↑1989年にベルリンの壁は崩壊した。その翌年1990年、東西ドイツ統合。そして1991年、わたしは旅行誌の取材で、東西ドイツをドライヴした。そのとき、ドレスデンにも立ち寄っていた。
↑1991年に訪れた時、単なる瓦礫の山だと思っていたそこで、再建工事が始まっているのを目の当たりにして、激しい衝撃を受けた。それは、かつてドレスデンを象徴していた麗しきフラウエン教会(聖母教会)の残骸だった。
↑丁寧に撤去されている瓦礫のひとつひとつ。その様子にひたすら感嘆し、何度もシャッターを切った。
↑ニューヨークで出版社を経営していたころに発行していたフリーペーパー『muse new york』。
↑「旅するミューズ」という紀行のコラムで、ドレスデンのことを記した記事。以下、文章を転載する。
◎今回の旅のハイライト。ドレスデンを訪れる前に、過去の経緯を
〈蘇りし風景、ドレスデン〉2000年2月発行の『muse new york』コラムより抜粋
今から10年前、ベルリンの壁が崩壊してまもない冬のドイツを旅した。旧西ドイツのフランクフルトを起点に、グリム兄弟ゆかりのメルヘン街道をすりぬけ、旧東ドイツに入りベルリンを目指すというルートだ。基本的に速度無制限の高速道路であるアウトバーンを、フォルクスワーゲンやベンツ、BMWが滑るように走って行く。アクセルを踏む足に、つい力が入ってしまうドライブルートだ。
ところが旧東側に入った途端、状況は一変する。ガタガタとしたつぎはぎだらけの道路、もうもうと排気ガスを巻き上げながらのろのろと走る車……。内装に紙を使っていることから「紙でできた車」との異名を持つトラバントだ。
あたりの風景も、壁の崩れ落ちた家並みや、お化け屋敷のような廃屋が目に飛び込んできて、なんとも寒々しい。トイレに行きたくなっても、いっこうに姿を見せないドライブイン。
途中、道路が封鎖され、1時間近く身動きが取れなくなった。事故かと思いきや、地元住民がストライキを起こし、道路を封鎖しているという。そこはまさにトラバントの工場がある町で、住民の大半が工場に勤めていた。東西の統合により民営化された旧東側の工場は、瞬く間に淘汰されていく。
BMWやベンツを前にして、トラバントが生産され続ける訳もなく、職を失い途方に暮れる人々が、不慣れなストライキを決行していたのだった。
18世紀後半から19世紀前半にかけて、ゲーテやリストが暮らし芸術の都として栄えた町、ワイマールに立ち寄る。西側の手が入っていない街並みは、時の流れが止まっているかのような、古びてなお美しいたたずまいを呈している。更に東へ車を走らせ、ヨーロッパで最も古い磁器窯のあるマイセンを訪ねた後、ドレスデンを目指す。
ドレスデン。エルベ河畔に広がる麗しき古都。ツィンガー宮殿やゼンパー劇場など、ロココ、バロック様式の建築物が点在する芸術の都だ。ドレスデンは1945年、英米空軍の大空襲を受け、三万人を超える死者を出すなど壊滅的な被害を受けた。
戦後、少しずつ復興作業が行われていたものの、未だに戦災の跡が生々しい光景が残っていた。その一つが、かつて聖母教会と呼ばれていた瓦礫の山。街の中心地に、形跡をとどめぬほど崩れ落ちた、煤けた残骸が横たわっている。
再建された優美な建築物と、どす黒い瓦礫の山と、社会主義時代に建てられた巨大で無機質な四角いビル群。これらの取り合わせが奇妙な印象を与えてはいるものの、街そのものは過去の栄華をしのばせる力強いオーラを放っていた。
それから3年後の1994年、私は再びドレスデンを訪れた。
マクドナルドにバーガーキング、ハーゲンダッツの色鮮やかな看板、ピカピカに磨かれた通りのショーウィンドー、ブティックの扉からこぼれてくる香水の匂い……。街の様子が一変していた。
鼻についていたトラバントの排気ガス臭もない。どこを歩いても目に飛び込んでくるのは、クレーン車と鉄筋の足場と外壁を覆うビニールの幕。街全体が機械のうなり声に満ちている。40余年の眠りから突如目覚め、大慌てで化粧直しをしているといった風情だ。
酒場で出会った労働者の一人が言う。
「俺はイギリスから来たんだけどね。とにかくひどいもんだよ。急いで工事を進めろというが人手不足でお金もない。こいつは旧西ドイツ、あっちのテーブルの奴らはクロアチアから来た。雇用主との間で何かとトラブルが絶えなくてね。この間も3週間ただ働きさせられたトルコ人たちが、泣く泣く帰ったよ」
その当時のドレスデンは、古い時代と新しい時代との狭間で混沌としていた。そんな気ぜわしい風景の中で、私は次第に気が滅入り、沈鬱な気持ちで歩いていた。
その時だ。私の目の前に、聖母教会の工事現場が現れたのは。3年前、それは瓦礫の山だった。ところが今、それらの瓦礫は一つ一つ丁寧に取り除かれ、フェンスの中の巨大な棚に、まるで展示物のように整然と並べられている。彫像の一部や時計台の文字盤などもある。
新築でも改築でもない。彼らが行っているのは、忠実な復元だった。瓦礫を除去して新しい教会を建てる方が、どんなに簡単だろう。途方もなく難解な立体ジグソーパズルに、この国の人たちは真っ向から挑んでいるのだ。
戦争で壊滅状態に陥ってなお、数十年の停滞を経てなお、荘厳な風景を取り戻そうとする情熱と執着。そして、自分たちの築き上げたものに対する深い誇り。しばし茫然とする思いで、そばにあったベンチに腰掛け、作業の風景を眺めた。工事現場の横には完成図の立て看板。完成予定は2006年とあった。
そして1999年11月。ベルリンの壁が崩壊して10年、というニュースを耳にして、ドレスデンの聖母教会を思い出した。あれからどうなったのだろう。
インターネットで探してみたところ、とあるサイトで聖母教会の現在の写真を見つけた。再建途中ながら、威風堂々とした構えの外観が、スクリーンに映し出されていた。
2006年、完成した聖母教会を見に、もう一度ドレスデンを訪ねてみようと思う。 (M)
わたしにとって、今回の旅のハイライトとなるドレスデンを目指すべく、プラハ本駅へ。
昔から、ターミナル駅の風情が好きなわたしにとって、3カ月の欧州列車旅の思い出は、駅の記憶と直結する。今でも、好みの駅の様子が、有り有りと思い浮かぶ。
今となっては近代的な建築に生まれ変わり、開放感のある明るい風情が増えているが、個人的には、薄暗く物寂しい、大きなアーチ型の屋根の下に、何本ものレールが横たわる様が好ましい。
プラハ本駅は、新旧が共存した風情だった。早めに到着し、アールヌーヴォーの意匠が印象的な駅舎の一部を「観光」する。
ん? と思わず二度見したのは、Cafe Coffee Day。バンガロール拠点、南インドのコーヒー貿易会社が始めたコーヒーチェーンだ。
数年前、インドのトレンド調査の仕事で、Cafe Coffee Dayがオーストリアやチェコに店舗を展開したのは知っていたが、こうして目の当たりにすると、面白いものである。
わたしよりも大喜びなのは我が夫。Cafe Coffee Dayは、夫が投資に関わっている会社のひとつでもあり、しかしプラハに店舗があるとは知らなかったらしく、やたらと写真を撮りたがる。
思わず、飲む必要のなかったコーヒーまで注文してしまう始末だ。
チェコのプラハから、ドイツのドレスデンまでは、2時間余りの列車旅。わたしたちが列車に乗り込むや否や、雨が降りだした。この数日、快晴だったのは、極めて恵まれていたことだった。
車窓からの光景は、たちまち東欧の、廃れた町村を映し出し、緑と、廃屋と、工場と……。
途中で、国境を越える。
ムルダヴァ(モルダウ)川はやがてその名をエルベ川と変えて、北へ北へと流れ行く。川の流れに沿いながら、列車はドレスデンにたどりついた。
ここもまた、24年ぶりのドレスデン。ずっと訪れたかったこの街に、ようやくたどり着いた!
◎第二次世界大戦の際、連合軍からの爆撃で壊滅的な被害を受けた、麗しの古都
24年前は、旧東ドイツのライプツィヒ、ドレスデンを経て、チェコのプラハに入った。今回は逆のルートで、プラハからドレスデンへ。
ザクセン州の州都ドレスデンは、エルベ川に抱かれた麗しの古都。プラハ同様「百塔の町」と謳われていたドレスデンはしかし、第二次世界大戦中の1945年2月、連合国軍(英空軍および米陸軍航空軍)により無差別爆撃を受け、街の85%が破壊され、無数の市民が落命した。
ドレスデンは、ソビエト連邦の占領エリアにあったことから、戦後はドイツ民主共和国(東ドイツ)として、社会主義国家の道を歩んだ。1989年のベルリンの壁崩壊、そして1990年の東西ドイツ統合に伴い、ドイツ連邦共和国となったのだった。
わたしが初めてドレスデンを訪れたのは、その翌年の1991年だった。すでに記したが、改めてここでも綴っておく。
わたしたちは、旧西ドイツのフランクフルトを起点に、メルヘン街道を経て、アウトバーンを走り抜けた。その後、旧東ドイツ領に入り、ワイマール、ライプツィヒ、ドレスデンへ向かった。ドレスデン近郊のマイセン窯を訪れたことも、忘れがたい思い出だ。
ドレスデンを経て、最終地点はベルリン。土産物屋で、読者プレゼント用に「ベルリンの壁の破片」を買った記憶がある。あいにく、誰かにプレゼントして、自分の手元には残らなかった。
1991年のドレスデンは、1945年以降46年間に亘って眠り続けていたかのような風情だった。無論、多くの建築物は再建されていたものの、薄暗く、沈鬱な気分にさせられた。
1994年が再建ラッシュで、町の風情が損なわれていたことも、すでに触れた通りだ。
駅からホテルまでの車窓からは、新旧の建築物が、そのコントラストも著しく、くっきりと分かれている様子が異様に移った。この都市の背景を知らない人は、一瞥するに、違和感を覚えることだろう。
たどり着いたホテルは、町の中心部。ツウィンガー宮殿の目の前にある、かつてはここもまた宮殿だった建築物であった。
決して華美ではないのだが、気品あふれる空間だ。カーテンを開けば、ツウィンガー宮殿が目前に在る、「眺めがよすぎる部屋」だ。
建設労働者が宿泊する安いホステルに滞在した24年前とは、雲泥の差である。
過去の記録を紐解くにつけ、チェコに引き続き、この街の記憶も鮮明に浮かび上がり、ただただ、なんという歳月の流れだろうと、そればかりが心を過る。
↑これらのモノクロ写真は、1945年空爆直後のドレスデン。石造りの街並が、骸骨のような姿を晒している。一面、焼け野原となった日本の空襲後の写真とは異なった、独特のむごたらしさが滲んでいる。ニューヨーク在住時、世界同時多発テロが起こったの数週間後に、グラウンドゼロへと赴き、ワールドトレードセンターの残骸を見たことを思い出す。似ている。どれもこれも、人間の所業。
◎感無量……。奇跡の如く再建されたフラウエン教会を、遂にこの目で!
ホテルを出る。逸る気持ちを抑えつつ、しかし足取りは自ずと早くなり。
瓦礫の山を再び、空爆前の姿に戻すべく、約10年に亘る再建工事を終えて具現化した、聖母(フラウエン)教会へ。
建物の影からその姿が現れた瞬間の、時空が歪むような感覚。
感無量。
感無量、という言葉が、これほど心に刺さったことが、かつてあっただろうか……と思わず自問してしまうほどの、
感無量。
この教会を巡っては、特筆すべき史実が多く、それらがまた、感傷と感動を一層、強める。
あの、瓦礫の山が……!
聖母(フラウエン)教会クーポラの上の上まで、上ることができる。再建の際、人々がてっぺんから市街を見下ろせるよう、便宜を図って建築されたのだろう。
らせん状の上り傾斜を、逸る気持ちを抑えられず、足早に歩く。後ろから夫が「ミホ! どうしてそんなに早く歩けるの?!」と驚きながら追いかけてくる。
膝の痛みさえも忘れてしまい、一目散に上を目指していた。
なんとも、言葉がない。
1994年の旅の記録に「途方もなく難解な立体ジグソーパズルに、この国の人たちは真っ向から挑んでいるのだ。」と記した。
そう思ったのは、もちろんわたしだけではなかったようで、その作業工程をして、「世界最大のジグソーパズル」と呼ばれていたそうだ。
現代のテクノロジーを駆使して、瓦礫を再利用しつつ仕上げられたこの教会。つくづく、特筆すべきストーリーが多い。
聖母(フラウエン)教会の偉大なる点は、爆撃で破壊された建築物の破片を集め、現代のテクノロジーを駆使して、ジグソーパズルのようにはめ込みながら再建したという事実だけではない。
破壊された瓦礫の教会は、東西ドイツ統合以前、圧政と軍拡が広がる趨勢の中、若者たちの希望と祈りの場でもあった。
旧東ドイツにおける平和運動が、ドレスデンやライプツィヒの教会を拠点に行われたという事実があったことも、森泉朋子著の『ドレスデン フラウエン教会の奇跡』を通して知った。
1989年10月、ベルリンの壁は、熱狂的なムーヴメントの中、劇的に崩壊した。翌11月、西ドイツのヘルムート・コール首相は、東ドイツのハンス・モロドウと階段に望むべくドレスデンを来訪。
コール首相は「一つのドイツ」を望むドレスデン市民から大歓迎を受け、このフラウエン教会の瓦礫の前で演説を行ったという。
聖母教会は、東西統一に至る過程で、象徴的な存在のひとつになっていた。
教会の再建に際しては、莫大な資金が要されたが、ドイツ国内だけでなく世界中から寄付金が集められた。また、チャリティコンサートも活発に行われ、資金調達に貢献したとのこと。
教会の随所に、英国やポーランドなど、かつての敵国から贈られた、十字架などの和解の象徴が配されている。
【追記】聖母教会崩壊後55年たった年。空襲の当事国であるイギリスから「和解の十字架」が贈られた。英国市民や王室の寄付によって実現したというのだが、数奇な物語があった。ドレスデン大空襲の際、ドレスデンを空爆したパイロットの息子が製作したというのだ。それも偶然の経緯で。その一文が『ドレスデン フラウエン教会の奇跡』に記されているので、そのページを紹介する。
戦争という名のもとにおいて、命を、あるいは命の証を瞬時に破壊せねばならぬ人々の魂はまた、苦しみに晒されることだろう。あまりにも熱い思いが、この命運を導いたとしか思えない。まさに「和解の十字架」である。
午後6時からの礼拝に参加した。ドイツ語による礼拝は、何一つわからなかったけれど、その場の空気に浸っていたかった。そしてパイプオルガンの音色を聞きたかった。
建築家のゲオルゲ・ベーアが、周囲の反対を押し切って、途方もなく大きなドームを設計した理由のひとつは、パイプオルガンの音を効果的に響かせるためだったと言われている。
さて、ドレスデンでの夕食もまた、夫のリサーチによる選択で、シーフード料理が選ばれた。前夜に引き続き、ユニークなアートで彩られた、しかしエレガントな雰囲気の店である。そして前夜同様、予約で埋め尽くされている中、「最後の1テーブル」を提供してもらえたのだった。
ドイツの白ワイン(リースリング)で乾杯し、マスのグリルやタラのスチームを注文。肉続きだったので、魚三昧である。
アミューズは、昨日のプラハの店と、プレゼンテーション(スプーン)も同じ、ツナのタルタルだった。こちらのタルタルは「いりごま」が和えてあり、まるで日本の味である。
付け合わせのポテトもサラダもおいしく、魚もソースもほどよい味付けで、白ワインがよく合いおいしい。
夫とは、食の嗜好は似ているが、それ以外は話題の共通項が多いとは言えない。好む旅のスタイルも異なるので、道中いちいち、諍いは絶えないのだが、それでも20年以上、一緒に旅を続けている奇妙さ。
今回のドレスデンに関しても、彼は当然、たいした関心もなく、1泊にしたがっていたが、無理矢理2泊を主張したのは正解だった。聖母教会についても、わたしがなぜ、思い入れが強いのか、理解しがたいようだ。
戦時下のドイツといえば、ナチスをイメージすることも、一つの理由かもしれない。
わたしの英語表現力の限界かもしれない。
国民の意思からは遠いところで、国の首脳が、国の命運を握るのは、遍く世界中において、である。戦争よりも平和を願う国民の方が多いに決まっているのだ。
……とここまで書いて思う。日本語でこれほど熱心に綴っても、関心を持ってくれる人の方が圧倒的に少ないだろうということを。それでも、自己満足でも、わたしは書き残し続けるのであるが。