日本への一時帰国から戻って2週間。瞬く間に日々が過ぎてしまった。日本でのことを諸々、綴ろうと思っていた矢先、立て続けにいろいろなことが起こった。プライヴェートに関して言えば、11月10日で、インド生活11周年記念日を迎え、我々夫婦のインド生活が12年目に突入したのだった。
7日月曜日の朝。2週間の一時帰国からバンガロールに戻った。夫、猫らと再会し、和みつつも早速、日常生活に戻る。ちょっと昼寝などもして、概ねダラダラと過ごす。
8日火曜日の朝。故郷福岡の博多駅前で、大規模な道路陥没事故があったとの報道に驚愕。事故拡大を防ぐべく速やかな対応と復旧に、称賛の声ばかりが聞こえるが、個人的には強い違和感。以前、わずか数百メートルしか離れていない道路上で4〜5メートル四方、深さ4メートルほどが陥没していたというではないか。そのときに何らか調べるべきではなかったのだろうか。他は大丈夫なのだろうかとそちらの方が気になる。
8日はまた、ディワリの花火爆竹により、デリーの空気の悪さが著しく加速したとのニュースに目を見張る。デリー実家に電話をし、ロメイシュ・パパにマスクの着用や空気清浄機の購入を勧める。が、「マスクをすると猿みたいに見えるから、嫌いなんだ」と言われる。そういう次元を超えていると思うのだが。結局、空気清浄機はわたしたちがネットで注文し、実家に送った。注文の翌日に届いたとの知らせがあった。
8日火曜日の夜。夕飯を食べている時にドライヴァーのアンソニーから電話。500ルピー札と1000ルピー札がなんたらかんたらと言っているが、事態が飲み込めず、テレビをつけてニュースを見て驚愕。数時間後に現行の両紙幣が無効になり、10日より新紙幣(500ルピー&2000ルピー札)が発行されるとのこと。ブラックマネー対策というが、本当にうまくいくのか、懸念を抱く。
9日水曜日の朝。米大統領選でトランプ優勢のニュースを見て驚愕。そして昼ごろ、トランプが大統領となった。ヒラリー・クリントンが負けた。あまりのことに、夫もわたしも、茫然。夫はトランプが勝つとは微塵も思っていなかったようだが、わたしは、有り得るかもしれないと思っていた。
理由のひとつは、過去の大統領選の記憶から。2000年の大統領選でゴアが破れ、ブッシュ大統領が誕生した。確かにゴアは「上から目線」な態度が反感を買っており、好感度は高くなかった。しかし、頭脳明晰とはほど遠い感じの、どちらかといえば劣等生な雰囲気がつきまとっていたブッシュが勝つとは思わなかった。更には4年後の2004年。2001年の世界同時多発テロ、その他諸々の混乱を経てのあの状況下で、まさかブッシュが再選するとは思わなかった。
あのとき、開票速報のニュースで、米国の地図がどんどん赤く染まるのを見ながら「わたしは米国に住んでいるのではない。ニューヨークに住んでいるのだ」との思いを強めたものだ。ブッシュの再選は、米国を離れたい、インドに住みたいと思う契機の一つともなった。
もう一つの理由は、ヒラリー・クリントンが女であるのに加え、何かしらのスキャンダルを抱えている疑わしさが見え隠れするから。理由をうまく書けるだけの知識と能力がないので、ここでは詳細に触れない。かくなる次第で、少なからず予期していたはずだったのだが……。昨日の午後はもう、トランプ大統領が現実となった衝撃が強すぎた。
世界中に起こっている出来事の、表と裏が渾然一体となって、わからない。だれの、どのことばを心の寄る辺にすればいいのだ? どこもかしこもグレイゾーンだ。誰が仮面を被っているのか。誰が腹黒いのか。自分の身近にいる人間のことだって、実はよくわからないのだ。世間の何もかもわからなくても仕方ないのではないか。
茫洋とした世界に漠然と思い巡らせ、個人的にはほとんど生産性のない、無為な日々を過ごしてしまった。
たとえ米国永住権(グリーンカード)を持っていたとしても、アメリカの市民権は持っておらず、当然、選挙権もない。わたしにとっては、インドと並んで第二/第三の故郷でもある米国ではあるが、今わたしがあれこれと考えたところでほとんど意味はないので、ここに記録を残すのは控える。ただ、現在、インドで進行している歴史的な改革、については、触れておきたい。
◎ブラックマネー(不正資金)浄化&偽造紙幣の撲滅。高額紙幣刷新。
現在インドでは、ナレンドラ・モディ首相の指揮下、高額紙幣の500ルピー札、1000ルピー札が刷新されるプロジェクトが遂行されている。モディ首相の就任時からの動きについて触れつつ、今回の件についてまとめておきたい。
2年前の2014年5月、久しく続いていたコングレス(インド国民会議派)政権を破り、10年ぶりにBJP(インド人民党/ヒンドゥー至上主義政党)が勝利、ナレンドラ・モディ首相が誕生した。コングレス政権下に於いては、汚職にまみれブラックマネーで私腹を肥やす政治家があふれる一方、生活インフラストラクチャーの不備、公立学校教育の不全、貧富の差の拡大など、社会問題は拡大するばかりであった。
そもそもグジャラート州知事でもあったナレンドラ・モディは、過去にイスラム教徒との大きな軋轢を生む事態を引き起こしたとされており、彼が就任した場合、イスラム教徒から何らかの反発行為があると予想されていた。しかし、その件については、特筆すべき事態は発生していないと思われる。
とはいえ、関連する事件がなかったわけではない。
たとえば、BJP政権となって以降、いくつかの州では、州の判断によって「牛肉」の食肉処理、販売、所持などが禁止された。ヒンドゥー教徒は牛肉を基本的に食しないが(我が家のヒンドゥー教徒は例外)、イスラム教徒やキリスト教徒などは食するので、インドでは牛肉が流通しているのだ。この規制に絡んでの殺人事件などが起こり、大きな反発を招くなどの事態となったこともある。
ちなみにここカルナタカ州バンガロールは食肉牛の産地でもあり、牛肉を販売する精肉店ほか、ステーキハウスなども少なくない。インドで最も自由に牛肉を食することができる都市だといえるだろう。
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さて、高額紙幣刷新の話に戻す。11月8日の午後8時ごろ、モディ首相が、500ルピー札1000ルピー札は本日中(残すところ4時間ほど)で無効となり、明日9日以降は換金せねば使えないと発表した。目的は、高額紙幣によるブラックマネー(不正資金)の蓄財の浄化、及びテロや麻薬取引の資金源となっている偽造紙幣の撲滅などだ。
9日は銀行は休み、10日から預金、換金、引き下ろしなどができるようになると発表された。
換金の期間は12月30日まで。1か月以上の猶予はある。しかし一度に大金を換金できるわけではなく、諸々の条件がある。それら具体的な金額などの条件については、随時、発表され続けている。
当然ながら、混乱が予想された。わたしも夫も、自分たちが所持している換金すべき高額紙幣は2万ルピーにも満たず、当面、個人的に受ける影響はさほどないと思われたものの、ブラックマネーとは無縁の、正しく生活している人たちや低所得者層の人たちにどのような悪影響があるのかを懸念した。懸念しつつも、ただモディ首相のダイナミックな決断には感嘆した。
このプロジェクトが遂行されるに際し、あらかじめ計画を知っていたのは、モディ首相以下「数名」の側近と関係者だけだった、とされている。
新紙幣は、ここカルナタカ州のマイソールにある造幣局で印刷されたらしいが、カルナタカ州知事もそのことは知らなかったとのこと。モディ首相の発表のあと、新紙幣は、マイソールから各都市へ空軍機で移送され、インド全土の銀行に搬送されたようである。詳細をイメージすればするほど、その実行力に敬服する。
国土は日本の約9倍。人口は日本の約10倍。EU全体の人口の2倍以上もある国。そしてブラックマネーを持つ政治家や実業家などの「闇の勢力」が絶大なる国でもある。想像するだに限りないリスクがある中、わずか数名の側近との秘密裏の調整で、これを実現できたということ自体に、まずは驚かずにはいられない。
しかし、1000ルピー札ですら、日常的に使う場面はさほど多くなく、500ルピー札の方が一般的に普及しているにも関わらず、2000ルピーが先に発行され、未だ新500ルピー札、新1000ルピー札が普及していないのは疑問だ。
2000ルピー札ではおつりをもらうにも不便で、換金の際には、現在のところ100ルピー札以下、50ルピー札、20ルピー札、10ルピー札という小額紙幣が普及している。とても財布に納まらない。
◎なぜ、高額紙幣を刷新せねばならなかったのか。
最大の目的は、「ブラックマネーの駆逐」だろう。インドのブラックマネーの実情は、想像を絶する。政治家を筆頭に、多くの富裕層がブラックマネーを貯め込んでいるとされている。なにしろインドでは、所得税の納税者が数パーセントしかいない。移住当初の11年前、夫の実家の会計士にこの話しを聞いた時には、耳を疑った。数パーセント。理解できない。
そして先ほど、現在は何パーセントなのか再確認しようと情報を検索したところ……今年5月のニュースでは「1%」との報道があった。1%!!
■Only 1 Per Cent Indians Pay Income Tax, Shows Government Data
インドのブラックマネーは、GDP(国内総生産)の50%ほどに相当する、との報道もあるが、実際には100%を超えているに違いない、との見方もある。
なにしろ、すさまじい量の「箪笥預金」ならぬ「自宅金庫預金」が、インド全国津々浦々で展開されているのだ。2008年のリーマンショックの際にインド経済がさほどの影響を受けなかったのは「ブラックマネーのおかげ」だとも言われている。
なお、政治からは大っぴらに、あからさまに、現金をばらまく。ここバンガロール、我が家の近所での話しだが、選挙の際、貧困層の票を集めるべく、立候補者の関係者が「セメント袋」のようなものに大量の札束を入れ、スラムなどの貧困エリアで「現金をばらまく」というパフォーマンスを行ったりしたとの話しも聞く。
教育を受けていない貧困層の人たちの中には、哀しいかな、お金で軽く買収される。だから先日のカーヴェリー川の暴動のときも、実はお金をもらって車に火をつけたり投石したりする人たちがいるのだ。
具体例を挙げればきりがないのでこの辺にしておく。
今回の措置はまた、偽造紙幣の防止も目的としている。
隣国パキスタンを中心にインド紙幣の偽札が製造されているらしく、それらは主に、違法銃器の購入にも使われているらしい。すなわちテロリストたちの武器流出につながっている。
インドを脅かすテロリスト・グループは、パキスタンからジャンム・カシミール州に流れ込むイスラム過激派(ラシュカレトイバ)に限らない。西ベンガル州ほか、北東インドでは、インド共産党毛沢東主義派のテロリストたちが暗躍している。偽札を一掃することは、テロリストたちの資金源を断つことにもなるだろう。
偽造紙幣はまた、麻薬売買にも用いられているほか、もちろん一般にも流出している。たとえばケララ州は、ドバイへ出稼ぎにいく男性が多数いるのだが、ドバイで得た給料の大半が偽札だったというニュースもあった。
◎モディ首相は就任以降、着々と準備は進めていた。
思い返せばモディ首相は、就任直後から、いや就任前から、このプロジェクトの実施を見据えて、準備をしてきたのだろうと思われる。
就任して半年足らずの10月、マハトマ・ガンディの誕生日に、彼は自ら箒を持ってニューデリーの街頭に繰り出し「クリーン・インディア」キャンペーンの立ち上げを宣言した。ブラックマネーをもクリーンにするという思いも込められていたのではなかろうか。
その後、「スマートシティ・ミッション」や「メイク・イン・インディア」など次々にキャンペーンを発表、国民の注目を集めてきた。
一方、彼の積極的な外交もまた、特筆すべきだろう。わたしは数年前から、日本のクライアントより、1990年以降のインドの時事年表を作成する仕事を受けている。
ここ数年は、毎年年初、前年分のインド関連のあらゆるニュースに目を通し、重要だと思われるトピックスを選び、テーマ別に年表化するという作業を行っている。
あまりの情報量の多さに、脳みそがいっぱいいっぱいになる作業なのだが、これは当然ながら、インドのトレンドを把握する上で非常に意義深い仕事でもある。
この年表のテーマには、当然ながら「政治、外交」という項目があるのだが、ここ2年はモディ首相の外交に関するニュースが極めて多く、選ぶべき事項の優先順位を決めるのに苦心するほどであった。
インド国内外、ともかく頻繁にあちこち飛び回り、各国首脳との会談も積極的に行っている。そんな多忙な中、今回のブラックマネー駆逐作戦へ向けて、着実な準備を進めていたのかと思うと、その行動力、実行力、心身のタフさには驚かされるばかりだ。
彼が就任以来行ってきた「準備」のなかでも、代表的な2つを記しておく。
【貧困層へ向けて、口座開設促進】
貧困層を金融システムに取り込むべく「プラダン・マントリ・ジャン・ダン・ヨジャナ」というプロジェクトを実施。多くの国民に銀行口座を開設させるための施策だ。この件に関して政府は、2015年の1月、「世帯の口座保有数は99%を超えた」と発表しているが、この数字は非常に疑わしい。まだまだ口座を持っていない人たちは大勢いると思われるが、ともかく、口座開設を促進していた。
【タックス・アムネスティ・スキーム(租税特赦)】
これは、脱税をして大量のブラックマネーを所持している人たちに対し、一定期間の猶予を与えて預金を促し、税金を払わせるというものだ。今年に入って実施されたこのスキーム。このときに入金しておけば、税金を払いさえすればお金の出所は問われなかったはずなのだが、もちろん無視した人が多数であろう。
ちなみに「タックス・アムネスティ」について、国税庁のホームページに説明があるので、引用する。
「タックス・アムネスティ」とは「租税特赦」とも訳され、資産や所得を正しく申告していなかった納税者が自主的に開示・申告を行った場合に、これに本来ならば課される加算税等を減免したり刑事告発を免除したりする制度のことである。なお、先進諸国においては、その表記として「ボランタリー・ディスクロージャー」等を用いており、「タックス・アムネスティ」の表記を避けている。
出典:https://www.nta.go.jp/ntc/kenkyu/ronsou/68/03/index.htm
◎2週間経った、現在の様子。
想像していたほどの混乱は見られない……というのが、個人的な印象だ。もちろん、農村部の人たち、現金の扱いが多いスモールビジネスの経営者などが不便を強いられ、苦境に立たされているとの話しも聞くが、この2週間の間にも、政府は柔軟に対応していると察せられる。
なにより大多数の国民が、宗教や階級差を超えて、このプロジェクトに好意的であることが感じられる。ネガティヴな情報を選んで流すメディアも見られたが、のちに「やらせ」であったことが発覚するなど、さまざまなドラマが展開されている。
膨大なブラックマネー抱え、眠れる夜を過ごしているであろう人々は、さまざまな手段を講じて換金すべく策を練っているのは間違いない。
たとえばここカルナタカ州では、つい数日前、「他人の現金を預金した場合、アーダールAadhaarカード(国民識別番号)や運転免許証など、あらゆるID(身分証明書)を剥奪する」との条例が出されたようだ。
銀行口座を持ってはいるものの、使用せず放置したままだった貧困層が、突然、多くの入金をし始めたという傾向が見られたからだろう。ブラックマネーを持つ人々が、貧困層に手数料を与えて、銀行口座を使わせてもらう……という作戦に出ていたようである。
ちなみにインドは現在結婚式シーズン。結婚式間近の人やその関係者に対しては、特別に現金を下ろせる枠を拡大したりするほか、農村部の薬局や病院などでは当面旧紙幣が使えるようにするなど、政府はまた日々、ルールを変更しつつ、措置をとっている。無論、現金至上主義のインドにあって、結婚式にかかる資金が、政府指定の枠内に収まるかどうかについては、疑わしいが……。
ともあれインドに暮らす人々は、デマなどに翻弄されることなく、当面は注意深く、ニュースを追う必要があるだろう。
かつて、BJPは、イスラム教徒、キリスト教徒らにとっては忌避すべき政党であった。実際、モディが就任したあと、BJPの政治家が牛肉問題を引き起こすなど、宗教間でのトラブルを拡大しかねないニュースもあった。しかし現在は、宗教の垣根を越えて、現在の動きを支援する人たちが多いように思える。
尤も、デリー首都圏の首相であるアルヴィンド・ケジリワル(アーム・アードミ党)は、「汚職根絶」を掲げてデリー首都圏首相に就任したのだが、モディ首相のやり方が気に入らないらしく、Twitterなどで日々、反発の声を挙げている。彼の主張にも一理あるのだろうが、あまりのネガティヴさに、印象を悪くする国民も少なくないようだ。
現在のインドは、クレジットカードやデビットカードなどが普及しはじめているほか、銀行口座がなくてもモバイルなどを通じて買い物の支払いや送金ができるサーヴィス(Paytmなど)が増え、キャッシュレス化が進んでいる。
また、Eコマースも一般的になり、日用品や食料品など、さまざまなものが現金を使わなくてもオンラインで購入できる。
ゆえに、個人的には、日常生活で大量の現金を用いることはほとんどなくなったが、まだ銀行口座を持たないメイドと庭師には給料を現金で支払わねばならないので、今週は銀行へ行く予定だ。あまり並ばずにすむことを願いつつ……銀行の様子を眺めてこようと思う。
なお、近所のATMの状況(現金の有無など)を知ることができるウェブサイトがいくつか誕生しており、これには驚かされた。情報の精度については、確認していないのでわからないが……。
■These Websites Will Help You Find The Nearest Working ATM
そもそも、混沌の国インドゆえ、この程度の混沌は、大したことではないのかもしれない。今回の件では、目に見えている現象だけだなく、お金に対する価値観、考え方などについても、個人的に考えさせられる契機となっている。また、インドの人たちの柔軟性にも感嘆している。
この改革が正しかったのか否かは、今が歴史になってみないとわからないだろう。ともあれ、現在大きな動きのただ中にいる者にとっては、少しでもインドがクリーンになるであろうことを願いつつ、この動きをサポートしていきたいと思っている。
《備忘録:FacebookやInstagramに残した記録など》
◎11月14日 2005年11月10日。夫と二人、バンガロール国際空港に降り立った日から、インドがわたしのホームとなった。あれからちょうど11年。
「インドに好きで来たけれど、インドが好きで来たわけではない」
などと、なにかにつけて口にしては、なるたけこの国とは、客観的に対峙していたいと思ってきた。しかし今日はなんだかしみじみと、インドが好きだと思った。
ブラックマネー対策などを目的とした新紙幣の発行に伴い、現行の500ルピー札と、1000ルピー札が突然、しかも翌日から使えなくなると発表された。それから1日を経て、新しい紙幣が出回った。旧紙幣の預金や換金に際しては、混乱が予想されていたが、わたしが見聞きする限りにおいて、今日のインドは驚くほどに、平穏だ。
少なくとも、わたしの周囲のインド人は、このプロジェクトに好意的。変革に多少の不都合が発生することは仕方がないと思っていることが察せられた。無論、普段から不便が多い国だから、不便や混沌に慣れているのだろうけれど。
貧しい人たちが、困ったことになることを懸念したが、我が家のメイドは「とてもいいことだと思います。選挙の前に、セメント袋に大金を入れて、有権者たちにバラまいたりさせる政治家もいましたから」。ドライヴァーもまた、冷静。「マダム、これはとてもいいことです」。動じていない。
モディ首相は2014年5月の就任当初から、いや就任前から、このプロジェクトを構想していたのだろう。就任以降、貧困層を金融システムに取り込むべく銀行口座開設を促進したり、ブラックマネー所持者に対し、税金を払いさえすれば出所は問わないというアムネスティ・スキーム(特赦計画)を実施していた。これらは今回の新紙幣発行プロジェクトの前哨戦であったに違いない。
もっとも、これが決戦ではなく、まだこの先に、プロジェクトが待っているのかもしれないが。
ともあれ、今。自分がインドに住んでいてよかった、と思う。
◎11月11日 本日、ミューズ・クリエイションの活動日。メンバー約30名が集い、目下の話題は高額紙幣の刷新プロジェクト。換金せねば使えなくなってしまった旧500ルピー札、旧1000ルピー札しか持たず、中には参加費100ルピーを「つけ」にしていく人もいる中、早くも換金をすませてきたメンバー数名。
UBシティ界隈に暮らす一人は、徒歩圏内にある3銀行を行脚。HDFC、STATE BANK OF INDIA、ICICI、それぞれで4000ルピーずつ換金したという。いずれの銀行でも、その場で書類に記入するほか、パスポートなどの身分証明書とそのコピー(←これ、大事)が必要とされた様子。1銀行30分ほどで完了したらしい。新しい500ルピー札、2000ルピー札は、昨日で一旦「品切れて」いるところが多いらしく、当面は小額紙幣で換金されるとのこと。彼女のお財布はパンパンだ。
一人一日4000ルピーとされていたはずだが、銀行を渡り歩けば換金できるとなると、大量のブラックマネーも人海戦術で地道に換金できるのか? という懸念も生まれる。しかしそれも想定内か。
もう一人のメンバーは、いくつかの銀行を車窓から眺めてチェックしつつ、列が短めのAXISバンクへ。なにせ、車間距離ならぬ人間(じんかん)距離が狭すぎるインド。後ろに並んでいたおばさんが、彼女の背中を使って書類を書き始めた……という話には笑えた。彼女は10ルピー札100枚の束を見せてくれた。昨日銀行を訪れた人は「外国人向けの優先窓口があったので、ほとんど待たずに換金できた」という。そんな次第で、エリア、銀行などにより、状況は異なるようである。ATMはまだ稼働していないところが多いようだ。
お茶の時間、メンバー全員に、ご自身周辺のインドの人たちの反応はどうだったか、尋ねてみた。不満を言っている人は誰もいない、というのが、全員の一致したコメントだった。いつもなら当然週末は休業の銀行。しかし、今週は土日もオープンして、換金、預金に対応するらしい。インドとは思えぬ、しかしこれもまた、インド。
◎11月14日 誤ったネガティヴな情報は広がりやすく、正しいポジティヴな情報は広がりにくい。虚構と真実が混沌と、瞬時に世界に広がる世の中。メディアさえも、正確な情報を伝え切れていないのだから、素人は何をか言わんや、だ。
ソーシャルメディアで安易に不確かな言葉を広げることの危険性を、わたしたちは自覚せねばならないと思う。きちんと読んでいない記事を安易にシェアすることも、控えた方がいいだろう。
誰もの言葉が瞬時に活字になって世界に広げられる世の中。自分の言葉は自分の手書きで、自分のノートにしか綴れなかった時代は遠く。
その、不確かなつぶやきのような言葉さえ、たちまち自分のデスクから飛びたって、世界に広がるのだということを、自覚せねばならないと思う。
自戒の意味を込めて。
◎11月14日 一時帰国から戻ってちょうど1週間。なんと濃厚な1週間だったことだろう。起こっている出来事に対して、善し悪しを判断できるほどの予備知識がないこともあるが、それでもいろいろな言葉を目にして、考えが一転二転したりもして、自分は何も生産的なことをやっていないのに、無闇に疲労していた。
専門家でさえ、読めない未来。だからもう素人は、余計なことに首を突っ込みすぎず、適度な謙虚さで、ひとまず大ざっぱな状況把握はしておいて、あとは自分にできることを、着実に進めていくしかないのだと、自分を戒める。
現在が歴史になる、この先10年後だか20年後だかに、「そういえば、あのモディ首相の高額紙幣の刷新は、画期的だったね」とか、「あれだけたいへんなことをやったのに、ブラックマネー、まだ蔓延してるよね」とか、「トランプのせいで云々」とか、「トランプのお陰で云々」とか、おぼろげに、今の出来事を、回想したりできるのだろう。
夫は今夜からムンバイ→デリー→ロンドン出張で10日余りの不在につき、静かな夜。今夜は邪念を取り払い、久しぶりに、ゆっくりと眠ろう。