[注意]文中、爽やかではない話題が含まれております。飲食中の方は、終了後にお読みになることをお勧めします。
本日、夫はオフィスには出勤せず。自宅で仕事をすませたあと、ランチ。午後からは「年末の休暇」に入る。わたしは、年末を前に、花を飾りたいと思う。近所にろくな花屋がないだろうことは下調べ済みだったが、花だけを買いに車で出かける気分でもない。黄色いバラ、赤いバラ、それだけを買えればいい。
我が家の裏通りの、人犬牛羊行き交う地元商店街。一人で行こうかとも思ったけれど、でも夫にも、ご近所の「現実」を見せておきたい。
「ちょっと散歩に行こうよ」
「どこに?」
「近所の商店街」
「え? あの汚いところ? 僕行かない」
「いいじゃない、行こうよ。いやなら途中で帰っていいから」
渋る夫を強引に誘い、出かける。我が家のアパートメントコンプレックスの敷地内は、まるで「極楽」のようなムードだけど、一歩外に出れば、混沌が待ち受けている。2ブロックも歩けば、小汚い商店街の連なり。
立ち小便をする男の後ろ姿を見ては、
「ああもう、最悪。インド、最低。」
ハエのたかる肉屋を見ては、
「ああもう、吐きそう。ミホ、僕は吐き気がするよ。早く帰ろうよ」
「わかった。わかったよ。花屋でバラを買ったら、すぐに帰るよ」
その花屋は、およそ花屋とは呼びがたい花屋で、生きてるんだか死んでるんだかわからない花がちょろちょろと軒先に飾られているばかり。
「ミホ、こんなところにバラなんてないよ。帰ろうよ」
でも、奥になにかあるはず。あった。ちんまりと束ねられたバラの花束が。小振りとはいえ、赤と黄色。
「1本5ルピーです」
と店の少女。10本で1ドルちょっと、といったところか。状態のいい花を選び、赤を20本、黄色を10本、買い求める。小振りだったのでもう少し欲しかったが、なにしろ状態が悪いので、この程度しか選べなかった。
わたしが合計金額を口にすると、英語が話せない店主らしき母親に、なにやら言われた少女が、「1本6ルピーです」と英語で小さく言い直したけれど、5ルピーって言ったでしょ? 聞き逃してはいないよ。150ルピーちょうどを手渡す。
年始のムンバイ旅行から帰って来たら、リッチモンドロードにあると言う大きな花屋に行ってみようと思う。
通りを歩いていたら、羊を連れた少年がいた。「写真を撮らせて」と、身振りで伝えたら、喜んで、にっこりとポーズをとってくれた。
そうしたら、たちまち周辺の少年たちが集まって来て、「僕も! 僕も!」と撮影をせがむ。カメラのモニターに映った画像を見せたら、みなで歓声を上げて大喜び。
その様子を見ていた下校中のガールズも近寄って来て「わたしも! わたしも!」。ボーイズの存在など意に介さず、全面に自らを押し出す積極性だ。背後で見ていたムスリムの少年もやってきて、ついでにおじさんもカメラ目線。
マガジンスタンドで、ローカルの言葉が話せないモハンのために、ヒンディー語の新聞や雑誌を探している夫。来週はわたしたちもいないし、彼も新しい土地でひとりきりじゃ退屈だろうから、せめて雑誌くらいは買ってあげようと思うのだ。
自宅に戻ったあと、夫はニルギリのミルクで作ったミルクコーヒーを飲みつつ、インドのスナックを食べつつ、TVに向かう。おととい、わたしは例の家具屋に出向き、家具購入第二弾を行い、昨日、すべてが配送されて来た。その第二弾の中にあった、夫専用の「TV用ソファー」に腰掛けて、非常にリラックスした様子である。
このソファー、夫がいない間は、もちろんわたしも使用する。本を読むときなどにうってつけの座りごこちの良さなのだ。
で、夫は何を見ているかと言えば、ん? 日本語? NHKの相撲を見ているのであった。
しばらくは、画面に向かっていたのだが、「なんか、頭がいたい。吐き気がする」と言い出した。
ほどなくして、トイレに駆け込み、嘔吐している様子。どうしたのだろう。わたしと彼は同じ物を食べているから、食あたりというわけではないだろう。スナックを食べ過ぎた? ミルクは今日配達されたばかりで大丈夫だし……。まさかひょっとして、本当に、汚い町並みにやられたとか……?
夫の背中をさすりながら、わたしはまじめに、反省した。この人は、わたしとは違うんだ。この人は、たとえインド人でも、根っからの「おぼっちゃま」なのだ。本当に、このインドの混沌が、耐えられないのだ。わたしのように、この奇想天外な日々を面白がる理由さえ、ないのだ。
昭和40年生まれのわたしは、小さな一軒家の、汲み取り式「どぼんどぼん便所(ぼっとん便所)」だった家に育った。無論、当時の中流家庭の一軒家は、おおよそ、そうだったはずだ。バキュームカーが時折、町内を巡回して、排便を吸い取って行った。バキュームカーが大きな管で吸い取っているときの音、ふりまかれる悪臭は、くっきりと幼児体験に刷り込まれている。
都市ガスが開通するまで、風呂は薪をくべてわかしていた。近所じゃたらいに洗濯板で洗濯している人も多かった。冷房も暖房もない。扇風機と石油ストーブだ。初めてカラーTVが家に来た日のことも、初めてお風呂がガスに変わった日のことも、よく覚えている。
そういえば、家の周囲の「どぶさらい」もよく手伝った。家庭の排水が流れ出す溝をきれいに保つため、町内で定期的に「どぶさらい日」を決め、一斉にゴミや泥などを大きなスコップで掃き出すのだ。
道路が舗装される前は、どぶさらいをしたそのごみを、道路に捨てても気にならなかったが、アスファルトの上に捨て去られたごみの汚さが、あまりにも目立って、今でも脳裏に焼き付いている。昭和43年あたりから、急速に道路のアスファルト化が進んで、近所の道が次々に舗装されていったのだった。
舗装されてしばらくして、ようやく溝(どぶ)に蓋がかぶせられ、どぶさらいの必要がなくなった。
高度成長期のただなかで幼児期を過ごしたわたしは、ぎりぎりで、貧しく汚い日本の片鱗を知っている世代かもしれない。いくらきれいずきな日本人だとはいえ、わたしは、汚いものの匂いを知っている。それはもちろんいやなものではあるけれど、我慢することができる。
でも、昭和47年、というか1972年生まれの、たとえそれがインドであれ、箱入り息子の夫には、我慢ができない。彼は身近な経験としての汚さの免疫力がないのだ。彼の育って来た環境の中には、どぼんどぼん便所も、どぶさらいも、残飯の匂いも、ない。もちろん、個人差はあるだろうけれど、少なくとも彼は、真っ当に、辛いのかもしれない。
「インド人のくせに、インドがだめだなんて!」
と、まるで意地悪なおねえちゃんみたいに、からかっていたけれど、もっとやさしくしようと、ちょっとだけ反省した。
夫はしばらくベッドでやすんでいたら、大分、調子がよくなったようで、夜はモハンが作ってくれたキチリ(インド的おかゆ)を少し食べた。明日には、きっとすっかり治っていることだろう。
ごめんよ。もう、汚いところには連れて行かないからさ!