母の面倒を見ていることから、彼女の愚痴とも叫びともつかぬ言葉を、毎朝少しの時間、聞くことが日課となっていた。
普段は人の噂話などをせず、我慢強い彼女であるから、ずいぶんと苦労を抱え込んでいるのは容易に察せられる。
彼女の義姉、そして義母が、プレシラに辛く当たって来たことを、以前から聞いていたから、彼女の境遇が大変であることはわかっていた。
しかしこの状況に至り、実質的に義母の面倒を見るのはプレシラだけ。義姉たちは夕方「顔を見に来る」だけで、身の回りの世話をすることはないという。
先週は、日増しにやつれて(といってもプレシラはまるまる太っているのだが)、疲労困憊している彼女が心配になり、万一の時には事情がわかっている方がいいからと、わたしがホスピスに直接電話をした。
なにしろ夫のプレシラの夫のアンソニーは、そのときはまだ、母親をホスピスに入れることに大きな抵抗があるとのことだったから。
わたしがホスピスを訪れた時にお世話をしてくれた方に電話をし、事情を説明したところ、
「末期がん、ステージ4以降のガンであることが証明される診断書があれば、いつでも入れます。まずは家族が診断書を持参して、こちらへ来てください。それから患者を迎えに行きます」
とのことである。わかっていたこととはいえ、改めて、有り難いことだと痛感する。そしてわかっていたこととはいえ、念のため、費用はかかるのか、と問うたら、
「すべて、無料です。お金は一切かかりませんよ」
その声を聞いて、本当に、胸が熱くなった。言わなくてもいいのに、
「彼女たちがお世話になるときには、寄付をさせてください」
と、言わずにはいられなかった。
その後、プレシラの夫のアンソニーに電話をし、ホスピスの事情を説明した。わたしがどこまで介入すべきか、それなりに悩んだが、しかし、最早6年近くも付き合いがある彼ら。他人ではない。
アンソニーは素直にわたしの話を聞いてくれ、時期が来て、必要だと感じたら、訪れると言っていた。
話が少し逸れるが、先週の月曜日、プレシラがいつになく、清々しい顔で出勤してきた。
義母の状態がよくなったわけでもないのに、どうしたのかしら、よく眠れたのかしら……などと思っていたところ、彼女から、声をかけてきた。
「マダム。実は昨日、義母がわたしに、ありがとう、って言ってくれたんです。病気のわたしを、こんなによく面倒を見てくれて、本当に感謝しているって。
今までは、義姉と一緒になって、辛く当たられるばかりだったけれど、初めてそんな風に言われて、わたしは本当に、うれしかったです」
人は、言葉一つで、こんなにも喜ばされたり、逆に苦しめられたりもするものなのだ。ということを、心底、痛感した。
義母の感謝の言葉が、プレシラの疲労を癒し、心を潤してくれたことは、疑いようのない事実である。
ほんとうにありがたい、と感じた時には、「ありがとう」という言葉を、惜しまずに口にしたいものだ、とも改めて思った。
心の中で思っていても、伝わらない。口にすることで、救われる人、報われる人がいるということは、すばらしい。
心の喜びは、顔ににじみ出る。
逆に、人のことを徒に中傷したり、無為に傷つけたり、不満ばかりをぶちまけたりしては、不幸が顔に出てしまう。
もろもろ、努めて、前向きにあろうと思わされるのであった。
話をホスピスに戻す。今日、ホスピスの担当者と話をしていて、自分がうっかり失念していたことを思い出した。
このホスピスは、ホームケア・サーヴィスも行っているのだ。週に一度、患者の家を訪れ、簡単な診察や治療、そして身の回りの世話をしてくれるサーヴィスである。
そのことを担当者に聞いて、早速プレシラに電話をし、すぐにも利用させてもらうよう伝えた。
週に一度、専門家が面倒を見てくれるだけでも、どれほどありがたいことか。
それでなくても、どんな状況でも、家族が不治の病に苛まれるのは、たいへんな苦痛である。
それに加えて、経済的な問題、世話をせねばならないなどの問題が重なると、彼らのような低所得層の人々にとっては、家族が崩壊してしまうほどの壮絶な事態を巻き起こすことも珍しくない。
生きるための、場所。
心安らかに、亡くなるための場所。
どちらも、大切。
プレシラの義母がお世話になるのを機に、改めてこのホスピスを訪問したいと思う。