予想通りの濃密さで日々を重ね8月。出会いや転機が多い月だと記した矢先、ちょっとした変化の知らせ。
昨日の朝、届いた一通のメール。読んで一瞬、沈み、そして次の瞬間に「節目」を思った。
2007年2月から5年以上に亘って寄稿してきた西日本新聞の『激変するインド』が、あと3回、すなわち10月で終了することになった。
国際面の刷新が、終了の理由だとのことである。
今までさまざまな媒体に原稿を書き続けてきたが、5年という長い連載は初めてのことであった。また故郷の福岡と自分を結びつける意味で、精神的に意義深い仕事でもあった。
残念な思いはさておき、まずは5年間も続けさせてもらえたことに、感謝すべきであろう。
5年の間。この仕事を通しての、故郷での出会い、再会は、数えきれない。家族や親戚、母の友人ら、我が故郷の友人知人……。新しい仕事を得ることも少なからずあった。
詳細についてはまた、3カ月後、最後の記事を書き終わったあとに総括の意味を込めて記そうと思う。
自分で言うのもなんだが、この連載は、それなりに人気があったように実感している。が、もちろん、自分の身近な人たち、敢えて声をかけてくれた人々の言葉であるから、好意的であるのは当然だ。
自分の力量云々に関わらず、インドへ開いていた小さな窓の一つが、閉じられることは、惜しい。
今、考えねばならないことは、他にある。即、気持ちを切り替えようと思ったが、昨日の朝は、あれこれと、思い出されて少し沈んだ。
亡父の友人が記事を読んで、時折、母に電話をしてくれたことや、妹の夫のご両親が、初回から記事を毎月ファイルにきれいにおさめてくれている話などを思い出すと、「自分の仕事」という範疇を超えて、寂しく思うのだ。
なんか、歳とったな……自分。
無駄と思いつつも、センチメンタルな心情を誰かに訴えたく、夕飯の折、夫に話したところ、
「終わったの? ニシニッポンジン?(彼は最後まで、「西日本新聞」を正しく発音できなかった) ローカル紙が終わったんなら、全国紙に書けばいいじゃない」
か、軽く言いやがる……。やっぱり、話し相手を間違っていた。
ともあれ、一つの扉が閉ざされたなら、別の扉を開けばよい。
そう思った矢先に、昨日から今日にかけて、いくつかの新しい仕事が入って来た。
今朝は、約2カ月に一度のRKBラジオのレポートの依頼も入り、離れかけた福岡が再び迫った。いつもは、特段、なにも感じないのに、今日はその連絡がうれしかった。
やはり今月は、動く月のようである。
カシミールの話題を3回に分けて記す予定だったので、残りの2回を記し、最後に5年間を総括する意味で1回。すなわちあと3回。
上の写真は、記事のタイトルのメモである。なぜか、あと3回、66回目の番号までを空欄に記していたのが、暗示めいている。
さ、一気に原稿を書きあげて、次に行くぞ、次に! 心機一転、がんばります。
【義理の家族との集いもあれこれと。そして明後日は誕生会】
先月末から義理の両親がデリーから来訪している。最初の5日間は、アーユルヴェーダグラム滞在をプレゼントした。義継母ウマはともかく、義理パパのロメイシュがトリートメントを非常に気に入ってくれたのでよかった。
ウマは、あまり人に身体を触られるのが好きではないらしい。
なお、アルヴィンドの実母は彼が大学生の時に慢性白血病で他界している。ウマは、ロメイシュの再婚者で、前夫の間には娘がおり、シンガポールに住んでいる。孫もいる。
彼らは数日、義姉スジャータの家に滞在し、今はバンガロールクラブに泊まっている。ウマにとっても、義理の子どもの家に泊まるよりは、そちらの方が気が楽なのだと思う。
それはこちらにとっても幸いである。
なにしろ一般に、インドの家族とは粘着性が非常に高く、義理の家族の来襲、いや来訪も極めて頻繁かつ長期に亘るからだ。
10日金曜日には、アルヴィンドの誕生会を開く。最初は家族や親戚だけを招こうかとも思ったが、今年は40歳。欧米では、人生の折り返し地点としての40歳の誕生日を盛大に開く。
ファミリーフレンドや友人らを招き、下準備に苦労しない程度、30人ほどのゲストを招くことにした。
というわけで、本当の誕生日であるところの9日、明日は食料品の買い出しや準備もせねばという一日だ。
【庭の工事、佳境。庭師&ドライヴァーのその後】
庭の改装工事が佳境だ。本来ならすでに終わっているはずだが2週間ほどの遅れ。今回は遅れても仕方がないとの判断だ。
というのも、わたしの想像を遥かに超えて、「いい仕事」をしてくれているからだ。これだけ丁寧に作業をしたならば、インド基準で1カ月で終わらせるのは無理である。
インドとは、工事現場に10人いたとしたら、ずっと働いているのは2、3人。あとは、ちょこちょこと手伝ったり、人の作業を眺めたり、という「サクラ的」な存在なのだ。
もっとも、その日、その状況によっては、10人の大半が一度に動くこともある。が、言うほどアクティブでもなければ、テキパキしているわけでもない。
たいていは、柱を支えるだけ、とか、セメント袋を撫でているだけ、とか、携帯電話で延々と話しているだけ、とか、そういう状態。
そんな人間観察レポートを書き続けるときりがないので、この辺にしておく。
左上は、紙ヤスリで黙々と木の壁を磨く人々。こりゃ、時間がかかって当然である。
洗濯物干場のタイルの張り替え。この作業に感動した。本来、内側から外側に向かって、水などが流れ落ちるよう傾斜を付けるべきところ、インドじゃその逆に仕上げてくれるミステリアスなケースが一般的。
「雨水がテラスの内側に溜まる〜」みたいな状況が普通なのだ。
前回、このテラスを作ってもらったとき、一度目はそうなったので、直後に張り替え直してもらった経緯がある。
ところがこの職人さんたちといったら、わたしが監督をしつつ「傾斜、気をつけてね」と言ったら、「もちろんです。1インチ、落としてます」とのこと。
もちろん、外側に向けてね。
ちなみに右上の小山は、要所要所に設けた水平をチェックするためのポイント。こうして水平の目安をつけているのである。
携帯電話片手でも、仕事ぶりがよいので、ノープロブレムだ。
ともかく、資材の搬入が壮絶で、家中になんやかんやの埃が微妙に溜まっているのを、メイドのプレシラががんばって掃除してくれている。
わたしは家をうろうろしては現場監督をするだけなので、楽と言えば楽なご身分だ。
それはそうと、ドライヴァーのアンソニーの件。娘の「大人になった日」を祝う宴は、無事に終了した様子。そのときの、彼女のサリー姿の写真を見せてくれた。
とてもきれいに写っている彼女。これは日本の成人式に等しいのだな、とも思った。
初めてのサリーは振り袖のようなもの。ともあれ、おめでとう、である。
それでもって、泣く庭師の件。結論からいえば、もう1カ月の猶予を与えた。解雇を告げた翌日、妻と息子に来てもらい、メイドのプレシラに通訳をしてもらって会話。
庭師は、やはり酒浸りの日々である旨を告げられた。
2年ほど前より酒を飲み始め、昼間はたいてい寝ているという。
わたしの嗅覚に、狂いはなかった。
息子は朝、牛乳配達をし、庭仕事4軒分をこなし、午後から学校に通い、深夜帰宅。自宅で勉強する時間がない。
気の毒すぎる。
妻は2軒の家政婦をしている。妻は、滔々と、辛い暮らしの実情を話し続けていたが、途中から声を詰まらせた。泣くまいと努めていても、こらえきれないという様子は、こちらも辛い。
父親に逆らえない従順で気のいい息子。しかし今はそれが仇になり、父親は息子に甘えきっている。
「どんなに父親に怒鳴られても、疎ましがれても、とにかく我が家にだけでも、毎日来るよう、家から引きずりだしておいで」と告げた。
さもなくば、わたしが引きずり出しに行くよ、近所だし。と冗談半分、本気半分で伝えた。
庭師はまだ40歳。ここでアル中になって人生を終わらせるには、まだ早い。
給料は、すべて妻か息子経由で渡し、庭師にお酒代を与えないということも決めた。ここ数年のうち、他の家の仕事もおざなりだったことから、彼の仕事は激減している。
我が家からの支払いは、彼ら一家にとっても大きいのだ。なんとしても酒を断たせねば。なにしろ5年も付き合って来たわけで、子どもたちのことを考えると、やはり解雇するのは辛い。
今のところ、父子そろって毎日訪れている。1カ月後どうなるか。またそのときに考えようと思う。
【旧友、福岡よりバンガロールへ来訪】
実は昨日、福岡に住む友人、美砂さんがバンガロールに到着した。チェンナイ経由で南インドを列車やバスで旅した後、ここに入った。
彼女とは、少し特殊な間柄。
我が亡父と、彼女の叔父さんが、高校時代(嘉穂高校)の親友だったのだ。叔父さんは若くして他界したが、その後も父は、飯塚の彼女の実家に、お線香をあげに訪れていたようだ。
わたしは幼少時に一度、飯塚で美砂さんと、ちらっと会ったきり。大人になって東京で再会したときに、初めて会話らしい会話をした。あれは彼女が23歳、わたしが27歳のころだったから、ちょうど20年前だ。
世田谷のおんぼろアパート(竹陣荘という渋い名前)に招き、当時自費出版した「モンゴル旅日記」を上げた記憶がある。
その後、ファッションデザインの仕事をしていた彼女はパリに渡り、以降17年間暮らしていた。
モンゴル旅日記の影響を受けて、シベリア鉄道の旅をしたこともある彼女。旅にも慣れている。
わたしは28歳、29歳と、2年にわたって、年に一度設けた3カ月休暇の、最初と最後をパリで過ごした。その際に、彼女の家に滞在させてもらった。
今度は彼女が、パリから遊びに来た。
ちょうどわたしがアルヴィンドと出会ったころの数日間を、一緒に過ごしたのだった。
思い出すに、その後も含めて、これまで5、6回しか会っていないにも関わらず、お互いに記憶に強く刻まれる出会い方をしている気がする。
今年はこうして8月の今、ここを訪れて、アルヴィンドの誕生日を一緒に祝ってくれる。
更には、東京に暮らす彼女の妹も、急遽、バンガロールへ来ることになり、明後日には到着するそうだ。
しかも、妹さんは8月10日、すなわちアルヴィンドの誕生日会をする日が誕生日で、更にはアルヴィンドと同じ40歳だと言う。
相当に奇遇なので、一緒に祝ってあげようと思っている。
人の縁とは、本当に不思議なものだ。
なんだか異様に話が長くなったが、書きたいことが募るのもまた、8月のせいか。そういえば、お盆も近いな。
今週は、そんな次第で金曜は誕生会の準備があるため、繰り上げて水曜日の本日、サロン・ド・ミューズをオープン。
今日もまた、14、5名が集まり、停滞気味だった「チーム布」の活動も再開。美砂さんも遊びに来てくれて、みなで「チーム紙」の折り紙作業を手伝ってくれた。
ミューズ・クリエイション。気軽に始められるよう、なるたけ緩めに楽しげに、しかし、それなりの成果を。という、たいそう曖昧なスタンスで始めたが、予想以上にいい感じで、平和なサロンが育まれている気がする。
22日には、ミューズ・クリエイション結成以来、初の学校訪問も決まった。楽しみだ。
さて、夫はといえば、毎晩オリンピック観戦で夜更かし気味。妻が全く関心を示さないので、一人で日本を応援している。