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インドで迎える11回目の新年だ。
今年もまた、静かに年を越した。移住当初の数年は、高級ホテルやバンガロールクラブなどで開催される、賑やかで華やかなニューイヤーズ・イヴのパーティに足を運び、食べて、飲んで、踊って、大騒ぎの中でカウントダウン、グラスを片手に花火が打ち上がるのを仰ぎ見たものだ。
年々、高級ホテルは増え、パーティは趣向を凝らされ派手になり、人々を引きつける一方で、我々はといえば、2009年の終わりから、極めて地味に年末、あるいは年末年始を、アーユルヴェーダグラムというアーユルヴェーダのリトリートで1週間ほど過ごすようになった。
去年は年末にコーヒープランテーションのあるクールグのリゾートで過ごしたこともあり、アーユルヴェーダグラムへは赴かなかったが、今年は3泊4日と短いながら、年末年始を過ごしたのだった。
2年のムンバイ生活を終えて、バンガロールへ戻って来た直後の2009年、年末。あのころは、我々夫婦にとっては試練の時期であった。
2008年に起こったリーマンショックの影響もあり、夫が勤務していた米系投資会社と香港投資会社の合弁であったムンバイオフィスがクローズすることになり、夫はある日突然、仕事を失った。
オフィス閉鎖の動きは、トップだけが知っていたことで、重職に就いていた彼にさえ、なにも知らされていなかった。ある日、いつもの通り出勤したら、
「本日、ムンバイオフィスはクローズする。ゆえに、コンピュータその他、会社支給の備品は本日中に返却し、退社するように」
との命を、香港オフィスから受けた。わたしは日本への一時帰国から戻った翌日。6月1日のことだった。まだムンバイに心身がなじんでいないときに、夫から電話でその話を聞き、呆気にとられた。
米国の映画などでよくあるシーンを思い出す人もあるだろう。まさに、あの通りである。解雇されたその日、段ボール箱に自分の荷物をまとめて、抱えて帰宅するのである。会社側としては、さまざまな情報の流出を防ぐためにも、それは不可避な措置だったことは、わからないでもない。が、唐突すぎた。
経済的な補償はあり、その点での心配はなかったものの、しかし夫の精神的なダメージは大きかった。
「いっそ半年か1年くらい時間をかけて、ゆっくり転職活動したら?」と、夫には焦ることはないのだと伝えて来たが、しかし、それは彼にとって、いや、わたしにとっても試練の日々だった。
長い有給休暇を楽しめばいい……と割り切れるほど、ポジティヴな性分でもない。
「インドになんか、帰って来るんじゃなかった」
と、やり場のない怒りを彼がぶつけるとき、(いや、リーマンショックはインドだけの問題じゃないから。むしろ米国にいた方がたいへんだったと思う)という言葉を、時に発し、時に飲み込み、なにしろわたしがインドに移住しようと言ったわけで、わたしが弱音を吐くわけにもいかず、今思えば、精神的は激しく揺れ動いていた時期である。
無論、このことは、ブログなどには一切触れていなかったので、身近な人だけしか事情を知らなかったのではあるが。
就職活動のため、米国や欧州へ幾度か足を運んだが、彼の望むポジションと仕事は、そうそう簡単には見つからない。妥協は彼のプライドが許さない。無論、最初からその選択肢はなかった。
取り敢えず、会社から住宅その他の手当が出ていたこともあり、年末までムンバイとの二都市生活を続けることにした。彼はムンバイベースの欧米企業を探していたが、半年後も成果は見られなかった。
そして、一旦はバンガロールに戻ることを、決めたのだった。
そんな折、だったからこそ、心と身体の休息と治癒が望まれると思われ、夫婦揃ってアーユルヴェーダグラムに籠ることを決めた。
自宅から車で東へ約25キロ。渋滞こそあれど、1時間半ほどの場所に、その清澄なリトリートはある。世界各地からわざわざ訪れている人が9割以上という中、こんな場所が至近距離にあるということを、今もって、ありがたいことだと思わずにはいられない。
2009年の、初めての、ドクター・マンモハンによる問診では、夫は身体はもちろん、心の在りようまでも、診てもらった気がする。ずいぶん長い時間、アドヴァイスを受けていた。
以来、毎年のように、一年を締めくくる意味で、訪れるようになった。
初めてアーユルヴェーダグラムを訪れて半年後、即ち前職を辞してちょうど1年後、ようやく夫も納得がいく転職先を見つけることができた。現在も籍を置いている、ニューヨーク拠点の、インド市場に投資する会社である。
一方のわたしは、特にどこかが悪いというわけではなかったが、一年に一度、心身を微調整して、過去を振り返り、未来を思うのは、いい機会であった。
一日2回の、個々人の心身のコンディションに合わせたオイルトリートメント。
ヨガ、瞑想、呼吸法、それぞれ1クラスずつ。
そして、ヴェジタリアンながらもヴァラエティ豊かで食べ応えのあるヘルシーな食事……。
滞在中は、時間がゆっくりありそうで、実は退屈する暇がほとんどない。本を数冊、読めるか読めないか、という状態で、しかしそれでも、心はやすらぐ。
インドに来て10年。思い返せば退屈するような、平穏な日々など、なかったに等しい。なにかしら、常に起こっては、振り回されたり、振り回したり……。
人は、それぞれのステージで、それぞれの問題を見つけ、それぞれの憂いを抱く。他者から見れば、恵まれたライフでも、人それぞれに、望む姿、理想の在りようは異なる。
「はい、これでひとまずはOK」という境地には、なかなか至れないものだ。
身の丈を知る。
足るを知る。
だからこそ、敢えてこれらの言葉を常に心に刻み、今置かれている環境に対して満たされる術をしり、感謝することも、大切な心がけであると考えてきた。つとめて、意識してきた。
さもなくば、人の欲望、希望は、エンドレスに続いてしまい、同時に目の前にある小さな幸福を、見逃してしまうことにもなるからだ。そしてそれは、何よりも、心の疲労を伴う。知らず知らずのうちに。
歳を重ねたせいなのか、あるいは、そもそも、さほど欲が強くないのか、自分でもわからないが、わたしたちは、そういう意味で、ガツガツしすぎず、物欲に振り回されることなく、むしろ質素なくらいに、このごろは、日々を暮らしている。
そして、それくらいの塩梅が、自分にとって「胃もたれしない、軽やかな暮らし」であるとも思う。
なにしろ、夫と出会ってからというもの、彼の周囲の、「お金」に翻弄され、「お金」に物を言わせて生きる人たちを大勢、身近に、目の当たりにしてきた。ゆえに、自分たちがどうあるべきか、どうありたいのか、ということについても、自ずと考える機会が増えたし、自分の在りたい姿を、少しずつ思い描くことができている。
そこから、すべてがはじまる。
お金を使って手に入れられるもの。尊いもの、心を喜ばせるもの、気持ちを高めるものは、もちろんたくさんある。それらを否定するつもりは毛頭ない。
ただ、お金を使って手に入れたものを、appriciate(←この英単語が持つ意味全てを日本語ひとことで表現するのは困難なので、敢えて英語)するには、こころとからだが健やかでなければ、非常に難しいのだ。少なくとも、わたしにとっては。
ヨガのクラスは、滞在者が多いこともあり窮屈なので出席せず、庭の散歩をした。
瞑想の時間も、寝てしまいそうなので、出なかった。
しかし、呼吸法、プラナヤマのクラスだけは、3日間、毎日出た。
先生のことばが、一つ一つ、身にしみた。
これは今回初めて知ったことではないのだが、しかし、2年間、来なかった間にまた、振り出しに戻る感じで忘れていた。
人間が生きる上での基本。
空気。水。食物。そして呼吸。
呼吸法を身につけて、うまく呼吸をするようになれば、病気になりにくい、健やかな心身を育める。
毎朝、目覚めてすぐの空腹時にまた、わずか15分程度でもいいから、呼吸法をする日々を始めることにした。これはささやかながら、今年の小さな、一つの目標だ。
呼吸法のあとに、太極拳でならった準備運動をし、それからしばらく庭を丁寧に歩く。ともあれ、呼吸を、ゆっくりと、丁寧に。
精神的な乱れ、心の高ぶり、怒り、哀しみ……。心が落ち着かないときにもまた、丁寧に呼吸をすることで、気持ちを鎮めることができる。
毎日身体を洗うように、精神も洗うべきである。
毎日身体を眠らせるように、精神も休ませるべきである。
人間の暮らしは、陰陽、光と陰の調和である……。
そういう、頭ではいつもわかっていたはずの、シンプルな言葉のひとつひとつが、また蘇って来た。
去年は1年間、更年期障害のせいなのかどうだかはわからないが、なにかと不調だったのは、アーユルヴェーダグラムに行かなかったせいだろうか、とさえ思うほどに、この一年間、うっかりと忘れていた基本を、思い出されたのだった。
と同時に、年に一度といわず、また調子が悪くなったら、週末にでもふらりとくればいいのだ、という風にも思った。
夫にとって昨年は、これまでの成果が形となって報われた年でもあった。彼の手がけたディールが大きな成果を上げたのもひとつ。それに伴い、少し遅すぎたとも思えるが、彼のポジションが昇格したのもひとつ。
初めて訪れた2009年を思うと、本当に、いい年だったと思われる。
年末年始の、バンガロールの空は澄み渡り、希望の光を鏤めるかのように、青空が輝いていた。
朝食はまず、フルーツから……のその前に、ジーラ・ウォーターで身体を潤す。ジーラ(キュミン)を煮た白湯だ。
ギー(精製バター)控えめの、あっさり香ばしいドサを焼いてもらう。
これは別の日。お気に入りのケララバナナの蒸したもの、があった。このバナナ、少し酸味があるサツマイモ……といった味わいで、とてもおいしいのだ。
ランチタイムも、日々、カラフル。ヴェジタリアンながらも、たくさんの素材を用いられた料理は、物足りなさを感じさせない。
そして、ボンファイヤー。紙切れに、2015年に起こったいやなことを書き、それを火に投げ入れる……というもの。いやなことは燃やして、2016年へ。
珍しく夫婦セルフィーに挑戦。頭から火を火をふいている感じ、を演出しているのだが、いまいちか。
声高に、これからのヴィジョンを公言するつもりはないがしかし、たとえ平穏を尊んでいたとしても、わたしの心にはまた、野心もある。
この先、挑戦してみたいこと、今のわたしだからこそできること、というものが、多分あるはずだ。それらを丁寧に紐解きつつ、努力を続けたいとも思う。
わずか3泊4日でも、猫らと離れると寂しくなってしまう我々。玄関のドアを開けるなり、NORA、ROCKY、JACKと言いながら会いに行く夫……。これまでには、想像もしなかった光景。
1月2日は、新年早々、夫にゲストがあった。MITを志望する女子高生が、卒業生である夫の話を聞きに来る……ということだけ聞いていたので、お茶と、そしてアップルタルトを焼いて準備していた。
ところが、お茶を出しても、お菓子を出しても、遠慮する。どうしたのだろうと思っていたら、話を聞きに来る……というカジュアルなものではなく、入試の一環としてのインタヴュー(面接)だったらしい。
バンガロールのMITクラブの創設者でもある夫は、大学側から入試を受けた学生らの、現地での面接を依頼されていたらしい。
それならそうと、先に言ってよ! という話である。たとえ場所が「お宅」であれ、大学の面接で、お茶飲んでアップルタルト食べて、和んでいる場合ではないな、とも思われ、まったく空気が読めていない妻であった。
ともあれ、子どものいない我々夫婦が、しかし若い世代のために、なにか力になることを行うということも、きっと大切なことなのだと思う。
わたしもまた、昨日は、日本からの女子大学生の来訪があり、将来のヴィジョンに関する相談を受けた。年末、2週間弱のインターンで来ている学生らにセミナーをしたことはすでに記したが、そのうちの一人が、個人的に話をしたいということだったので、お招きした次第。
決して順風満帆からはほど遠い、挫折ばかりだった中高時代から、大学進学、そして就職に至るまでの経緯、社会人になってからの、起伏に富んだ道のり。自分のことを伝えることで、たとえ時代も背景も異なるとはいえ、なにかをつかみとってくれれば、と思う。
若者に向けて。
ということは、ここ数年、意識しはじめていたが、能動的に動いてはこなかった。今年はミューズ・クリエイションの活動の一環としても、教育の問題などに取り組もうと考えている。
未来の日本を担う子ども、若者たちに対して、自分が伝えられることを、少しずつ、積極的に伝えていく時期かもしれない。
目まぐるしく移り変わる世界で、今年もまた、振り回されて飛ばされぬよう、自分の軸をしっかりと保って屹立しよう。
目先の事象、情報を鵜呑みにして誤認せず、思い込まず、常に検証する気持ちは忘れずにいよう。
異文化の前にあっては、異教の地にあっては、歴史の長さ深さ、文化の豊かさ多様さに思いを馳せ、謙虚に見る目を常に備えていよう。
まだしばらくは、インドにて。
今年もよろしくお願いします。