ムンバイ。わたしがインドで、最も興味深く思っている都市。2008年から2年間、ムンバイとバンガロールの二都市を行き来する生活を送っていた。
当時、ニューデリーがワシントンD.C.ならば、ムンバイはニューヨークのようなものだ、と感じていた。商業とエンターテインメントが豊かな、多様性の極みの中の極み、ムンバイ。この都市の魅力は「パッと見」では決してわからない。奥深く、底深く、凝縮されている。
2008年からの2年間は、インドにとって激動の時期でもあった。BRICsを構成する一国として世界の注目を集め始めていたころ。
バンガロールやデリーなど、都市部の新空港が開港。
クリケットの国内リーグIPLが誕生。
リーマンショックが起こるものの、経済的な打撃は他国より浅め。
しかし、2008年11月26日、ムンバイ同時多発テロが発生。
2009年早々には、世界的ヒットを果たした、ムンバイが舞台の英国映画『スラムドッグ・ミリオネア』が公開される。
北ムンバイを南ムンバイを結ぶ「バンドラ・ウォーリ・シーリンク」(写真)が開通したのもこの年だ。他にも語れば尽くせぬあれこれ。
ムンバイでのテロで一時期、減ったとはいえ、当時は日本企業の視察旅行が多かった。わたしもムンバイ、バンガロール、デリー、チェンナイと、各都市をアテンドしたものだ。視察だけでなく、物件探し、あるいは家庭訪問やインタヴューなどの仕事もあった。
当時、「インドのデトロイト」と言われたチェンナイ。自動車輸出の実態を見るため、港まで車を走らせたこともある。いろんな仕事をしてきたものだと、改めて思う。
視察の仕事の大半は、当然ながらコンフィデンシャルにつき、外部に公開できない。しかし、プロジェクトとは関係ない部分で、わたしが見聞きした経験は、ブログなどに記録を残してきたので、記憶に深く刻まれている。当時の自分の視点や考えは、ブログを検索して読み返せば、より具体的に思い返せる。
昨今、「グローバル・サウス」云々で、日本からインドに対する関心の波が、久しぶりに高まっている模様。日本からの問い合わせが急増しているので、今、対応の方法を考えているところだ。無償の情報提供を控えねばと思っている。10年以上前のことだが、一時期、電話相談なども多かったので、途中から有料にしていた。すると、その途端、依頼が減って苦笑せざるを得なかった。
現地の情報を無償で受け取ることを当然とする趨勢。この件については、ニューヨークで仕事をしていた時代から、ずっと抱えてきたテーマにつき、軽々しくは語れないので割愛。
インドは、目に見えている今、だけを見ていても、わからない。
歴史と文化、社会の構造……その広がりを「大雑把でも」知っているか知らないかでは、理解の度合いが大きく変化する。
どんなジャンルで進出するにせよ。多様性を構成する要素(地理、言語、宗教、コミュニティなど)を理解し、一般的な日本人の常識では理解の範疇を超えている世界が存在しているいうことを、認める必要がある。
善し悪しの判断は、さておき。
1947年のインド・パキスタン分離独立以降からに視点を広げ、社会主義的経済政策を取っていた時代、1991年の市場開放、さらにはY2K問題で世界の脚光を浴びたテクノロジー、そして2008年前後の急伸、2014年のモディ首相就任、2016年のリライアンス・ジオ・インフォコムによる4Gの遍くインド全土へ無料提供、世代別意識の変化と価値観の特徴……といったあたりのことを念頭に置くだけでも、そこからさまざまな因果関係が推測できる。
初めてムンバイの土地を訪れてちょうど今年で20年。この20年間で、変化してきたこと、変わらないことが脳裏で渦巻く。訪れるたびに、密度が増す摩天楼を眺めつつ、培った知見を有効活用したいとの思いが迫る。一方で、安請け合いはできないという矜持。
新たな大波の来襲に備えて、わたしなりに準備をせねばと、改めて思う朝。
そうそう。今回の仕事は1日で終わり。ゆえに1泊2日ですむことなのだが、せっかくなので4泊することにした。もちろん追加の宿泊費は自腹である。こうなると、なにしにムンバイに来たのかわからない。が、きっかけが大切。わずか数日ながらも、この街の変化を、しっかり捉えながら過ごそう。
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