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【追記/2022年10月】
この記録にある通り、わたしは2018年4月下旬から5月初旬の3泊4日をナーグプルで過ごし、佐々井秀嶺上人にお目にかかった。そして、稀有な経験を享受するに至った。以来、折に触れては、佐々井秀嶺上人にまつわる事柄(インドの仏教やアンベードカルを含む)を記してきた。それらの記録や動画を、以下の『深海ライブラリ』ブログにまとめているので、関心のある方にはぜひアクセスしていただければと思う。セミナー動画を視聴すれば、長大なる背景の事情を、短時間でご理解いただけるはずだ。
✊インド国憲法草案者アンベードカルとインド仏教。そして日本人僧侶、佐々井秀嶺上人を巡る記録
➡︎https://museindia.typepad.jp/library/2021/12/unity.html
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20歳の時、強い衝動をもって、太平洋を越えた。初めての海外旅行、1カ月の米国西海岸ホームステイ。あの1カ月は、その後の我が人生を大きく変えた。
以来、何十もの国を旅し、何百もの街を訪れた。飛行機による点の旅。自動車や列車による線の旅。どの旅も、当時の旅日記を紐解き、地図を眺め、写真を見れば、たちまち昨日のことのように思い返される。かけがえのない思い出ばかりだ。
さて、旅の多い人生を送ってきたわたしにとって、しかし1カ月前のナーグプルへの旅は、極めて異質の、敢えて言えば奇妙な衝動を伴ってのものだった。旅の間の精神の高揚、旅のあとの強烈な余韻……。
普段ならば、旅の直後に紀行文をまとめてブログに残すところだが、その前にプレゼンテーション用のパワーポイント資料を作り、勉強会を2回実施した。ブログを書くにも、うまくまとめられないまま1カ月が過ぎてしまった。
今夜(正確には明日の早朝)から年に一度の米国旅。次の旅を重ねるまえに、時間が許す限り、ここに整理しておこうと思う。
旅の途中のインスタグラムへの投稿を織り交ぜつつ、パワーポイントの資料を取り込みつつ、情報が散漫になってしまうかもしれないが、ともあれ記す。
遥か昔の、父方の祖母の日蓮宗。亡父が建立に携わった久山の仏舎利塔。太鼓の音と南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
遥か昔の、母方の祖母の真言宗の、強烈なまでの、夢枕。不動明王の炎と、言い当てられる恐怖畏怖。南無阿弥陀仏。
1996年7月7日、七夕の夜。ニューヨークのカフェで、インド人の男性と相席になった。
初めてディナーを共にしたあと、彼が勧めてくれた本は、ヘッセの『シッダールタ』。 翌日、ロックフェラーセンターの紀伊國屋で購入し、帰路、立寄ったシェラトンホテルのカフェで一気に読破。
信仰心やら宗教心やらとは程遠い日常の中で、大切な人を喪いし折には、節操なく彼方此方の神に祈った。
2001年7月に、初めてインドの土を踏み、ニューデリーで結婚した。こんな国には、とても住めないと思った。
2005年11月、嫌がる夫を1年がかりで説き伏せて、インド移住を決行した。
インドに好きで来たけれど、インドが好きで来たわけではない、などとうそぶきながら幾星霜。
ムンバイの日本山妙法寺。スリランカの日本山妙法寺。
しかし、実家から持ってきた『藤井日達上人百歳記念』の書籍にあった、「インドに期待する」の一文に、ひっかかっていた。 「インドには新仏教徒というのが居りますが、これ等はみな政治的な集団で、信仰も仏教もありません。」 仏教に詳しくないわたしでも、この言葉の中には、違和感と、もっと言えば「傲慢さ」しか見えなかった。
それでも、ムンバイへ行くたびに、必ず立ち寄る、日本人墓地、供養塔。
アンベードカルと共に不可触の民ら〈ダリット〉が仏教に改宗した、その彼らが住む場所にある。
墓守のおばあさんもまた、ダリットの出自であるのは間違いなく。
先月のハンピ旅で、あまりにも多くのアンベードカルの肖像や銅像を目にして、
この国の偉人は、マハトマ・ガンディにばかり代表されているが、果たして。
ダリット出自ながら、艱難辛苦の末、ニューヨークのコロンビア大学で学び、英国で学び、
弁護士となり、不可触民解放の指導者となり、
インド国憲法の草案を作り上げ、カースト制度から数千年の奴隷制度ともいうべく不可触民の解放を明文化し、
晩年には数十万人のダリットと共に、ヒンドゥ教のカースト制の縛りから脱却すべく、ナーグプルの地で仏教徒に改宗した。
ハンピ旅を共にした友人から勧められた佐々井秀嶺上人の『破天』。 アンベードカルの遺志を引き継ぎながら、インドで50年もの間、仏教に関わる献身をされている。
アンベードカル、そして佐々井秀嶺上人に関する何冊かを取り寄せて読めば、居ても立ってもいられぬ心境となり。
あちこちに、一旦、本を閉じて気持ちを鎮めずにはいられぬ言葉が在り。
ゆえに、頁はなかなか先へは進まず、しかし確実に、染み込んでゆき。
ハンピ旅の帰路。車窓から「バンガロール=ナーグプル直航便就航』の広告が目に飛び込んできた。
それもまた、一つの啓示。
明日から3泊4日で、ナーグプルへ、行ってきます。
最高気温、バンガロールより10℃も高い44℃。 諸々、心して、行ってきます。
◯2017年9月「週刊女性」のオンライン記事で、インドのナーグプルに50年ものあいだ暮らし、元ダリット(不可触民)とされていた人々を導く日本人僧侶、佐々井秀嶺の存在を知る。衝撃を受けると同時にナーグプルに行ってみたいと思うも、一旦忘却
◯2018年3月ハンピ旅の道中、アンベードカルの話をしていたとき、同行の友人に佐々井秀嶺の半生を描く『破天』(山際素男著)を読むよう勧められる
◯ハンピ旅の帰路、車窓から「バンガロール=ナーグプル就航」の広告が目に入る
◯ハンピ旅から戻って直後、佐々井秀嶺及びアンベードカル関連書籍を日本のアマゾンで注文。1週間後に届く
◯2018年4月『破天』読書中、読了前にも関わらず、発作的に「ともかく行かねば!」と思う
◯ハンピ旅のあと、実は2018年4月30日仏陀聖誕祭前後の予定を、開けていた。ナーグプル行きを決める
◯各所に問い合わせ、佐々井上人のご予定を確認。4月28日から3泊4日で手配
◯たまたま、お弟子の竜亀さんが4月26日からナーグプル入り
◯4月29日、30日の2日間、佐々井上人、竜亀さんに同行させていただくことに
〈その他、取るに足らないが、小さなご縁〉
◯ナーグプルの「ナーグ」は蛇(龍)を意味する。坂田、巳年
◯佐々井氏の誕生日は1935年8月30日。坂田の誕生日は1965年8月31日。30年と1日違い
◯佐々井氏が日本を出たのは30歳。坂田が日本を出たのも30歳
◯メンバーが直前に決めたミューズ・クワイアの新曲が『海の声』by 浦ちゃん(浦島太郎)だった
★仏教とは? アンベードカルとは? ダリットとは? 龍樹とは?
今回の旅の意義を理解してもらうには、必要な予備知識がいくつかある。それらの実態を知らないことには、なにがどう、たいへんで、なにがどう偉大なのか、分かり得ないからだ。
しかし、それを説明していると、長大な記録になってしまうので、スクリーンショットで撮ったパワーポイントの資料を引用しつつ、簡単に言及したい。
*なお、坂田は仏教やアンベードカルについては、現在「勉強を始めたばかり」につき、まだまだ正確に語るに足りぬ未熟な立場である。ということを、念のため書き添えておく。
●仏陀により、紀元前450年ごろ(約2500年前)のインドで説かれた教え
●開祖である仏陀は、ゴーダマ・シッダールダ、釈迦、釈尊とも呼ばれる
●自然崇拝や民族宗教などの原始宗教をルーツに持たない
●当時インドでは祭事を司る支配階級バラモンとは別に、サマナ(沙門)といわれる出身、出自を問わない自由な立場の思想家、宗教家、修行者らがおり、仏教はこの文化を出発点としている
●釈迦の死後(仏滅)、出家者集団(僧伽、サンガ)は各々が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を実施。これは「三蔵の結集」と呼ばれ、マハーカッサパ(摩訶迦葉尊者)が中心になって開かれた。仏典は口誦によって伝承され、後に文字化。釈迦の説いた法話を経・律・論の三つに大きく分類、仏教聖典の編纂会議を行った
◆仏教の宗派(大別)
●初期仏教:仏教普及当初の源泉→根本分離
●大乗仏教 Mahayana:大きな乗り物。生きとし生けるもの全て、大衆が救われる。「自分だけではなく全ての人のために修行を行う」という思想
●上座部仏教(小乗仏教)Theravada:基本的には自分のための仏教。「仏の教えに従い、修行を行った者だけが成仏できる」という思想
◆日本の仏教
仏教伝来には2説あり。『日本書紀』によると、552年(飛鳥時代/欽明天皇)、百済の聖王により釈迦仏の金銅像と経論などが献上されたとき
『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子伝記)などによると538年
約8,470万人が仏教徒であるとされる(2013年統計)
伝統的な仏教の13宗は、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗。幕末まで、日本は仏と神を一体で不可分とする神仏習合の時代であった。日本に伝来した仏教は、「大乗仏教」である。
◆インドの仏教とその衰退、復興
●仏教は発生後、紀元前5世紀前後から着実に成長
●紀元前3世紀、アショカ王が仏教に帰依。マウリヤ朝で国家宗教に。インドの国章である獅子像は当時のもの
●紀元前の数世紀に亘って繁栄、中央アジア、中国を経て広まったが、徐々に衰退
●ヒンドゥー教の席巻とイスラム教による迫害
●仏教寺院、仏教遺跡、仏陀の彫像などがヒンドゥー教の聖像に変換され、仏教徒の礼拝が禁じられた
●1891年、ブッダガヤを巡礼したスリランカの仏教指導者アナガーリカ・ダルマパーラは、仏教寺院がシヴァ派聖職者の管理下にあることを知って衝撃を受け、インド仏教の再構築を目指すべく「大菩薩協会」を組織
●1950年代、アンベードカルが新仏教運動を開拓
サールナートで発見された獅子像。砂岩に彫られた四頭のライオンの下に法輪(ダルマ・チャクラ)が刻まれている。ブッダが世界の四方に向かって法輪を初めて転じた地点であることを示す。インドの国章。
ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar)
1891年4月14日〜1956年12月6日。インドの政治家(ネルー内閣法務大臣)、思想家。インド憲法(1950年1月26日施行)の草案者。反カースト(不可触民/ダリット改革)運動の指導者
●ダリットの両親の元、MP州マウーにて、14人兄弟の末っ子として誕生
●学問重視の父親。勉学に長け、不可触民として初めて大学入試に合格
●ボンベイ大学エルフィンストーンカレッジで政治学と経済学
●NYコロンビア大学で経済学、社会学、歴史学、政治学、人類学、哲学を研究
●ロンドンの大学で更に学業研鑽。ドイツのボン大学に3カ月留学し経済学
◆アンベードカルの活動
●ボンベイで上級法廷弁護士として開業。大学教授として若者指導
●多彩な政治活動を開始。理不尽で残酷な不可触民制度との戦い
●貯水池、井戸利用の主張。反バラモン運動(ヒンドゥ教聖典『マヌ法典』を焼却)
●ヒンドゥー寺院開放運動
●マハトマ・ガンディとの絶大なる諍い(不可触民に特別枠を設ける分離選挙に関し)
●ガンディは不可触民問題の重要性を認識。ハリジャンと呼んで解放運動開始
●全インド・ムスリム連盟への批判
●インド国憲法の草案を作成:信教の自由、被差別カースト制廃止、農業投資重視、税制改革、貨幣制度整備、労使問題の近代化、女性の地位向上(避妊や家族計画)
●仏教への改宗:不可触民がヒンドゥー教にとどまる限り、向上はないとし、1956年、30万人(50万人ともいわれる)と仏教に改宗。新仏教徒という位置付け
●マハラーシュトラ州の都市。人口241万人(2011年国勢調査)
●デカン高原の交通の要地。英国統治時代、インドの中心とされた
●空の玄関口はドクター・バーバーサーヒブ・アンベードカル国際空港
●市内中心地に、インドの中心点を示すゼロマイル・ストーンがある
●オレンジの名産地
◆ナーグプル市の宗教事情
●インド全体における仏教徒の比率は、約0.7%
●ナーグプルの仏教徒の比率は、15.57%
●インド全体の識字率は約73%
●ナーグプルの識字率は約92%
●1935年(昭和10年)生まれ。読書が好きで賢い子だった
●一方で色情因縁の血。祖父、父も外に女。精力絶倫すぎ。初体験は11歳
●性欲を抑えきれず、女好き過ぎて苦悩。諸々あって自殺未遂3回
●丁稚奉公その他、紆余曲折を経て高尾山薬王院で仏門に入る
●仏教国タイへ、寺の支援で留学。パーリ語などを習得
●中国人女性、タイ人女性と恋仲に。騒ぎを起こしてのち、インドへ
◆佐々井秀嶺 年譜
1935年(昭和10年)岡山県新見市菅生村別所に生まれる。本名佐々井実。
1945年(昭和20年)終戦。壁などに「戦争に負けていい気味だ」と書いて袋叩きにあう。
1948年(昭和23年)山中でのケガがもとで2年間、病に伏す。
1951年(昭和26年)上京。東京正生院に入門するも女性問題に悩み自殺未遂。
1959年(昭和34年)出家を志すも各宗の本山では入門を許されず、自殺未遂。
1960年(昭和35年)25歳。高尾山薬王院山本秀順貫主のもとで得度。法名秀嶺を受ける。
1965年(昭和40年)30歳。山本秀順師の勧めにより、タイに留学。
1967年(昭和42年)32歳。女性問題が原因で、インドへ。ラージギル日本山妙法寺へ。
1968年(昭和43年)多宝山上で龍樹菩薩の霊告を受け、ナーグプルへ。
1969年(昭和44年)ナグプールに最初のお寺を建立。
1970年(昭和45年)ムンバイのシッダールタカレッジでアンベードカルの事績を研究。アンベードカル博士の遺骨をナーグプルに分祀。このころ洞窟で15日間の断食断水決行、以後2年間、声を失う。
1976年(昭和51年)龍樹菩薩の遺跡を探しインド各地を旅。仏教徒大会で導師を勤める。
1979年(昭和54年)ブッダガヤ大菩提寺の金剛宝座横にて8日間の断食。
1984年(昭和59年)ビザ期限切れによる強制退去命令。
1987年(昭和62年) 不法滞在で一時逮捕。ナーグプルで佐々井秀嶺擁護委員会結成。1カ月月で60万人の署名が集まる。翌年、1988年(昭和63年)ラジヴ・ガンディ首相より国籍授与。印名アーリヤ・ナーガルジュナ。
1992年(平成4年)ブッダガヤ大菩薩寺管理権奪還闘争開始。 マンセル遺跡、シルプール遺跡を踏査、土地を取得し発掘調査を実施。
1994年(平成6年)アンベードカル国際平和賞受賞。
2003年(平成15年)中央政府少数者委員会の仏教代表に就任。任期3年間。
2006年(平成18年)アンベードカル博士改宗50周年記念式典(黄金祭)の大導師を務める。
2009年(平成21年)44年ぶりに日本に一時帰国。
2010年(平成22年)ナーグプル郊外に龍樹菩薩大寺を建立。落慶大法要。
2014年(平成26年)体調を崩し一時危篤状態となるも復活。
2016年(平成28年)アンベードカル国際協会会長就任、ディクシャ・ブーミ委員長に。
◆佐々井秀嶺はなぜナーグプルへ? 南天竜宮城へ行け。龍樹のお告げ
ラージキルの王舎城で日本帰国の準備を整えた1967年8月、満月の夜。就寝時、突然目の前に現れた龍樹(ナーガルジュナ)からお告げを受ける。師匠曰く「ナーグ(蛇、竜)」「プル(城、平野)」即ちナーグプル。
我は龍樹なり
汝速やかに南天竜宮城へ行け
南天竜宮城は我が法城なり
我が法城は汝が法城
汝が法城は我が法城
汝速やかに南天竜宮城へ行け
南天鉄塔またそこにあらんかな
◆龍樹(ナーガルジュナ)とは?
●2世紀に生まれたインド仏教の僧侶。ナーガルジュナはサンスクリット語
●日本では大乗仏教八宗(すべての大乗仏教の宗旨、宗派)の祖師とされる
●大乗仏教の基盤となる「般若経」における「空」の理論を大成
●特に真言密教において重要な人物
●若き日の龍樹は才能に恵まれる一方、快楽に走る。愛欲から逃れるべく出家
◆南天鉄塔とは?
●大日如来(真言密教の教主)の教えは非常に難しく、理解できない
●紀元前500年ごろ、金剛薩埵が南天鉄塔に収めた。龍樹が現れると予言
●予言通り、龍樹登場。南天鉄塔を開いて、教えを経典にまとめあげた
●龍智→金剛智三蔵→不空三蔵(中国)→恵果和尚(中国)→空海(日本)
◆大日如来とは?
大日如来は、『大日経』や『金剛頂経』などに説かれる仏。「摩訶毘盧遮那(マカビルシャナ)仏」「毘盧遮那(ビルシャナ)仏」、あるいは「遍照如来」ともいわれる。真言宗では、大宇宙の数え切れない仏の中の最高の仏とされ、大宇宙そのものとか、森羅万象が収まっているともいわれる
【インドにおける佐々井秀嶺上人の活動】
●仏教の布教活動。啓蒙と教育
●アンベードカルの遺志を継ぎ、元ダリット(不可触民)の仏教改宗
●仏教寺院、福祉施設の建設および運営
●仏教遺跡の発掘(マンセル遺跡、シルプル遺跡)
●インド政府少数派委員会(マイノリティ・コミッション)仏教代表
●ブッダガヤの「大菩提寺」管理権返還運動
●2009年以降、日本へ帰国。全国を行脚
★4月29日午前:まずはナーグプル市内北部のインドラ寺へ
28日(土)の夕刻、ナーグプルへ着いた。空港に近いラディソン・ブルーホテルにチェックイン。弟子の竜亀さんによると、この日は夜まで外出されているとのことで、29日の朝7時に来訪を、とのことだった。
この3泊4日、ただ佐々井氏にお会いし、マンセル遺跡を見ることができればいいと考えており、他の予定は何もいれていない。夜はホテルで関連書籍に目を通し、夕食は簡単にルームサーヴィスですませ、なにやら落ち着かない心持ちで早めにベッドに入ったのだった。
そして29日朝、UBERを呼んで、インドラ寺を目指す。
ナーグプル市内北部。仏教徒が多いエリア。4月14日のアンベードカル聖誕祭の名残か、まだひと気の少ない路地に、彼の肖像が描かれたバナーや旗などが翻っている。
●活動拠点はナーグプル市街北部。仏教徒が多いインドラ地区のインドラ寺院。Indora Buddha Vihar
●界隈の人々の挨拶は「ジャイ・ビーム!」。ビームラオ・ラームジー・アンベードカルを讃える言葉
●佐々井上人はバンテージー(和尚さん)と呼ばれる
●インドラ寺の上階。入り口から「おはようございます!」と叫ぶと、奥から、「おう、お待ちしていました!」と佐々井上人の声。4、5時間前に戻られたばかりとのこと、仮眠を取るために横たわっていらした。腰痛がお辛い様子で座りつづけるのがきついとのこと。
●インドラ寺院の上階に住まい。8畳ほどの細長い部屋。一方の壁は全面書棚。奥にベッド。かなり散らかっている。壊れかけた冷蔵庫、中は混沌。賞味期限も新旧混沌の日本のインスタント食品の山……。片付けたくなってしまう。
●年季が入りすぎた電気ポット。加熱時に異臭。後日、新品を寄付。
●以前、日本人女性が片付けてくれたが、本の在り処がわからなくなり大迷惑。以来、誰にも片付けさせないとのこと。
●普段はひっきりなしに訪れる信者からの差し入れを食しているが、スパイスは苦手。本心は、日本の味が恋しい。
●弟子の竜亀さんに「白菜漬けなどが喜ばれる」と聞いていたが、白菜を漬けるのが間に合わずサラダ状態を持参。硬いと不評。ぬか漬けも硬いと不評。梅干しは好きじゃない。それでも、徐々にしんなりしていった白菜を、3日間に亘り、日本米と共にもりもり召し上がった。
●わたしも一緒に、朝ごはんをいただく。
●腰痛があるとお聞きしていたので、アーユルヴェーダのオイルを持参。マッサージをして差し上げる。これはかなり効いた様子で、痛みが軽減して楽になったと喜ばれる。
●7時に来訪してから、9時半に出発するまでの2時間半、佐々井上人と、お話をする。今回は取材ではない。しかし、何度も尋ねられたであろう質問をするのは失礼だ。佐々井氏に関する記事や書籍には、目を通してきた。それを踏まえての、質問や思いなどをお話する。
●インドラ寺院から徒歩5分ほどのところにあるインド仏教協会に隣接したゲストハウス
●お弟子さんはじめ、日本からの来訪者が滞在。こちらは小綺麗な印象だ
●自動車は寄進されたTOYOTAのINNOVAと、この車の2台。移動が多いので、ガソリン代が高くつくとのこと
●9時半ごろ、インドラ寺から車で数分の公民館のような場所へ。日頃、仏教の勉強をしている子供たちに修了証を渡す式典に参加
●人々に歓迎される佐々井上人
●講話、授与式を経て、記念撮影
●仏教徒の女性たちは、「ハレの日」に白っぽいサリーを着用するとのこと
★4月29日午後:マンセル遺跡界隈へ
昼頃、一旦ホテルへ戻り、ランチをすませた後、ホテルで車をレンタルして、再びインドラ寺付近のゲストハウスへ。最初は一人でマンセル遺跡を見に行く予定だったのだが、竜亀さんがご案内してくださるというので、ありがたくご同行をお願いする。
竜亀さんによると、佐々井上人は、普段、来訪者の方を自らご案内なさるのだという。今日は別のご予定が入っていらしたので、竜亀さんに託された様子。最初は自分で行けるだろうと思っていたが、行ってみてはじめて、ここは案内してくださる人がいないとたどり着けないし、大切なポイントを見落としてしまうことを実感した。
竜亀さんが日本からいらしている時期に来訪できたことは、本当に幸運であった。
[Nagpur 03] From Instagram
ナーグプル市街から北へ1時間あまり。竜亀さんに案内していただき、佐々井秀嶺上人が発掘を指揮してきたマンセル遺跡へ赴く。
界隈の、佐々井上人ゆかりの場所に立ち寄りつつ、南天鉄塔の在り処とされるマンセル遺跡へ。
「南天鉄塔」とは、大乗仏教の祖である「龍樹(ナーガルジュナ)」が伝授した仏の教えの真髄を納めた仏塔のこと。
三蔵法師らによって、存在は伝えられてきたというが、その場所は不明だった。
昨今の調査により、このマンセル遺跡が南天鉄塔である可能性が高いとされている。
しかしながら、諸々の事情で発掘は中途のまま。
異教徒らによる破壊行為もあり、発掘された石像は蓋が被せられていた。
隙間から覗いた足元の、そのたくましさ!
全容を、見たい。
ナーグプル。インドの中心点。引き寄せられた理由が、肌身に感じられる。
まずは、日本の篤志家(有方静恵さん)からの寄付金で建設したという老人ホームに立ち寄る。なぜか英国人男性も滞在。心の平穏を求めてここにたどり着いたとのこと。
ついで訪れた文殊師利菩薩大寺。ここは、佐々井上人のマンセル遺跡界隈における拠点でもある。
★4月29日午後:そしてついには、マンセル遺跡へ!
文殊師利菩薩大寺の裏手、小高い丘を登った場所に、マンセル遺跡はあった。
佐々井上人は、龍樹の霊告に従い、ナーグプルへ赴き、この地で暮らし始め、仏教の布教に努めてきた。それと同時に、お告げにあった「南天鉄塔」の所在を見出すべく、界隈を調査。ここだと思われる土地を購入して発掘調査を開始したという。
インドは仏教発祥の地である。
廃れた時代が長かったとはいえ、紀元前数百年の間は、仏教徒に改宗したアショカ王が、国教を仏教と定めた時期もあるなど、仏教はインド全土で信仰されていた。
その名残は、アジャンタやエローラなど、世界遺産になっている有名な遺跡にも見られる。
今回、インドの仏教を調べるようになって知ったことであるが、南インドのアンドラ・プラデーシュ州にはまた、随所に仏教遺跡が残されているのだという。ツーリストが赴くのは、ブッダが悟りを開いたとされる北インドのブッダガヤなど、仏教の聖地が主であるが、このマンセル遺跡を含め、1500年以上を遡る遺跡が、インドの随所に眠っているようだ。
前述の通り、仏教の遺跡がヒンドゥー教によって破壊されたり、あるいは仏教寺院、仏教遺跡、仏陀の彫像などがヒンドゥー教の聖像に変換され、仏教徒の礼拝が禁じられたりした歴史的背景があることから、世に知れ渡ることがないまま、今日に至っていると思われる。
1500年以上前に建造されているこの僧院のレンガによる基礎は、現在とは異なりコンクリートの繋ぎがなく、びっしりと強固に積み重ねられているという。よく見ると確かにそうだ。
僧院跡から少し歩いたところに、南天鉄塔だったとされる場所があった。
蓮池を見下ろす高台。清澄な空気に包まれている。日没まで、ここに座っていたいくらいだった。
この南天鉄塔は、予算の都合など諸般の事情で、現在、発掘調査が頓挫しているという。一時期は、仏像などの彫像を掘り出していたとのことだが、管理の問題、加えて異教徒による破壊行為などがあり、現在は警備員を雇って現状を維持しているだけの状態だという。
この遺跡に関する書籍も購入したので、近々読み、見識を深めたいと思っている。
去り際、発掘途中だという箇所に、カヴァーがかけられているのが気になって、のぞいてみることにした。
幸い、壁面が、半透明の薄汚れたプラスチックのパネルのようなもので覆われており、中がぼんやり見える。一隅が、すこしクリアだったので、背伸びをして覗き込むように見たところ……。
「出してくれ!」
という声が、聞こえてくるようだった。
いや、
「出しなさい!」
という声か。
もう、見なかった過去には戻れない。
たとえ、微力でも、なにかお手伝いをしなければ……との思いが湧き上がった。
マンセル遺跡の衝撃を抱え、混乱した気持ちのまま、「南天竜宮城 竜樹連峰 竜樹菩薩大寺」へ。 ここはマンセル遺跡から更に東へ進んだ場所にある、龍樹連峰の麓にある。
竜樹菩薩大寺の入り口からは、振り返れば龍樹連峰が見える。中ほどに寺院が見える。今回、ここに登る時間はなかったのであるが、次回は必ず登りたい。
Google Mapで界隈を見てみた。左側がマンセル遺跡。右側が龍樹連峰。
上記地図の左の部分を拡大。右の赤い印が僧院跡。湖に近い辺りに南天鉄塔があり、そこから左手に下ったところに文殊師利菩薩大寺が見える。
こちらは右の部分を拡大。まさにナーグ(龍、もしくは蛇)のような形状の連峰がくっきりと浮かび上がっている。右端のヒンズー教寺院(ナーガルジュナテンプル)と書かれているところが、ナーガルジュナ、すなわち龍樹ゆかりの場所だという。
その南の「仏教寺院」と書かれているところが、竜樹菩薩大寺だ。
こんなすべてを、佐々井上人が、こつこつと、築き上げてきたのかと思うと、ただただ、畏敬の念がこみ上げてくる。
なんという、ありがたき1日だったことだろう。夕暮れの田舎道を走りながら、まとまらぬ気持ちで、竜亀さんとお話をしつつ、帰路に就いたのだった。
★4月30日(月)仏陀聖誕祭。佐々井上人に密着行動させていただく
●「明日は5時集合だ。来なさい」と言っていただいたので、遅れぬよう4時半に到着。満月の朝。
(1) インドラ地区の広場にて仏教式典
●式典は近所の広場にて。すでに式典の準備は進められている。
●6時に式典開始。仏陀とアンベードカルの肖像に読経、儀礼。
(2) インドラ寺院での儀礼とシュプレヒコール
●拠点のインドラ寺院に戻り、伽藍の仏像に花輪を捧げ、儀礼とシュプレヒコール
●インドラ寺院の外にあるアンベードカル像にも花輪を捧げ、再びシュプレヒコール
●一旦、部屋に戻って休憩。背中&腰をマッサージ。
●再び日本米を炊き、白菜漬けもどきを食す。結構しっかりと召し上がる。
(3) アンベードカル憲法スクエアでの儀礼とシュプレヒコール
●日が昇ると気温がたちまち上昇。43〜44℃の暑さ
●お弟子の僧侶らを従えて、市街中心部の憲法広場へ
●アンベードカルが不可触民の使用権を獲得した貯水池のレリーフ
●アンベードカルの像に花輪を捧げ、シュプレヒコール
(4) 仏塔ディークシャ・ブーミ(アンベードカル改宗地)での儀礼
●ディークシャ・ブーミーは、1956年10月14日、アンベードカルが30万人とも50万人とも言われる不可触民と仏教に改宗、仏教復興運動を創始した場所。佐々井上人も毎年ここで改宗式を行っている
●入って右手に、スリランカからもたらされた印度菩提樹 Bodhi Tree
●ストゥーパ(仏塔)はアジア最大
●外の像、内部の祭壇、庭の菩提樹にて、それぞれ儀礼とシュプレヒコール
(5) 空港アンベードカル像での儀礼とシュプレヒコール
●空港名は、Dr. Babasaheb Ambedkar Nagpur International Airport
●かつては小さな銅像しかなかったが、佐々井上人が交渉して大きいものが据えられた
●炎天下のもと、石の床は熱せられて熱く、裸足になると火傷をするような状態
●食堂で軽食とチャイ。佐々井上人に、わたしが支払うよう促される(佐々井上人からの、わたしに対する気遣いだとも思われた。わたしが同行したことにより、最後部座席は3人のお弟子さんがすし詰め状態。暑い最中、実はとても、申し訳なかった)
●坂田への呼びかけが「おい、女!」から、「美穂!」を経て、一瞬「あねごさん」に
[Nagpur 05] From Instagram
インドの中心で、ジャイ・ビームを叫ぶ。
ナーグプルは、英国統治時代、「インドの中心点」と定められた場所。
市街中心部には、「ゼロ・マイル・ストーン」と呼ばれる石碑が立っている。
まだ満月が煌煌と輝く午前5時から、じりじりと日差しに照りつけられる11時半まで、佐々井秀嶺上人一行に、お伴させていただく。
佐々井上人の活動拠点であるインドーラ寺院を起点に、アンベードカルが晩年、ダリットの人々と仏教に集団改宗したディークシャー・ブーミや、空港近くのアンベードカル像など計5カ所。
灼熱の午後は休憩を挟んで、また夕方から夜にかけて、4カ所を行脚されるという。
82歳。
圧倒されるばかり。
(6) ナーグプル市街北部の村で儀礼
●昼間は猛暑なので休憩。午後4時より再び行脚開始
●ナーグプル北部の村で、仏像の除幕式に参加。村人、大歓迎
●坂田も日本人ということで、非常に歓迎され、花輪などいただく
(7) ナーグプル北部郊外の村での儀礼
●夕暮れのハイウェイを経由して、北部郊外の村へ。村人、大歓迎
●仏陀聖誕祭のお祭りに参加。山車のパレードが来るのを待つが時間を大幅に過ぎても来ず
●坂田は近所のお宅でお手洗いを借りたり、チャイをいただいたり、折り紙を教えたりする
●次の訪問予定があるので、待たずに儀礼開始
(8) マンセル遺跡に近いラムテックの村で儀礼
●とっぷりと日は暮れ、満月の光だけが照る中、田舎道を走って村へ
●アンベートカル像の除幕式に参加。村人総出で賑やか。食事の準備
●子供達はみな、英語が堪能。物怖じせず利発な印象。セルフィーの嵐
●司会の若い女性も「今時風」。自信に満ちた若い世代に明るい未来が見える
●儀礼のあとは、大音響でボリウッドミュージック。踊るに違いない
●ただ、同行しているだけなのに疲労困憊。佐々井上人のエネルギーに感嘆
(9) マンセル遺跡そばの佐々井上人の拠点、文殊師利菩薩大寺で休息、挨拶
●長い1日の最終地点。ここでは特設ステージが設けられ、村人たちが娯楽を楽しんでいる
●佐々井上人も簡単にご挨拶。一行、ここで食事を勧められるがインド人僧侶らのみ食す
●帰路、大渋滞にはまる。車の仏旗を見た信者が、車を降りて佐々井上人に挨拶
●遠回りなのに、坂田をホテルまで送ってくださる。別れを告げる
[Nagpur 06] From Instagram
昨日は、夜明けから深夜まで、本当に稀有な時間を過ごした。
ホテルに戻ってからは、シャワーを浴びて、まさに泥のように眠った。
身体の疲れもさることながら、頭も心も大混沌の極みだった。
ふとした瞬間、絶望的なほどに、心細くなる徹底的な異郷の中で。
何度も瀕死の目に遭いながら、50年もの長い歳月。
佐々井秀嶺氏は、地を這うように、人々を鼓舞しつつ、叱咤しつつ、笑いつつ、導き、救いの手を差し伸べながら、共に生きている。
なんという精神力と体力、食らいつき続ける衝動の連続だろう。
最初は名前を覚えてもらえず、「おい、おんな!」と、だいぶ雑に呼ばれていたが、「美しいに稲穂の穂で美穂です!」と主張したら、「美穂!」と呼んでもらえ、昨日の法要の行事の途中で、みなさんにチャイやスナックをごちそうさせていただいたら、その直後だけ、「あねごさん」「美穂さん」に、一時昇格。
とてつもない強さの中にある、繊細な思いやり、濃やかな心遣い。機知に富んだ言葉の数々。心根の片鱗を拝見した。
ありがとうございました。
It was extremely rich 2 days in Nagpur. Just a few weeks ago, I ordered books related to Surai Sasai from Amazon.jp and read them. While I was reading, I strongly felt that I must go to Nagpur to meet him. Despite his age of 82, he travels frequently, but fortunately he was there before and after the Buddha Purnima. He lives in India for over 50 years. His accomplishment is beyond description. I am just deeply grateful for what I could see with my own eyes a part of his devotion.
https://www.japantimes.co.jp/…/surai-sasai-buddhist-monk-…/…
3泊のナーグプル滞在を経て、今日、バンガロールに帰る。
今朝、初めてホテルで朝食をとった。選ぶのに迷うほどの、あれこれと並んだブッフェを眺めながら。
今に始まったことではない。しかし、自分の中の、価値観とか、経済観念とか、そういうものの軸が、ぐらぐらと揺らぐ。
夜中、疲労困憊で戻って来ても、熱いシャワーを浴びられる。心地のよいベッドで、全身を伸ばして、ぐっすりと眠られる。
わたしは、わたしなりに、と、軸を正しながら、心を鎮める。
★ ★ ★
今回のナーグプル。
佐々井上人の本をまだ読み終える前から、いくつものキーワードに心を射抜かれて、ほぼ発作的に「行かねば!」と思い、問い合わせ、予定を決めた。
それから更に、本を読み、動画を見て、なるたけあらかじめの情報を得て、現地へ赴いた。彼の活動をそばで拝見したいと思った。
幸いにも2日間、予想以上の、願ってもいない時間を過ごすことができた。
初日は午前7時集合。昨日は、午前5時集合でホテルに戻ったのは深夜。2日間とはいえ、4日分くらいの密度であった。
この1年半あまり、日本とナーグプルを行き来されているお弟子の竜亀さんが、わたしが訪れる2日ほど前にこちらへいらしていたのも、幸運なことであった。
初日、マンセル遺跡を案内していただいたり、佐々井上人のお話を聞かせていただいたりと、本当にありがたかった。
インドに50年。
筆舌に尽くしがたい、波乱の人生を送られている佐々井上人。
わたしは書き手として、自分の経験を通して、たとえ微力でも、多くの人にお伝えしたい。
今はただ、脳みそと心の整理がつかず、気持ちが混沌としているが、少しずつ丁寧に、整理しようと思う。
★ナーグプルでの、濃密な2日間を経てのち……バンガロールにて。
日本のアマゾンから本が届いた。注文から1週間後。早い。便利な世の中である。
「じっくり読む」というよりは、「資料として情報を得る」という事典的な性質の本もあるので、個人的には、電子書籍よりも印刷物としての本が好ましい。
というか、未だ電子書籍を試したことはないのだが。
一気に詰め込むのは無理なので、細く長く、知識を蓄えるべく、着実に進めよう。
歴史とは、書き手や語り手の立場や見方、考え方によって、どのような風にも描かれる、過去でありながら、いつまでも変容し続ける生き物のようなものだ、とわたしは思っている。
だからこそ、何らかの判断を迫られたときには、なるたけ異なる視点からの描写に触れなければ、とも思っている。
浅薄な知識と情報に翻弄されて白黒つけるのは危険なことだ。
それにしても。
同じ出来事をガンディ視点とアンベードカル視点とで眺めると、両者がこれほど著しく異なるとは……。
ガンディを学ぶとき、アンベードカルについても「セット」で同時期に勉強すべきだったと反省しつつ。
歴史の広さ深さを思うと、人間が同じ失敗を繰り返すのも仕方がないとさえ、思えてくる。
煮詰まって、一旦シャワーを浴びて気分を入れ替える、夏の午後。
2011年のインド国勢調査によると、仏教徒の比率は、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、スィク教徒に次いで5位の0.7%。
翻ってナーグプル市の仏教徒の比率は、ヒンドゥー教徒に次いで15.57%。
さらに識字率は、インド全国約73%に対し、ナーグプル市は約92%。
アンベードカルが、約30万人(50万人とも言われる)ダリット、即ち不可触民とともに仏教改宗式を行ったのは1956年のこと。
それから十余年後。
ナーグプルの土を踏み、以来、住まうこと50年。
アンベードカルの遺志を引き継いだ佐々井秀嶺によって仏教徒に改宗した人々は、100万人を超えるという。
この数字、佐々井上人にお会いした時に、直接、お尋ねしたのだが、実際にはもっと多いのではないかと察せられる。
国勢調査の結果は、佐々井氏の尽力と貢献の断片を物語っているように思う。
センサス(国勢調査)の数字には、不可解なところも多いが、このナーグプル市の数字には、ただ、感嘆するばかり。
【第1回『インドの中心〈ナーグプル〉で仏教を叫ぶ』勉強会実施】
昨日は、ミューズ・クリエイションの活動日、STUDIO MUSEをオープン。いつものお茶の時間を早めにして、3時半頃から勉強会を行った。
旅から戻って10日足らず、日本から取り寄せた資料もまだ読み込めておらず、わたし自身がまだ勉強中なのだが、せめて旅の経験だけでも早いうちに多くの人にシェアできればと思い、プレゼンテーションの準備をしている。
情報はまだまだ中途段階にもかかわらず、パワーポイント、すでに60ページ分。1時間程度で終わらせるつもりが2時間も語った。みなさんが興味を持って聞いてくれたので、ついつい話し込んだ。これで資料がもっと整えば、いったいどれほど語ってしまえるのか懸念されるほどだ。
この話題を理解するためには、ある程度の予備知識が必要。その上、佐々井上人の活動の幅が広いので、それらもわかりやすく説明せねばならない。というわけで、現在はおおまかに、以下のような流れで構成している。
1. 仏教の概要(創始/宗派/歴史/教え)
2. 日本における仏教
3. インドにおける仏教
4. アンベードカルとは?(出自/業績・功績/仏教との関わり)
5. ナーグプルという都市の概要(インドの中心点/アンベードカル仏教改宗の地/佐々井氏拠点)
6. 佐々井秀嶺とは?(年譜/ナーグプルへ渡った経緯/龍樹の霊告と南天鉄塔/活動・業績・功績)
7. 佐々井秀嶺の具体的な活動(仏教布教、改宗/社会貢献/シルプル遺跡、マンセル遺跡の発掘調査/ブッダガヤ大菩薩寺の管理権返還運動/インド政府少数派委員会代表など)
8. 坂田@ナーグプル:ご同行した2日間の具体的な体験談(仏陀聖誕祭の1日とマンセル遺跡界隈の見学)
9. 坂田がナーグプル旅をするに至った経緯(バックグラウンド)
10. 今後、なにを行うべきか
ちなみにわたしは仏教について、まったく明るくなかった。ゆえに今、「絶賛勉強中」である。
明日の午後も2時から、ミューズ・クリエイションのチーム・エキスパッツ向けに勉強会を行う。ゆえに今日はこれからまた数時間、資料づくりにかかる予定だ。メンバー以外の方も、ご興味があれば、明日の午後、どうぞご来訪ください。
【第2回『インドの中心〈ナーグプル〉で仏教を叫ぶ』勉強会実施】
金曜日に引き続き、本日午後、ミューズ・クリエイションのチーム・エキスパッツのメンバー含む5名を対象に、再び勉強会。
昨日、頑張って資料を整えたので、今日はハンドアウトを準備できた。
無論、まだまだ読むべき資料はたっぷりで、自宅にある仏教関連の書籍を発掘してみれば、これまたあれこれと出てきてしまい、課題は山積。
にもかかわらず、3時間以上も語りつつ、ときに語り合いつつの濃厚。
なにしろ、仏教やインドの不可触民の歴史、アンベードカルのことを知らなければ、佐々井上人の功績もわからない。ゆえに、説明すべきがあれこれとあるのだ。
ともあれ、参加者は敢えて日曜の午後、来てくれるだけあり、かなり興味津々に聞いてくれた。
ナーグプルツアーは、必ず実施しようと思う。
* * *
セミナーのあとは、やはりチーム・エキスパッツのメンバーでもあった男子の送別会に、勉強会参加メンバーともども参加。
なんだかもう、支離滅裂にディープな午後。楽しかった。新天地でも、Good luck!
* * *
『インドの中心〈ナーグプル〉で仏教を叫ぶ』勉強会については、坂田は伝道者となり、しばしば実施いたします。
関心のある方、どうぞお声をおかけください。
なお次回からは受講費を徴収し、それを佐々井さんの活動資金に寄付します。
【追記】2018年11月12日 一時帰国の日本で、佐々井上人とお会いした時の記録。