いよいよスイス旅も終盤。明日の午後の便でジュネーヴからニューヨークへ発つ。今日はイースターフライデーで店は閉まっているし、ジュネーヴでは特に訪れたいところはないので、夕方までモントルーで過ごすことにした。
朝食の後、チェックインの前にホテルの周辺を散策する。少し歩くだけで、少し坂を上るだけで、目前に広がる光景がはっとするほど異なり、小さな散歩にも関わらず、すばらしい探訪をしているようである。
45度ほどもあろうかと思われる急斜面を、住民のためのであろう、無人のモノレールが行き来している。緑の中に見え隠れするその赤い車体がかわいらしい。
路傍には、わたしの大好きな花の一つであるラナンキュラスも色とりどりに咲いている。ことにまばゆい黄色は美しく、その花びらに触れてみずにはいられない。
桜によく似た花も満開で、湖畔越しに望む対岸のフランス側の山並みが、どこかしら「富士山的」に見えてくる。
丘の上からは、湖畔のシオン城が見える。上の写真の、円錐型の屋根をいただいた建物がそれだ。
こうしてみると、風景に情趣を添えた麗しい建築物である。やはり間近で見てみたいとも思う。
丘陵地に広がるオールドタウンには、昔ながらの家並みと、モダンな建築物が混在していて、しかし景観は不思議と調和していて、味わい深い。
欧州を訪れ、こうして自然の中に新旧が調和している様子を見るにつけ、どうして日本の景観はあんなことになってしまったのだろうと思わずにはいられない。
父が建設業を営んでいたわりに、わたしは子どものころから日本の土木の在り方に疑問を抱いていた。木々が伐採され、山肌があらわになり、そこにコンクリートが流し込まれる。
まるでチョコレートのような模様の、幾何学的なあのコンクリートの山肌が延々と続く。
あれは中学2年のときのことだ。あまりにも不条理に見える自然破壊のさまに対して疑問を抱き、そのことをテーマに作文を書いた。
反抗期まっただ中だったにも関わらず、至極まじめに作文に取り組んだのだった。その作文は、校内で選出された後、福岡県の作文コンクールに出され、同学年における一番の賞をもらった。
福岡県のローカル放送とはいえ、テレビ出演を依頼され、自分の作文を読み上げたこともあった。その後、西日本新聞にも写真と作文が掲載された。思えばあれがわたしの西日本新聞デヴューである。
しかし、両親とさえまともに口をきいていなかった時期、学校でも教師らからひどく疎まれていたわたしは、教師の誰からも祝福の言葉を受けることはなかった。
ただ唯一、テレビの放送を見たらしき数学のY先生から、
「おまえ、自分の作文を読むのに、つっかかってばっかりだったな。本当に自分で書いたんか?」
と、声をかけられたのみである。いくら反抗期でテレビなどどうでもいいと思っていたからといって、出演前に朗読の練習をしなかったわたしも、今思えばパンチを食らわしたいくらいの大馬鹿者だが、先生も先生である。
それでも、まったく無視されるよりは、一応はテレビを見てくれたあの先生は、まだいいほうだったのかもしれない。
確かに当時のわたしには、諸々の問題があった。しかしあの中学の教師らは、本当にひどかった。と、なにもスイスで中学時代の苦悩を振り返ることはない。
そんなわけで、日本の景観。テトラポッド(消波ブロック)で無闇に埋め尽くされた海岸線や、コンクリートの山肌や、麗しき山村を水没させて造られ続けたダム。
四季を彩る広葉樹はことごとく伐採され、かわりに無表情で規則正しい杉の木が植樹され続けた。それらのいったいどこまでが、実際に必要でやるべきことだったのか、わたしにはわからない。
丸々坊主の 禿げ山は
いつでもみんなの 笑いもの
これこれ杉の子 起きなさい
お日さまニコニコ 声かけた 声かけた
「お山のスギの子」の歌詞より。
この唱歌の歌詞に、すくすく育つ子供の隠喩ではなく、シイの木のかわりにスギの木が植林されているその様子を、スギ材の供給のために木々が伐採された禿げ山の様子を描いていると思うのは、考え過ぎだろうか。
そして数十年後の現在、大多数の国民が、スギ花粉症に苦しんでいる。
近代化が「欧米化すること」だったとしたら、日本がやってきたことは、決して「欧米化」ではないと思う。
わたしは日本に住んでいたころ、自然という存在感が、実に遠いものに感じていた。それは日常生活の中にはなく、あえて探し求めて出合いにいかねばならないものだった。
しかし欧米の街には、普通に豊かな緑がある。身近にある。
国の成長の在り方には、それぞれの形があるだろうが、しかし遠い過去の日本にあったであろう、幽玄にして繊細な四季折々の美を目にできる場所が激減してしまったことは、哀しいことだと思うのだ。
ホテルをチェックアウトしようとカウンターに赴けば、その女性、インドに行ったことがあるという。聞けば昔の彼がインド人だったとのこと。
母親がイタリア系のスイス人である彼女。ムンバイがことのほか気に入ったらしく、また行きたいのだとか。
「どうして? こんなきれいなところにいて、ムンバイが好きなの?」
夫は大いに驚いている。
「スイスはきれいな湖と山に囲まれていて、確かにきれいだけど、退屈なんですよ」
と彼女。いや、彼女の雰囲気を考慮した口調にするならば、こうだ。
「スイスって、きれいじゃない? 湖も山も。でもね~。なんていうか、退屈するのよ。きれいすぎ、っていうの? でもほら、インドってなんか、めちゃくちゃじゃない。あれが面白いんだよね。
インドには4カ月いたの。デリーではお腹こわしちゃったから、あんまりいい印象ないんだけど、ムンバイはよかった~。元カレの家に泊まったんだけどね。アンティ(おばさん)もよくしてくれたんだ。
でも、最初の1週間くらいは、外に出るの、ちょっと緊張した。だってね、ガイドブックに、「インドでは色白で、目と口の大きい女性が魅力的とされる」とかって書いてあったのね。
それってほら、もろ、わたしじゃん。だからね、人の視線が集まって気になるっていうか。なんか身体とかも触られたりしてね。あのときは学生で20歳だったから、わたしもまだまだ、世間知らずだったっていうか。
あ〜、あと、白人で、バックパッカーで、インドを旅していると、ドラッグとかそういうのが目的と思われて、いろんなやつが近寄ってくるのがほんと、いや。まあ、そういうの求める白人が多いっていうのが、そもそも問題なんだけどさ。
それでもね、なんかいいんだよね、インド。ほんとまた行きたいの。この間の休暇はカンボジアのあたりに行ったから、今度はインドにまた行こうって、思ってるんだ」
「ぼくは、この街が本当に気に入った。ここに住みたいくらいだよ。僕の暮らしと君の暮らし、交換しようか?」
と夫は、インド好きな彼女を信じられないという様子である。
いつかムンバイで会おうと声をかけあい、別れを告げたのだった。
取りあえず駅に赴き、スーツケースなどの荷物をコインロッカーに託す。旅行者が多いスイスでは、こういう便宜が整っていて、本当に身軽に旅ができるのがよい。さて、夕方まで、今日はどうやってすごそうか。
再び観光案内所に赴く。シオン城に立ち寄らないまでも、レマン湖をクルーズして外観だけ眺めるというのはどうだろう。
ちょうど5分後に、観光案内所の前の埠頭からクルーズ船が出航するというので、それに乗ってレマン湖を周遊することにした。1日に2回しか出ていない船が5分後とは、毎日、なにかといいタイミングではある。
湖に出れば、陸地とはまた別の風が吹いている。なんともいえず気分がよい。昨日の残りのパンとプロシュート、オリーヴなどをお弁当がわりに、湖面を眺めながらのランチタイム。
おにぎりと卵焼きなどがあれば格別だろうが……どうもわたしは、おにぎりが食べたいようである。 日本食はニューヨークで思い切り食べるのだ。今は忘れよう。
クルーズ船はいくつかの街に立ち寄りながらゆくのだが、わたしたちはシオン城には立ち寄らず、スイスとフランスの国境の街でおりることにした。そして2時間後、次の船が来たときに乗船してモントルーに戻る。
国境の街はといえば、単に小さな村で、特筆すべきなにもなかった。が、ともあれフランスとスイスの国境に立ち、記念撮影をする。
東京時代、昭和シェル石油のクレジット会員向け情報誌の編集をしていたころ、隔月で2カ国を取材していた。
車で欧州をドライヴするという企画で、当時はやっていた言葉「ボーダレス」を体現するべく、フランスとスペイン、ベルギーとオランダ、ベルリンの壁崩壊後の旧東西ドイツなどの国境を走った。
あのとき、島国である日本と、他国と国境を接する国々とでは、さまざまな価値観が大きく異なるであろうことを思い知らされた。あれこれ書きたいことはあるが、また長くなるので触れないが。
村を歩き、湖畔のカフェでコーヒーを飲み、静かなひとときを過ごす。やがて汽笛を鳴らして入港するクルーズ船に乗り込んで、再び湖上を走る。
白鳥やカモが湖面を彩る上の写真は、ネスレ本社のあるヴヴェイの街。湖畔にはメリーゴーラウンドが周り、花々が咲き乱れ、なんともいえず長閑である。
帰りはモントルーの一つ手前の街で船を降り、湖畔のプロムナードを歩きながら駅を目指す。
ここしばらくの間に一斉に開花した花々が、色とりどりに光景を彩り、本当に美しい。春の花をこんなにも見るのは久しぶりのことで、ワシントンDC時代の、花と緑に包まれた春を思い出す。
右上の写真は、大きな一眼レフを抱えて花の撮影をしていた女性に頼んで撮ってもらった。とてもフレンドリーな人で、いろいろなアングルからたいそう撮影してくれた。
「ちょっと彼女、膝まげて、縮んで」
男女の身長比を考慮してのリクエストを受け、縮んでみた。やはりこれくらいの差が見た目にバランスがよいのであろうか。ともあれ、二人での写真が少ないので、きれいに撮ってもらえてよかった。
日本からの桜も、ちょうど花をつけていた。わずか1本でも、こうして見られることができてよかった。
2泊3日のモントルー滞在。こんなに楽しめるとは思っておらず、予想以上にすばらしい旅ができた。なにより天候に恵まれたのが幸いだった。
さて、夕刻の列車に揺られてジュネーヴへ。3日前と同じ、駅前のWARWICK HOTELだ。ホテルにチェックインするやいなや、疲れがどっとでてきた。遊びすぎて疲労困憊のようである。しかし1時間ほど仮眠をとったら回復したので、夕食に出かける。
気持ちはまだまだ欧州系の食べ物を求めているのだが、身体がどうやら拒絶している。ホテルには日本料理店の「稲ぎく」があるが、高い。特にスイスフランを米ドルに換算すると高すぎる感が強い。
日本食はニューヨークで食べようと我慢して、しかしオリエンタルな味を切望している我々は、「今夜はチャイニーズにしよう」と、失敗を承知で近所のチャイニーズレストランに入る。
と、この店の料理が意外においしい。あっさり中華そばに野菜炒め、エビとタケノコ、椎茸のソテーなど、ほっとする味わいの料理を食して満足。
ホテルに戻り、窓の外を見やれば、驚くほどに大きな満月と、湖の噴水。
最後の最後まで、美しい瞬間に出会えて、本当に幸運であった。
さて、明日は昼の便でジュネーヴを発ち、夕方、ニューヨークに到着する。
ニューヨークもまた、新緑や春の花々が美しい時節。
セントラルパークを散策するのにもいいころだ。ムンバイやバンガロールでは決してできないことを、楽しみたいものだ。