一昨日、母と共に、今後お世話になる「ケアセンター」を体験してきた。今後の方針が確定したあと、今回の経緯などをまとめ記そうと思う。
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昨日は、美砂さんと2年ぶりに会い、香椎でランチを共にした。
彼女のお母様は、飯塚にて、我が両親の出会いのきっかけを作ってくれた方。美砂さんとは、子どものころに顔を合わせたことはあったものの、きちんと話をしたのは、大人になってから。
1992年、東京。わたしの父から彼女の母親の手に渡っていたらしき、わたしが自費出版した『モンゴル旅日記』。それに影響を受けたという彼女も、東京に住んでいたことから、わたしが当時暮らしていた世田谷区用賀の古びたアパート(竹陣荘!)に遊びに来てくれた。デザインやファッション関係の仕事をしていた彼女はその後、パリに移住。
1994年、パリ。フリーランスのライター兼編集者として1993年に独立したわたしは、「1年のうち9カ月休みなく働き、3カ月まとめて休暇を取る」という目標を掲げていた。それを有言実行。まずはパリの美砂さんの家を訪ね、旅の起点として数日間、滞在させてもらった。彼女は、わたしのモンゴル旅日記に影響を受け、モンゴルからシベリア鉄道の旅を敢行していた。
1995年、パリ。わたしは英国での3カ月の語学留学のあと、パリに2週間近く滞在した。そのときもまた、彼女の部屋に居候させてもらった。
1996年、ニューヨーク。わたしとアルヴィンドが出会って直後のころ、彼女もたまたま、ニューヨークに遊びに来ていた。その数年後にも、ニューヨークへ遊びに来た彼女と会った。
2012年、バンガロール。すでにフランスを引き払って日本に帰国していた美砂さんが、妹の美陽さんと二人でバンガロールへ遊びに来た。たまたま我が家に立ち寄ったその日。我が夫の40歳の誕生日会を「1日遅れ」で開催していた。驚くことに、美陽さんは、その日が40歳の誕生日だったので、一緒に祝福した。
美砂さんとは、その後も一時帰国の際、折に触れて会ってきた。会うたびに、遠縁の親戚のような親近感を覚える。
お互い、高齢の母を持つ立場としての話を皮切りに、しかし、今後の自分たちの「やりたいこと」に向けての話に花が咲く。彼女もわたしも、海外在住経験が長いこと、アートやファッションに関心があることなどに加え、昨今では日本の伝統文化への関心が高まっていることもあり、今後、福岡で、あるいはバンガロールで、共に仕事ができそうである。
今回の福岡滞在は、母の次なるステージの段取りのために過ごしたが、次回の福岡では、サリーの展示会やトーク・イヴェントなども実施することになるだろう。わたしは身一つで、いつでもどこでも、1時間でも10時間でも、インドに限らずさまざまなテーマで語れる。プレゼンの資料はすべてクラウドに保管されているから、すぐにも引き出せる。秋の一時帰国が楽しみになった。
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ランチのあと、美砂さんと別れ、わたしは北へ向かって歩く。以前は海だった埋立地。かつての面影なき団地群を歩き目指すは、イオン。ここで家の買い物などをすませるために。入店した矢先、ペットコーナーに猫や犬がいて和む。すっかり欠乏している「猫成分」を少しだけ補給。そして正面にある未来屋書店へ。
店頭に「味わい深い書籍」が並んでいる。新居の「月光ライブラリ」に置きたい麗しき書籍の中から、何冊かを購入。カートに積んで店内を巡り、スーパーマーケットで日用消費財などをまとめ買い、さすがに重いのでタクシーで帰宅した。
昨今の一時帰国では、故郷福岡に対する見方や、実家のある名島への印象が、徐々に変化している。海外と日本を結ぶ玄関口としての歴史。古代日本の息吹が聴こえる「玄界灘」。地元の人たちは「観光資源が少ない」というけれど、それは多分、灯台下暗し。福岡の魅力を認識していないだけだと思う。この地の豊かさは尽きない。
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最後の写真は、母が行きつけの近所の美容室へ、母を送りに行ったときに撮影。美容師のマキエさんは、わたしたちが幼少時に住んでいた東区名島汐見町(現在は千早に統合)にあった美容室で働いていらした。わたしが小学生のころに、何度か髪を切ってもらったことがある。それ以来の、約50年ぶりの再会。
にも関わらず、マキエさんは開口一番、
「あら〜、変わらんね〜! 全然、変わっとらん!」
いやいやいや。だいぶ変わったろうもん! と大笑い。
諸々、時空を超えすぎた。
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