1945年8月15日の日本の終戦と、1947年8月15日のインド独立との関係について、過去記した記事を、ここに転載したいと思う。改めて加筆修正しようかと思ったが、かなり手間なので、ひとり「NAVERまとめ」ページを作成することにした。リンクをはらずに、そのまま転載したので、長大な記録となったが、ぜひ目を通していただければと思う。
★MUSE CREATIONメンバー向け通信メールの長い序文
(2017年8月16日送信)
◯昨日8月15日は、インドの独立記念日であり、日本の終戦記念日でした。日本の敗戦からちょうど2年後の同じ日にインドが長きに亘る英国統治から「印パ分離独立」を果たしたことは、わたしはずっと偶然だと思っていましたし、今でも多分、ほとんどの人がそう思っていると思います。3年前、わたしはある書物を通して、それが偶然ではなく意図されたことを知り、強い衝撃を受けました。以来、機会があるごとに、セミナーで語ったり、記事にしたりしていますが、今でも知る人は極めて少ないと思います。
◯その書物とは、“INDIA AFTER GANDHI(インド現代史)”です。著者のラマチャンドラ・グハ氏とは、ちょうど10年前の2007年、とあるパーティお会いしました。そのことをブログに書いたところ、同書を日本語訳された佐藤宏氏がたまたま見つけ、「日本語訳の本を発行したのでお読みください」とメールをくれたのでした。英語ではとても読む気になれない分厚い本ですが、日本語ならばと日本のアマゾンで取り寄せて、上下巻二冊を手にしました。
◯イギリス領インド帝国最後の総督マウントバッテン卿は、アジア戦線で打ちのめされた日本軍に対して非常に強い怨念を持っていました。彼がマハトマ・ガンディやネルー、パテルなど、国民会議派(コングレス)の面々とインド独立のタイミングを検討していたころ、周囲は、8月15日ではまだ準備が整わないと反論しました。しかし、マウントバッテン卿は聞き入れませんでした。彼にとって、日本降伏の日はめでたい日であり、そこに自身が関わったインド独立という「ハレの日」を、ぶつけてきたわけです。
◯巨大国家誕生の準備が整っていなかったにもかかわらず、独立を急いだことにより、この国がその後、どのような悲劇に見舞われたかを知るにつけ、一人の人間が及ぼす影響の大きさを思います。3年前のブログに詳細を記していますので、ご興味のある方は、ぜひご一読を。インドと日本の繋がりの断片を、知ることができるかと思います。インドに暮らすにあたっては、両国の歴史の断片だけでも、知っておくに越したことはないと思います。ベン・キングズレー主演の映画「GANDHI」もお勧めします。
◯前置きが長くなりますがもう一つ。ある一定年齢を超えた世代のインド人が非常に日本人に対して好意的ですが、その理由の一つとして、第二次世界大戦での出来事を看過することはできません。みなさんも、年配のインド人が「トウキョウ」「キョウト」よりも先に、「ヒロシマ」「ナガサキ」と、口にしたことを聞いたことはあるかと思います。独立運動家スバス・チャンドラ・ボース率いるインド独立軍と、大日本帝国軍の連携によって進められたインパール作戦。しかしその作戦は、史上最悪の杜撰な作戦として戦争史上に残されています。
◯わたしは、インド移住当初から、インパール作戦の舞台となった、北東インドのナガランド州コヒマ、マニプール州インパールを訪れたいと思っていました。これまで機を逃してきましたが、ついには今年の11月、一人旅を決行する予定です(※注:諸事情につき行けなかった)。それもあって、今、少しずつ関連書物を読むなどしているのですが、今年は日本のメディアでも、インパール作戦を取り上げているのをよく目にします。先日はクーリエ・ジャポンが特集を組んでいました。そして昨日は、NHKスペシャルが『戦慄の記録 インパール』を放送していました。先ほどネットで検索したら、動画がアップされていたので、シェアします。わたしもこれから、じっくり見ようと思っているところです。多分、動画はすぐに削除されると思いますので、興味のある方は、早めにご覧になるといいかと思います。インパール作戦もまた、牟田口中将という一人の人間の不条理な判断が、何万人もの兵士の命を奪う結果となりました。
◯わたしのキャリアのスタートは、海外旅行ガイドブックの編集者でした。初めての海外取材先は1988年の台湾。戒厳令が解けた直後の当時の台北は、日本統治時代の面影が街の随所に残っていました。日清戦争が終わった1895年から1945年までの50年間、日本に統治されていた台湾。その50年間に生まれ育った人たちは、「日本人」として日本語を話し、日本の教育を受けていました。その様子を目の当たりにして、強い衝撃を受けました。世界には、知らないではすまされないことが、たくさんある、とも思いました。初めての海外取材での経験を契機に、学校で学んできた以外の世界の歴史を学ぶことの重要性を、未だ実感しています。
◯わたしたちは、故国を離れて異郷に暮らしています。歴史に関心があるないに関わらず、この国に暮らすからには、ほんのわずかでも、この国と母国との関係を頭に入れておくことが大切だと思います。善し悪しを問うのではなく、何が起こったかを知っておくことこそ、まずは大切なことだと思われます。「国民感情」が、暮らしにもビジネスにも、少なからず影響を与えることは、中国や韓国と日本の関係ひとつをとっても、明らかです。無論、歴史は、書き手の立場や考え方によって印象が操作され、公正な目で見つめることは、非常に困難なので、ジャッジする必要はないと思います。
★印パ独立前夜の様子を、映画『英国総督 最後の家』で知る
(2017年12月24日のインスタグラムより)
ラジャスターン旅から戻って久しぶりにのんびりの週末。先日購入していたDVD(という言葉が古く感じる)を夫と鑑賞。公開前のトレイラーを見て気になっていたものの、すっかり忘れていたところ、たまたま旅の前に友人2名からこの話題が出て、見たくなったのだ。
『VICEROY’S HOUSE』。邦題は『英国総督 最後の家』。この総督とは、英領インド最後の総督、マウントバッテンのことだ。
実際のVICEROY’S HOUSEはデリーにあったが、映画は、我々が先日滞在したジョードプルの「ウメイド・バワン・パレス」の内部にて撮影されていた。ブーゲンビリアあふれる庭で、わたしがセルフィーを撮った場所を、ガンディが歩んでくるシーンなどもあり、より一層、映像に惹きつけられた。
マウントバッテンは1947年2月に家族とともにインドに赴任。任務は「1948年6月までにインドを独立させること」であった。しかし、彼は着任当初から、独立を急いでいた。「ひとつのインド」での独立を目指すコングレス(国民会議派)のネルーやパテル、そしてガンディ、その他の首脳、そして彼の妻ですら、「焦るべきではない」と提言していたにも関わらず。
彼が「ハレの日」を1947年の8月15日にこだわったのは、ビルマ戦線などで打ちのめされ忌み嫌っていた日本が敗戦した日に重ね合わせたからだったということが、『インド現代史』 ("INDIA AFTER GANDHI"の日本語訳)には記されている。
インド・パキスタン分離独立にまつわる映画では、ベン・キングズレー主演の『ガンディ』が非常に勉強になるのだが、この映画ではまた、異なる側面からの独立前夜が見て取れる。
この映画における主要人物は、マウントバッテン、ネルー(独立直後の首相)、そしてパキスタンの建国を頑なに主張し続けたジンナーであった。
ガンディの登場は少なく、パテル(独立後の副首相で、統一インドの実現のため、全国の藩王国を奔走したネゴシエイター)の存在感もほとんどない。
映画は、VICEROY’S HOUSEで働く従業員らのライフを同時に描いており、異教徒間の恋愛も軸になっている。それまで共に生きていたヒンドゥ教徒とイスラム教徒とが、離れて暮らすことになるに際しての悲劇も描かれており、胸に迫るシーンが多い。
我が夫アルヴィンドにとっては、あまりにも身近な映画だけに、見ていてかなり憂鬱そうだった。
1947年の印パ独立に際しては、1400万人もの人々が、西へ東へと大移動した。人類史上最大の大移動、である。そしてその間に起こった諍いで命を落とした人は、百万人を上回るという。
コングレスの政治家であり実業家であったアルヴィンドの母方の祖父ら一家も、当時は、ラホールからデリーまで移動してきた「難民」であった。
この写真。インディラ・ガンディ首相(ネルー首相の娘)と一緒に写っているのが、夫の祖父である。
祖父は若いころ、フリーダム・ファイターだったことから、ガンディらと同様に、投獄されていた時期もあったという。祖父は独立後、北インドで製糖工場と鉄鋼会社を立ち上げた。その会社は現在、夫の従兄弟が受け継いでいる。
ちなみにその祖父の父親、つまりアルヴィンドの曽祖父は、ラホールで弁護士をしていた。かつて検事だったジンナーとは、宗教の聖地を巡る争いの法廷で敵対したことがあるという。結果はアルヴィンドの曽祖父側の勝利だったらしい。
歴史的な出来事が、現在に連なっている。夫の家族や親戚の背景に、密接に絡み合っているからなおのこと、身近に思えてならない。
最後の最後まで印パ分離独立を叫んだジンナー(写真右端)。彼がもし、ひとつのインドの独立を容認していたなら、今、世界はどうなっていただろう。そんな夢想をするのも虚し。わずか数名の人間が、良くも悪くも、歴史を大きく塗り替えていくことのすさまじさ。
印パ戦争が繰り返され、テロリストの攻撃は尽きず、カシミールの印パ国境は未だに不穏で、負の遺産は尽きず引き継がれ続けている。
その一方で、この巨大な国が、ひとつの国家として、70年以上も存続し続けていることを、「奇跡のようだ」と、いつものことながら、思わずにはいられない。
★モディ政権発足直前、フリーペーパー『シバンス』に寄稿した記事
(2014年4月)
皆さんがこの記事を目にするころは、すでにインド総選挙(下院選)の結果が出ているかもしれない。有権者8億人超、世界最大の国政選挙の投票は、4月7日から約5週間、地方ごとに9回にわけて実施される。この選挙では、BJP(インド人民党)が、コングレス(インド国民会議派)を破り、10年ぶりに政権を握る可能性が高いことから、今後のインドの趨勢に大きな影響を与える総選挙として、海外メディアの関心も集まっている。そこで今回は、インドの二大政党、特にコングレスの歴史をたどりつつ、インドの政治的背景を紐解きたい。
◎コングレスの歴史は、英国統治時代に遡る
通称「コングレス」と呼ばれるインド国民会議派 (Indian National Congress) が産声を上げたのは、インドが英国統治下にあった1885年。当初は、インド総督下で「増えつつある反英勢力の安全弁」としての役割を果たす存在として誕生したが、徐々にインドの自治独立を目指す活動が強まっていった。
初代首相のジャワハルラール・ネルー、副首相のサルダール・パテール、日本とも縁のある独立運動家のスバス・チャンドラ・ボース、パキスタン建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナー、そして後に加わったマハトマ・ガンディ(本名はモハンダス・カラムチャンド・ガンディ)は、独立運動に関わるコングレスの主要なメンバーだった。
◎「一つのインド」は実現せず、印パ分離独立
1947年のインド独立に至る道のりは、実に険しい。 数百年に及んだ英国によるインド亜大陸の統治が終焉しようとしていたとき、統一インドの実現・維持を、誰もが不可能だと予測したという。そもそも英国統治以前、インドという一つの国が存在していたわけではなかった。この亜大陸には、500を優に超える大小の藩王国が共存していた。生活文化や主要な宗教の異なる無数の藩が、一つとなって協調することなど、夢物語のようでもあったのだ。
しかしガンディは、統一インドの実現を願い、長きに亘り尽力した。藩王らの説得に際しては、パテールの巧みな交渉が功を奏した。しかし結果的にガンディは、イスラム教指導者のジンナーからの同意を得られなかった。ジンナーは、多数派であるヒンドゥー教の勢力に制圧されることを懸念し、パキスタンの分離を望んだのだ。インド最後の総督マウントバッテンも、印パ分離独立に合意していた。
分離独立にあたり、イスラム教徒が多いパンジャブ地方とベンガル地方が分断されることになった。現パキスタンは「西パキスタン」として、 現バングラデシュは、西パキスタンから1,800kmも離れた飛び地国家「東パキスタン」として独立したのだ。なお、第三次印パ戦争後の1971年、 東パキスタンはバングラデシュとして独立している。
この印パ間の国境をして、インドの人々は「パーティション (Pertition)」と呼ぶ。この分割線が国民に公表されたのは、1947年8月15日独立直後のことだった。故郷の分断を突きつけられた人々は、混乱に陥った。ヒンドゥー、イスラム教徒だけでなく、聖地を分断されたスィク教徒にとっても、受け入れ難い現実だった。
イスラム教徒は東西パキスタン側に、ヒンドゥー及びスィク教徒はインド側に、徒歩や列車で強制移動させられる「大移住」が展開された。その数1,000万人以上。西へ東へと移動する大きな二つの隊列は、時に衝突し暴動が発生。各地で虐殺が起こり、死者は100万人を超えたとされる。
なお周知の通り、カシミール地方の領有を巡っては、未だに印パ間の軋轢が残されている。サティヤグラハ(真理の力)をスローガンに、「非暴力」を訴えて続けてきたガンディにとって、分離独立は悲劇だった。独立の翌年、ガンディは、彼をイスラム教徒に寛大すぎるとみるヒンドゥー原理主義者によって暗殺された。
◎インドの独立記念日と、日本の終戦記念日
インドには、国家を祝する日として、1月26日の共和国記念日と8月15日の独立記念日がある。独立前の1930年1月26日、コングレスはこの日をインドの独立を支持する全国的な集会日に決定。 以来、 コングレスの支持者は、1月26日を独立記念日として祝賀してきた。一方の8月15日。日本の終戦記念日と同じ日なのは偶然ではない。
インド最後の総督マウントバッテンが、8月15日を英国からの権力移譲の日と決めたのには理由がある。第二次世界大戦における連合軍に対する日本降伏2周年記念の日に、敢えて重ねたのだ。日本人としては、インドとの数奇な縁に複雑な思いを抱かずにはいられない。
◎コングレスを牛耳るネルー・ガンディ王朝
1947年の独立以来、一時期を除き政権を握り続けてきたコングレス。初代ジャワハルラール・ネルー首相から続く一族をして「ネルー・ガンディ王朝」と呼ばれるが、このガンディ家とマハトマ・ガンディに血縁はない。ネルーの娘、インディラの結婚相手がフェロズ・ガンディであったことから、彼女はインディラ・ガンディと名乗ることになった。
しかしこの史実には裏がある。フェロズはそもそも「フェロズ・カーン」という名前だったのを、ネルーが敢えて「ガンディ」に改姓させたというのだ。その理由に関しては諸説あるが、いずれにせよ、奇妙かつ紛らわしい話ではある。
インディラ・ガンディはやがて首相の座に就くが、スィク教過激派を排除すべく「ブルースター作戦」を実行した結果、1984年、スィク教徒に暗殺される。彼女の死後、首相の座に就いたのは、政治に関心を持っていなかった長男のラジーヴ・ガンディであった。本来、次男のサンジャイが後継者と目されていたが、飛行機事故で他界したことからラジーヴが政界入りしていた。
彼は政治スキャンダルが原因で1989年の選挙で敗北したが、1991年、スリランカにおけるLTTE(タミル・イーラム解放のトラ)闘争に介入した復讐として、女性自爆者により暗殺される。ラジーヴ・ガンディの妻は、英国留学時代に出会ったイタリア人女性、現在コングレスの総裁を務めているソニア・ガンディだ。彼女は総裁ではあるが、インド人ではないことなどから、マンモハン・シンが首相となった経緯がある。
◎BJPは、10年ぶりに政権を奪還するのか?
1947年の独立以来、コングレスの一党優位体制だったが、ヒンドゥ至上主義の潮流も生まれていた。1980年に発足した Bharatiya Janata Party(インド人民党)は、1998年から2004年までの6年間、ヴァジパイ首相のもと政権を握っていた。当時、インドは高度経済成長を実現、BJPは、“India Shining”をスローガンに政権維持を目指したが、経済成長から取り残された貧困層からの支持を得られなかったなどの理由から、下野するに至った。
その後、コングレス主導の連立政権下にあったこの10年。汚職まみれで私腹を肥やす政治家があふれ、インフレーションが著しい一方、経済成長率は低下、生活インフラストラクチャーの不備、子供の教育の不全、貧富の差の拡大など、社会問題は改善されないままである。この趨勢をして、今回の総選挙では、ナレンドラ・モディ率いるBJPが勝利するであろうと見られている。
BJPが優勢だと予測される理由のひとつに、対抗馬であるコングレスのラーフル・ガンディの「頼りなさ」も挙げられる。ラジーヴとソニアの息子である彼は、モディに比べて政治経験も浅い。
だが、もしBJPが勝利し、モディ首相が誕生したら、それはそれで懸念がある。グジャラート州知事である彼は、過去にイスラム教徒との大きな軋轢を生む事態を引き起こしており、彼に反発するイスラム教徒が少なくないからだ。いずれの結果にせよ、順風満帆に航海が進むとは思えぬ巨大国家インドの潮流。選挙権のない我々異邦人は、この国の行く末を、客観的に見守るしかない。
★歴史を知れば今が見える。『インド百景 2014』ブログより転載
(2014年4月)
昨日は、ミューズ・リンクスの第6回ライフスタイルセミナーを実施した。テーマは、すでに昨年2回行った入門編。インドの概要に始まり、衣食住などについてと、内容は多岐に亘る。
今回は、ここ数カ月の間に、わたし自身の知識が少々厚くなったことに加え、インドが4月7日、すなわち本日から総選挙の投票に入ることもあり、政治や政党のこと、またインド独立に関することなどについての部分に厚みを持たせるべく、資料に新情報を追加しておいたのだった。
過去に行った入門編のセミナーは、一度に20名以上の参加者を募っていた。なるたけ一度にたくさんの人に伝えたいとの思いがあってのことだった。
今回、参加希望ながらも都合がつかない方が多かったこともあり、14名に留まったが、この人数がベストであったと、終えてみて実感した。部屋の人口密度(むさ苦しくない程度)、参加者同士の自己紹介、そして飲食物の準備など、あらゆる点において「ちょうどいい感じ」だった。
今回の参加者は、企業の駐在員だけでなく、駐在員夫妻数組、母娘(駐在員家族)、日本からの出張者……と、多彩な面々。インドに対する知識はみなさんそれぞれで、大きなばらつきがあると見受けられた。
ともあれ、「老若男女問わず」「知っている人にも知らない人にも」楽しんでいただける内容を目指していることもあり、わかりやすく伝えることにつとめた。
セミナーを終えて、今回うれしかったのは、12歳、中学1年生のお嬢さんが、休憩時間を挟んだとはいえ、午後2時から6時ごろまで、延々と続く講座を、興味を持って聞いてくれたことだった。
また、セミナーの前夜にバンガロールに到着された出張者の方が、駐在員の方のアテンドで来てくださったのも、よかった。「初のインド」で一晩過ごしたあと、翌日訪れた場所が、拙宅でのセミナーというのは、自分で言うのもなんだが、ワンダフルなスタートである。
セミナー自体に感銘を受けてくださったのもうれしいことであったが、ティータイムに、ミューズ名物のカステラやタルトを召し上がりつつ
「インドで、こんなにおいしいものが食べられるなんて!」
「インドでおいしいものといえば、紅茶だけだと思ってました!」
と、感激してもらえたのも光栄であった。光栄ではあったが、「紅茶だけ?!」「インド料理はどうなんですか?!」と突っ込まずにはいられない気分でもあった。それはそれである。
ちなみに参加者14名、わたしと夫を含めて16名というのは、「カステラをほどよい大きさに切り分けるのにベストの数」という意味でも、ちょうどいい数なのである。名物カステラ、重要。
◎学ばずして、語るなかれ。と、自分に言い聞かせつつ読む。
インドとは、本当に広く深く、果てしがない。インドに何年住んでも、インド人の家族として何年過ごそうとも、自分の知り得る世界は氷山の一角である。インドに生まれ育ったインド人でさえ、インドの全容を把握し、理解することは不可能なことである。
知れば知るほど、知るべきことが沸き出て来て、それはインド移住当初の9年前から変わらない。とはいえ、書いて、話して、人に伝える仕事をしている者としては、どこかで見切りをつけながら、不確かさを心許なく思いながらも、発信せねばならない。
前回も記したが、ここ20年のインドのあらゆる事象を遡る仕事を行ったことを契機に、歴史を知ることの重要性を再認識した。特にインドが独立する前後の事柄、ガンディが行ったことをより具体的に知っておかねばと思った。
上部写真の分厚い本。これは1947年にインドが独立したころのことから、現代に至るまでがまとめられた本である。著者のラマチャンドラ・グハ氏とは、2007年、ヴィクラム・キルロスカ邸でMITの学長を招くパーティが開かれた際、お目にかかったことがあった。
その後、この本については各方面から勧められていたこともあり、夫が購入していたのだが、夫婦揃って読まずじまい。そのようなことを以前ブログに書いていたところ、同書を日本語訳した方がその記事をご覧になったとかで、メールをくださった。それは、日本語版『インド現代史』が発行されたという旨のお知らせだったが、しばらく購入する機会もなかった。ようやく数カ月前、日本のアマゾンで取り寄せて、分厚い上下巻二冊を手にしたのだった。
実はまだ、上巻の最初のあたりまでしか読めていない。なにしろ、登場人物や歴史的な背景を理解しながら読み進める必要があり、そのために、いちいちネットで検索、情報を得たりしているので進まないのだ。
とはいえ、独立前後のエピソードだけでも、十分に読みごたえがあり、特にインド独立に関わったガンディはじめ、コングレス(国民会議派)の面々についての理解が深まった。
この本を読んだ上で、夫に以前から勧められていた映画「Gandhi」(1983年)を見ることにした。オンラインショップのFlipKartで注文したら、セミナーの前日に届いたので、その夜、大急ぎで見た。
ちょうど『インド現代史』で読み終えていた時代と映画の内容が合致し、登場人物大半が理解できたうえ、以前、ガンディの伝記を読んで知ってはいたものの、リアルにイメージできていなかった彼の南アフリカにおける公民権活動についても、臨場感とともに知ることができた。ともかく、深く心を揺さぶられる、すばらしい映画だった。もっとも、ガンディ中心に描かれているので、周辺人物の人間像が非常に浅薄な印象を受けることは否めない。とはいえ、見る価値のある映画だと思う。
そして改めて思う。このインドという国が、一つの国として(厳密にはパキスタン、バングラデシュと分断されているが)独立し、今に至るまで成り立っていることが、実に奇跡的なことだということを。
この奇跡的なことが起こっている背景には、無数の命が奪われ、数えきれない「不都合」が起こったことも、決して知らずにはすまされないことではあるが。
◎広く浅く、 厚みのある資料。「知りたいこと」を見つけるために
このセミナーは、インドで暮らし働く人々を対象としている。だから、「広く浅く、時に深く」説明しながら、「何を知るべきなのか」を知るための、きっかけ作りができればと思っている。
そんなわけで、資料は厚い。パワーポイントで約100ページ。それを1枚の紙に3ページ分ずつ印刷して配布。メモのスペースを設けておき、書き込めるようにしている。
このセミナーに関しては、文字情報を入れすぎないよう、メリハリをつけている。聞き手が、「これは大切」と感じたポイントを、自らメモしておけるようにとの思いもあり。
◎8月15日にインドが独立した理由。日本との関わり。
『インド現代史』を読んだことで、コングレス(国民会議派)の母体が、イギリス統治下の1885年に結成されていたことを知った。
また1930年の1月26日に、ラホール(現パキスタンの都市)において、マハトマ・ガンディや 初代首相のネルー、初代副首相のパテール、イスラム教徒のムハンマド・アリ・ジンナーらが名を連ねるコングレスが「独立」したことも知った。ゆえに、インドの「共和国記念日」が1月26日だということも。
この本を読んで驚いたのは、インドの「独立記念日」が8月15日に制定されたその理由である。
日本の終戦記念日である8月15日とは、たまたま同じ日だったのだろうな、くらいに思っていた。しかしそうではなかったのだ。それは、インドにおける最後の総督マウントバッテン(マウントバトン)によって、敢えて定められた日だった。
そのあたりの一文を、ここに抜粋する。
1930年ののちも、会議派支持のインド人は、一月二十六日を独立記念日として祝賀した。しかし、最終的に亜大陸から退去するとき、イギリスは一九四七年の八月十五日を権力移譲の日とした。この日付は総督マウントバトン卿が、第二次大戦での連合軍に対する日本降伏二周年記念の日として選んだものであった。総督と権力の座を期待したインド人政治家たちは、一部の人々が主張したように、一九四八年一月二十六日まで待つことを望まなかった。それゆえに、独立は最終的に、ナショナリズム感情よりもむしろ、帝国の栄誉心と共鳴する日に訪れたのであった。
インドの独立記念日に、日本が敗戦した日、「帝国の栄誉心と共鳴する日」が選ばれたという奇妙な縁。なんとも言い難い思いが心をよぎる。
ちなみに独立インドの首都となったニューデリーでは、公式行事は14日の深夜から始められたという。というのも、占星術師が8月15日は凶兆の日と占ったからとされている。
◎存在感のある、夫アルヴィンドの曾祖父のこと。
先週、資料の準備をしていた日のこと、夕食時に夫とインド独立前後のころの話をした。
夫に、「あなたもこの分厚い本を読みなさいよ」と勧めたところ「読まなくても、おじいさんから当時の話は聞いているからいいよ」と言う。もちろん、それでいいわけはないのだが。
夫の祖父は、わたしとアルヴィンドが出会う半年前、1996年1月に他界している。もし今、生きてくれていたら、どれだけ興味深い話が聞けただろうと、残念でならない。
祖父は学生時代、闘争による革命を目指していたが、ガンディの「非暴力」に影響され、サティヤグラハ(真理の主張の意)の運動に参加。ガンディをはじめ他の活動家同様、投獄されたこともあるという。独立前後はコングレスに属し、政治家、実業家として活動をしていた話は聞いていた。
ちなみに祖父が行っていたビジネスは、経営危機に陥っていた砂糖会社を英国から買い取り、一時期はインド最大の製糖会社に育てたことである。インド製糖業者協会の会長を数回に亘って務めたこともあるなど、実に指導力のある人物だったようだ。その企業は現在、夫の伯父を経て、従兄弟が引き継いでいる。現在は砂糖よりも鉄鋼会社として成長しているようだ。
夫の祖父が具体的にガンディやネルーと交流があったと聞いて、俄然、インドの歴史が身近なものに思えてきた。祖父と夫の人格に、共通点が見いだせないところがさりげなく惜しいが、それはそれ。
先日もここで紹介したが、デリーで、祖父とインディラ・ガンディの写真を見つけたので、それを資料にも使った。
このスライドは、今回の総選挙で10年ぶりに政権を奪回する可能性が高いと見込まれているBJP、インド人民党についての説明だ。前述の通り、本日4月7日より、インドでは総選挙の投票が開始された。この先1カ月に亘り、各地で投票が行われる。有権者8億人超、世界最大級の総選挙だ。そんな時節柄、今回のセミナーでは二大政党の背景などについても、詳しく説明したのだった。
ちなみにインディラ・ガンディはマハトマ・ガンディとは血縁でもなんでもなく、ネルー元首相の娘である。彼女はスィク教徒によって暗殺された。彼の息子のラジーヴ・ガンディもまた、テロリスト(スリランカ拠点のタミル・イーラム解放のトラ)によって暗殺された。彼のイタリア人の妻が、ソニア・ガンディである。これら「各種テロの背景」についても、今回のセミナーでは時間をかけて語ったのだった。
さて、アルヴィンドの祖父の父親、即ち夫の曾祖父がまた、祖父を凌ぐ人物だったということを、先日の夫との会話で初めて知った。マハトマ・ガンディとは、同じコングレスに属する者同士として活動してきたイスラム教徒のムハンマド・アリ・ジンナー。彼は、インドの独立を前にして「一つのインド」を切望するガンディの要求、要望を最終的には受け入れず、印パ分離独立の結果を導くことになった人物だ。
だからといって、彼だけに問題があったのかといえば、そうではないだろうところが、歴史である。
ともあれ、「パキスタンの父」として、パキスタンでは英雄でもあるジンナー。彼はかつて、弁護士だった。そのジンナーと、やはり弁護士だった夫の曾祖父は、ラホールでのムスリム対スィク(シク)の裁判「グルダワラ」で戦ったのだという。
結果的には、ジンナーが弁護したイスラム側ではなく、「曾祖父が弁護したスィク側が勝利」したらしい。
この裁判は、アヨーダヤにおけるムスリムとヒンドゥー教徒との諍いにも相当する重要なものだというから、たいへんなものだ。歴史に夫の血縁が関わっていると思うと、過去がぐっと身近になる。
ところでセミナーにおいては、ただその人物を取り上げるだけでなく、その人物の「人間味のある背景」を敢えて説明することにしている。
たとえば、ジンナーは、飲酒をせず、豚肉を食べないはずのイスラム教徒でありながら、実はウイスキーを好み、ハムサンドが好物だったという話。また彼は再婚をしているのだが、二度目の妻は24歳も歳下、しかもパルシー(ゾロアスター教徒)だというスキャンダラスな事実。
イスラム教徒もパルシーも、異教徒間の結婚は厳しくタブーとしている。ゆえに、再婚の後は両家ともに親族と断絶することになったという記録もある。
それにしても、時代を動かす男たちのパワーといったら、すさまじい。仕事をしつつ、プライヴェートもあれこれと。
それは現代の、たとえば浮気で離婚や再婚を繰り返す各国首脳の様子とほとんど同じではある。
パワフルといえば、一見、細くて頼り無さげなガンディ。その彼の体力。彼は人生において幾度か断食をすることで世の暴動を鎮めているが、最後に断食をしたときには、確か76歳だったはずだ。脈拍が遅くなり、血圧が下がって、「死にそう」になりつつも、死なず。
なにより、英国の塩の専売に抗すべく「塩の行進」の記録には驚かされる。500ルピー札にも描かれているその行進で、彼は380キロを歩いたとされている。気になったので調べたところ、歩いたのは実質25日。
380÷25は、約15。当時60歳だったガンディは、一日平均15キロをも歩いていたことになる。しかも一カ月近く。半裸にサンダル履きで、杖をつきながら15キロ。すさまじい。
更に言えば、映画『ガンディ』で、あまりにも忠実にガンディを演じていて驚かされたベン・キングスレーの演技であるが、彼が塩の行進のシーンにおいて、たいへんな「早歩き」をしているのを見て目を見張った。きっと史実に基づいての演技だと思われるが、杖をついて「すたたたた〜っ」と歩くガンディの姿には、実に驚かされた。
◎夫にとっての、祖父の名言とは……。
ところで「蛇足」の話題だが、夫と出会って十数年というもの、夫が祖父のことを語るとき、いつもいつも、繰り返される「祖父の好んでいた話」があった。それはこのような話である。
「世界で一番幸せなのは米国の家に住み、フランス料理を食べ、日本人を妻にすること」。
「世界で一番不幸なのは日本の家に住み、米国料理を食べ、フランス人を妻にすること」。
米国に住んでいたころ、フランス料理を食べているときには、ことさらうれしそうに、この話をしてくれたものである。
祖父や曾祖父のどんな偉業よりも、このどうでもいい感じのエピソードが、夫の人生に大きく影響していることは、言うまでもない。
◎頭を使うと腹が減る。というわけで、飲食重視のミューズ・リンクスなのだ
ミューズ・リンクスのセミナーでは、休憩時間のおやつや、親睦会の飲食物も「目玉」である。頭を使った後というのは、お腹が空くものだ。セミナーのときには毎回、みな驚くほどの食欲で、食べ物が平らげられてゆく。
今回、ティータイムにはカステラのほかに、今年初のマンゴー・カスタードクリームタルト、及びムンバイ発、非常においしい自然派アイスクリーム、Naturalのミルク味とイチゴ味をお出ししたのだった。
そして毎度おなじみ、クールグ産の美味コーヒー、そしてバンガロールの新しいティーブランドSublimeが発売している、香り豊かなティーバッグを数種類。
どれもこれも好評で、カステラは人数分きっちり出していたのだが、残っていたアルヴィンドの分までも食べようとする参加者がいたので、それを制して「カステラの端」を提供。タルトは20個以上あったはずだが、それもすべて消え、アイスクリームも2パック、きれいに平らげられた。
庭などで参加者が交流しつつのティータイム。この30分程度を除き、実質、約3時間半に亘ってセミナーを行った。そして6時ごろになって親睦会のスタートである。
この日の午前中にあらかじめ準備していた料理などを、加熱したりして供する。よく冷えたキングフィッシャー・ウルトラも。まずはこのビールで乾杯し、夜の部に突入だ。セミナーの案内には、控えめに「軽食」と記しているが、最早、軽食ではない。がっつりとした夕飯の域だ。
16名中2名が、親睦会を前に早めに帰られたのだが、残った14名、いや正確には夫を含めた13名が、それぞれにかなりの勢いでお召し上がりに。最終的には10時半まで飲んだり食べたり語ったり……。
夜の部では、インドを離れ、過去の欧州やらモンゴルやらの旅の話なども語り、20代、30代の、若者参加者らの話なども聞き、楽しいひとときであった。
この入門編。多くの人たちに聞いてもらいたいとの思いを強くした一日でもあった。
★ ★ ★
ここまでお読みの方は、マウントバッテンが、いかに日本を憎んでいたかがお分かりだと思う。
彼の遺言には、かつて敵対した日本人の参列を拒否するくだりがあったらしい。旧日本軍に対する憎しみを晩年まで抱き続けていたようだ。
そんな彼の背景を知るべく、ネットであれこれ調べていたところ、日本語のウィキペディアのページで、衝撃の一枚を見つけた。
まだ日本軍と戦う前の1922年。若かりしころの彼は、皇太子時代のエドワード8世の随行員として日本を訪れた。その際の仮装パーティで、人力車夫に扮した姿が残されている。
後年、写真映えを極めて気にして、俳優である友人のアドヴァイスを受け、撮影される角度などにもこだわったという彼にとって、この写真は痛恨の一枚であるに違いない。
日本とインドとマウントバッテン。その奇縁を思う。
★極東国際軍事裁判を描いたドラマ『東京裁判』を見て。
(2016年12月)
真の勉強は、社会に出てからはじまるのだということに気づいたのは、大学を卒業後、上京して旅行ガイドブックの編集者として働き始めたときだ。学んできたことは数あれど、「歴史」の重要性を痛感したのは、1988年の秋、初めての海外取材で台湾を訪れたときのことだ。
なぜ、台湾の高齢者は、流暢な日本語を話すのか。世界史の教科書にあった、「日清戦争」「下関条約」「三国干渉」といった、歴史の中の言葉が、今なお連綿と今に連なっているという事実を突きつけられて、困惑した。
その後、シンガポール、マレーシア、インドネシアなど東南アジアの国々や、中国、モンゴルなど日本以外の東アジア旅するにつけ、「大東亜共栄圏」というものが、どういう世界観だったのか、ということへの関心を高めた。
「八紘一宇」という言葉の解釈ひとつをとっても、それを具現化するための方策は、個々人によって異なるだろう。世界平和を目指していたはずのことばが、海外侵略を正当化するためのスローガンと解釈されている記述もある。
インターネットのない時代である。情報を知るには、書物を紐解いたり、映画を見たりする必要があった。目にした資料、書き手の立ち位置によって、わたし自身の考え方はまた、左へ、右へ、と揺れた。そして今は多分、どちらでもない。ただ、知れば知るほど、善し悪しを判断できなくなる、ということだけは、わかる。
さて、このような話題を書き始めるとまた尽きないので本題へ移る。NHKスペシャルで『東京裁判』という4夜連続のドラマが12月16日より放送された。
NHKの当該サイトの説明を引用する。
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70年前の東京で、11人の判事たちが「戦争は犯罪なのか」という根源的な問いに真剣な議論で取り組んだ東京裁判。NHKは世界各地の公文書館や関係者に取材を行い、判事たちの公的、私的両面にわたる文書や手記、証言を入手した。浮かび上がるのは、彼ら一人一人が出身国の威信と歴史文化を背負いつつ、仲間である判事たちとの激しいあつれきを経てようやく判決へ達したという、裁判の舞台裏の姿だった。11か国から集まった多彩な背景を持つ判事たちの多角的な視点で「東京裁判」を描く。人は戦争を裁くことができるか、という厳しい問いに向き合った男たちが繰り広げる、緊迫感あふれるヒューマンドラマ。
【ドラマあらすじ】
1946年の春。東京の帝国ホテルに戦勝国11か国の判事たちが集まった。日本の戦争指導者を裁く「東京裁判」を開くためだ。裁判の焦点になったのは、ナチスを裁くニュルンベルク裁判と同時に新しく制定された「平和に対する罪」。それまで国際法では合法とされていた「戦争」そのものを史上初めて犯罪とみなし、国家の指導者個人の責任を問う新しい罪の概念であった。この「平和に対する罪」を弁護側は事後法として否定する。判事室では各々の判事の意見が鋭く対立、最初は短期間で決着がつくと思われた裁判は、混迷と長期化の様相を見せてゆく。
裁判の舞台裏の攻防に、日本滞在中の判事たちの私的な行動や、周辺に現われる人物の思惑が混じり合う。1948年の秋、ついに11人の判事たちは2年半に及んだ東京裁判の結論となる判決を出すべく、最後の評議の場に臨むのだった。被告たちの生と死が分かれる瞬間。それは、「人は戦争を裁けるか」という、人類の根源的な問いに答えが出されるときでもあった。 極東国際軍事裁判、通称東京裁判を描いたこのドラマをどうしても見たく、ネット上にて公開されている動画を探しだして、珍しく夜更かしをして、一気に見た。「概要として」知っていた現実が、いかに乱暴な要約であったか、ということを、改めて思う。 勝利した連合国によって、敗戦国が裁判にかけられる。不条理すぎるとも思えるその裁判の、判決に至る2年半の物語だ。 このドラマでは、感銘を受ける点が多々あったが、その一つが、裁判の様子。当時の白黒の映像記録を着色し、現在のドラマの映像と色調を合わせ、現実の裁判の様子とドラマとが、絶妙に融合している点だ。 70年前の東條英機が、今、そこで語っているような錯覚さえ起こす。 判事たちが2年半を過ごした帝国ホテルが、フランク・ロイド・ライト建築の当時のまま、主には正面からの外観しか見られなかったにせよ、目にできたのもうれしかった。 東京オリンピックの直前に、大改装された帝国ホテル。それ以前は、関東大震災、そして東京大空襲を生き延びた、重厚なビルディングだったということを、わたしは昨年、知った。ホテル・オークラのロビーが改築されるという残念なニュースを読んでいたときに、ニューヨークタイムズの記事を通してその事実を知り、相当の衝撃を受けた。 なぜ? なぜ誰も止めなかったのか? 今、フランク・ロイド・ライト建築の帝国ホテルがそこに存在していたら、どんなに高価であったとしても、なんとかして泊まりたいと思う人は、世界中にたくさんいただろう。わたしもまた、その一人だ。 この件についてもあれこれ書こうと思いつつ、思いが強くなりすぎて収拾がつかなくなり、書かずじまいだった。せめてその記事のリンクだけでも残しておく。 ◎The End of a Treasure in Tokyo (←click) ドラマの主人公的な役割を担っていたのは、11人の判事の中では最も若かったとわれるオランダのレーリンク判事であった。パル判事と出会ってからの、彼の心の動き、変化などを通して、周囲の「多数派」の有り様が浮き彫りにされる。 米国、英国、ロシア、オーストラリア、フランス、ニュージーランド、カナダのほか、中国、フィリピンというアジアからの判事もいて、彼らの言葉、見解は、ことさらに、胸にしみた。 1話の後半に登場したパル判事の姿を認めて、一気に気持ちが盛り上がった。わたしの大好きな俳優、イルファン・カーンだったのだ。風貌に、ではなく、彼の演技、存在感が、好きなのだ。彼は本当に、すばらしい俳優だと思う。わたしが好きなインド映画の、歌って踊らない系の多くに、彼が出演していると言っても過言ではない。主人公であれ、脇役であれ、味わい深い存在感なのだ。 惜しむらくは、日本語吹き替えになっていたこと。これこそ、字幕で見たいドラマであった。なにしろイルファン・カーンの声が若々しくて、軽すぎた。もっと、落ち着きのある声なのに。 オランダのレーリンク判事をつとめたマルセル・ヘンセマという俳優も、とてもよかった。最後に、東條英機が絞首刑を宣告された時の、彼の表情は、本当に、得も言われず。東條英機の実際の記録映像がまた、あまりにも現在に近くて、時空を飛び越えて間近にある様子にまた、鳥肌が立つ思いだった。 ところで、裁判が終わった後、判事らが全員揃っての記念写真の様子、ドラマ版がこちらだ。動画をスクリーンショットで撮影したもの。 このドラマのよかったところの一つは、最後に、史実の説明や各判事の背景についてを伝えるドキュメンタリーレポートの時間が設けられていたところ。ドラマを通してだけでは分かり得ない史実が解説され、理解が深まる。 パル意見書についで分厚いレーリンクの意見書は、のちにオランダで出版されたようである。 最終回(第4回)の最後、番組説明のコーナーでの、ドイツ、ハイデルベルク大学のケルスティン・フォン・リンゲン教授の言葉が、心に残ったので、引用しておく。 「70年たった今、東京裁判を考えることは、私たちが戦争のない世界をどう構築できるかを考えることにつながります。東京裁判の国際的な研究を通して、ヒューマニズムが進歩し、世界がよりよくなることを望んでいます」 過去は現在と「分断」されるものではない。現在に連なり、歴史を育み続けている。教科書に書かれているものを記憶し知識にするべきものではなく、肌身に感じ続けるものなのだと思う。特に日本を離れて暮らす者にとっては。歴史における日本とインドの関係を知ればなおさら、この国への理解も深まることであろう。まだまだ、知るべきことが多いとの思いを新たにする。読みきれていない多くの書物を、紐解かなければ。 ★靖国神社の遊就館を見学。東京裁判とパール判事について。 日本を離れ、年を重ね、客観的に母国を見るにつれ、そして歴史の断片を学ぶにつれ、他国に干渉される不条理と不愉快。 今日、きちんと手を合わせ、参拝できて、本当によかった。 参拝後、立ち寄った遊就館の、その展示の充実ぶりに、驚かされた。ここでは詳細に触れぬが、ともあれ、日本人であれば、見ておくべき、知っておくべきものが、たくさん詰まっていた。1時間程度ではとても消化できない展示の数々である。折しも行われていた大東亜戦争七十年展がまた印象深く、ゆっくりと時間を取れなかったことが悔やまれるほどだった。 米国のスミソニアン航空博物館で、日本の零戦やエノラゲイを見たときの話は、過去にも記した。ゆえに、零戦の展示については、さほどの衝撃を受けはしなかったが、人間魚雷と呼ばれた「回天」を目の当たりにしたときには、あまりのむごさに、泣けた。 海底深く、こんなものに押し込められて、自爆を強いられた若者ら。どれほどに辛かったことであろう。 無数の展示の中にあっては、ほんの一隅ではあったが、インドを舞台に展開された「インパール作戦」に関する事項も見られた。いつか必ず、コヒマにある日本兵の慰霊碑を訪れたいと思いつつ、幾星霜。 なお、東京裁判(極東国際軍事裁判)において、被告人全員の無罪を主張したインド人のパール判事の顕彰碑は、2005年、ここに建立されたという。 石碑の文字を目で追いつつ、彼の情念が、胸に迫る。 歴史をもっと、きちんと、学ばなければと、今更のように思う。ともあれ、遊就館で購入した図録を、まずはじっくり読もう。 昨今の日本の情勢に照らせば、戦争反対を訴えるならば、過去に何が起こったのか、ということについての見識を、ある程度、深めておくべきであろう。 「戦争はいやだ」 それは当然のことだ。 しかし、その感情的な意見を主張するだけではすまない、世界的な情勢、日本のポジションについてを、考察すべきでもあるだろう。 先日、広島と長崎に原爆が落とされた年月日を知らない人が7割というNHKの世論調査の結果をニュースで知った。愕然とさせられた。教育を受けた日本人なら、覚えていて当然の数字ではないのか? 忘れるべき過去と、忘れてはならない過去がある。この過去は、未来永劫、記憶されなければならない事実だ。 NHK世論調査 原爆投下日を7割が不正解 (←Click!) ワシントンD.C.に住んでいたころのこと。2004年2月、完成してまもないスミソニアン航空博物館(スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)を訪れた。スミソニアンの博物館群は、ワシントンD.C.市内にあるが、2003年12月、この別館が、ワシントン・ダレス国際空港の近くに新設されたのだ。特に航空機に関心があるわけでもないわたしが、オープンしたばかりのそこに足を運んだのには、理由があった。 エノラ・ゲイを、見たかったのだ。 レプリカではない。広島に原子爆弾「リトルボーイ」を運び、投下したB-29、エノラ・ゲイの「実物」だ。 あの日、目にした光景は、受けた衝撃は、未だに鮮明だ。以来、毎年この日になると、あのとき記した言葉を、そのままブログに転載してきた。今年もまた、この『インド百景』に転載する。ただし、今年は今までとは違って、少し書き加えておきたいことがある。 実は先日、百田尚樹の『永遠のゼロ』を読んだ。戦地からひたすら「生きて帰ること」を望み続けていた、一人の優秀な兵士(戦闘機搭乗員)の話である。死なないために、特訓を重ね、神業のような操縦技術を身につけていた彼が、なぜ終戦間際に特攻隊員として死したのか。その一人の男の生き様を、生き延びた戦友らの証言からたどっていく物語だ。 第二次世界大戦にまつわる史実などの描写については、すでに知っている事柄が多かったが、以下ことは知らなかった。たとえば、神風特攻隊が乗り込んだ戦闘機が「桜花」という名前であったこと、そしてその自爆のための飛行機が、連合国側から、日本語の「バカ」にちなんで、BAKA BOMB(馬鹿爆弾)というコードネームで呼ばれていたことなど。馬鹿爆弾……。思うところ多く、ともあれ、下記に転載する。 なお、太字による文章は、2014年に加筆した部分だ。 思いがけぬほど、その飛行機は大きく、そして美しかった。 澄み渡った青空のただ中を、太陽の光をキラキラと反射させながら、 あの朝の、空の下の風景を、ここでは知る術もなく、 ただ、この飛行機は、半世紀を経て、ナチスの戦闘機や、 愛らしいほどの、神風特攻隊の、小さな戦闘機などを。 夫のオフィスはヴァージニア州のレストンという街にある。DC郊外の、新興ビジネスタウンだ。新しいオフィスビルやアパートメントビルが次々に立ち、ここ数年のうちにも、レストランやショップなどが軒並みオープンしていた。 さて、先週の金曜日、夫が通勤する車に乗って、わたしもレストンへ行った。夫をオフィスでおろしたあと、そのまま車でショッピングモールなどに出かけ、買い物をしようと思ったのだ。買い物の合間、思い立って、スミソニアンの航空宇宙博物館に立ち寄ることにした。 そもそもスミソニアンのミュージアム群は、ワシントンDCの町中、連邦議会議事堂やワシントン記念塔などの観光名所がある「モール」と呼ばれるエリアにあり、航空宇宙博物館もそこにある。 ただ、展示品が大きいだけに、多分、モールの館内ではおさまらなくなったのだろう、去年の末、ヴァージニア州にあるダレス国際空港のそばに、巨大な「別館」が完成したのだ。 この航空宇宙博物館については、ご存じの方も多いだろう。ここには復元された「エノラ・ゲイ」が展示されているのだ。日本のメディアでもたびたび取り上げられていたのを目にした。広島県被爆者団体協議会の人たちが渡米し、地元の平和活動家らと共に抗議運動をしたとの記事も、インターネットで見た。 わたしは、もちろん戦後生まれだが、戦争教育はしっかりと受けてきた世代だ。夏休みの登校日には、必ず戦争に関する話を聞かされたり映画を見せられたりした。家族に戦争体験を聞くという夏休みの宿題もあった。 福岡大空襲を経験した担任教師の話も、臨場感があって、とても怖ろしかった。他の授業のことは忘れていても、先生が、防空頭巾を被って焼夷弾の雨をくぐり抜け、溝の中に命からがら避難したという話は覚えている。 「原爆の歌」(ふるさとの町焼かれ、身よりの骨埋めし焼け土に……)とか、「夾竹桃の歌」(夏に咲く花、夾竹桃…… 空に太陽が輝く限り、告げよう世界に原爆反対を)とかいう歌は、今でもしっかりと覚えているくらい、繰り返し歌わされた。 あまりに戦争の話が怖ろしくて、子供のころは夏の入道雲や青空を見るたびに、自分が戦争を体験したわけでもないのに、底なしの恐ろしさや虚無感に襲われることがあった。 体験したことのない戦争だけれど、自分の国(日本)の痛ましい歴史の断片は、確かに刻み込まれているような気がしていた。 ハイウェイをはずれ、わざわざそのミュージアムへアクセスするために施工されたらしき、真新しい道路を走った先に、そのミュージアムはあった。駐車場代だけで、一台につき、12ドルも払わされた。まずはそのことに驚いた。 アメリカの、こんなに土地の有り余った場所で、駐車場代を12ドルも払うとは。無論、スミソニアンのミュージアムそのものは無料だから、多分道路の工事費とかそういうものの赤字を埋めるための、それは駐車場代だろうとも思った。 広大な駐車場の向こうに、巨大なメタリックの建物が、青空に映えて美しい。上空ではダレス空港に飛来する飛行機が行き来している。わたしは、少し身構えるような心持ちで、車を降り、エントランスへ向かった。 エノラ・ゲイ。 わたしの想像の中で、その飛行機は、忌々しく、醜いはずのものだった。罪なき十数万人の命を一瞬にして奪った、残酷な飛行機。それをこれから見るのだと思うと、胸の鼓動が高まった。案内のパンフレットを受け取り、その広大な展示場に出る。 第二次世界大戦のコーナーは、入館してすぐの場所を占めていた。そこで、ひときわ大きく、格好のいい銀色の飛行機が目に飛び込んだ。尾翼に大きく「R」の文字があり、胴体に「82」という数字と星印がある。 「1941年、日本軍による真珠湾攻撃を機に、米国は第二次世界大戦に参戦した……。」そういう文章で始まる案内を一通り読んだあと、まずは日本の戦闘機を眺める。 カネボウ化粧品が「紫電改」という名の育毛剤を発売したとき「変わった名前だな」と思ったが、まさか戦闘機の名をさしているとは、思わなかった。個人的に、受け入れ難い、センスだ。 それは特攻隊の乗っていたものだという。説明書きには、「終戦までに5000人のパイロットが特攻(Tokko Attack) によって戦死した」と記されている。 「機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される」「いわゆる人間爆弾である」と、wikipediaには紹介されている。 最初に目に飛び込んできた、あの銀色の飛行機の操縦席近くに、「ENOLA GAY」という文字が記されているではないか。 わたしは、非常に混乱した。 なぜなら、エノラ・ゲイは、醜くも忌々しくもなく、むしろそれは、美しく、格好のいい飛行機だったからだ。しかもそれは、想像していたよりもはるかに大きい。 それは、このミュージアムの大きな目玉、といってもいいほどの存在感だった。勝手に小さな戦闘機を想像していたわたしは、ともかくその大きさにも驚いた。 エノラ・ゲイのそばには、他の航空機にあるのと同様、その機体名と概要、スペックなどが記された説明書きがあった。 Boeing B-29 Superfortress Enola Gay このB-29というタイプの飛行機が、太平洋戦争でいかに活躍した優秀な航空機であったかが記されている。 そして、1945年の8月6日、この飛行機が最初の核兵器を日本の広島に投下したこと、その三日後に、同じ機種のBockscarと名付けられた戦闘機が、日本の長崎に二つ目の核兵器を投下したこと、そしてそのBockscarは、オハイオ州デイトン近くの航空宇宙博物館に展示されていること、などが記されていた。 原子爆弾によって広島の一般市民が何人死んだかは、記されていなかった。 わたしはエノラ・ゲイの間近に迫り、下から見上げた。全身をジェラルミンで覆われた、軽量で丈夫な飛行機。わたしは、その胴体のあたりを見つめた。あそこの扉が開いて、原爆が投下されたところを想像してみた。 しかし、ずいぶん昔、白黒写真で見たことがあったはずのB-29と、目の前にある飛行機とが、どうしても結びつかなかった。 わたしの周りでは、年輩の男性たちが、熱心にエノラ・ゲイを見ていた。ベテラン(退役軍人)たちだろうか。 エノラ・ゲイを見たら、もう、あとはどうでもよくなった。エール・フランスのコンコルドとか、フェデックスの古い貨物輸送機とか、パンナム航空の飛行機などが展示された商業用航空機のコーナーを横目で見ながら、出口へ向かった。 ギフトショップには、エノラ・ゲイのプラモデルや模型さえもが、売られていた。 あの夏の朝、このエノラ・ゲイは、広島の青空を、太陽の光をきらきらと反射させながら飛んでいただろう。それが新型原子爆弾というものを落としさえしなければ、それは、きらきらと、優美に飛来する一機の飛行機に過ぎなかった。 あの日、この飛行機が落としていったおぞましいものの引き起こした惨事を体験している人にとっては、どうしたって、これは忌々しい物体に違いない。けれどわたしは、この飛行機を見ても、憎悪の念が浮かび上がりさえしなかった。 飛行機には罪がない。 当たり前のことだけれど、飛行機には何の罪もないのだ。それは「罪の象徴」かも知れないけれど、でもやはり、罪そのものではない。そのことが、実際に、こうして自分の目で見て初めてわかった。罪は人間が創り上げるものであって、人間の中にある。 核兵器がどんなにおそろしいものか、戦争がどんなに悲しいものか、その避けがたい諍いを、いったいどうすれば避けられるのか、それはいつの時代も、誰かが必ず、問い続けなければならない問題だと思う。さもなくば、世界は、戦争に満たされてしまう。 しかし、この航空宇宙博物館に、原爆被害の展示をするというのはまた、微妙なずれを感じた。航空宇宙の技術や進歩を展示するこの場所において、戦争の被害を展示すると言うことに。 わたしは何か、間違ったことを書いているかも知れないが、これが本音だし、正直な感情だ。 しかし、さておき、エノラ・ゲイは展示されて然るべきであると思う。けれど、エノラ・ゲイがさも、「第二次世界大戦にピリオドを打った英雄」として在るのは、やはり許し難い。 日本は、世界で唯一、原爆の被害を受けた国であると同時に、敗戦国であり、敗戦した国の言い分が、戦勝国において全面的に受け入れられ、正統化されることは、ほとんどあり得ないことのように思われる。 では、いったいどうすれば、核兵器の恐ろしさを、客観的に人々へ伝えることができるのだろう。 この際、日本が「軍事兵器博物館」でも作ればいいのだ。もちろん、現物を展示することはできないだろうから、模型などを展示して、軍事兵器の技術や進歩を見せると同時に、それらの兵器によって、どれほどの人々が、どういう殺され方をしてきたか、を伝えるような博物館。 今、イラクで行われている戦争で使われている兵器や、それらがイラクの人々に与え続けている影響についても、一目でわかるような。 しかし、今、書いているだけで、そら怖ろしい博物館になりそうだと思う。子供が見たら、トラウマになるかもしれない。そうならないように、恐ろしさを伝える方法は、ないだろうか。 ともかく、エノラ・ゲイを見て、わたしは困惑している、ということを、考えのまとまらないまま、しかし今の心境を、ここに書き記しておく。 Smithonian National Air and Space Museum -Boeing B-29 Superfortress "Enola Gay" -Kugisho MXY7 Ohka (Cherry Blossom) 22 -Kawanishi N1K2-Ja Shiden (Violet Lightning) Kai (Modified) ステロタイプの意見に惑わされず、まずは自分の目で確かめて、感じて、自分の考え方を、自分なりに、生み出すべきだ。他人の意見に便乗するのではなく。 情報が手軽に入手できる現代だからこそ、自分の感性、感覚を研ぎすまし、身体を動かして、肌身で経験することを、厭うべきではないだろう。 ■英語教育と国際化。優先順位の差はあれ、語学力は必要だと思う 日本を離れて十年がたつ。海外居住経験者なら、おそらく誰もが経験しているであろう、離れて初めて見えてくる日本の素顔に対する戸惑い。わたし自身、その例に漏れず、折に触れ、困惑に直面して来た。 先日、日本から取り寄せた本の中に、『白洲次郎-占領を背負った男』というのがある。こういう人がいて、こういう経緯のもとに、現在の日本国憲法が定められたのだと知り、改めて愕然とする思いで読み終えた。 と同時に、「国際化」「国際人」という定義、ありかたについて、改めて思いを馳せる。米国に住んでいたころから、しばしば「日本人の国際化」について考えさせられる機会があった。海外に暮らす過程で、自分の心境にどのような変化があったかを知りたくなり、先刻、ホームページから過去の記事をいくつか探した。 数年前と今とでは、思うところも微妙に異なるが、ともあれ、改めて今日はここに四本、抜粋したので、非常に長いけれど、読んでいただければと思う。 さて、『白洲次郎-占領を背負った男』を読むと同時に、ベストセラーらしき藤原正彦著の『国家の品格』を読んだ。日本に住んでいたころ、藤原氏の執筆するコラムや記事などを、興味深く読んだ経緯がある。 『国家の品格』の中で語られていること、たとえば日本的な情緒の育成、論理一辺倒の社会に対する警告など、共感を覚えるところが多い。が、一方で、「英語教育」に関するあたりの記述が、非常に誤解を与えやすいと思われた。 氏は小学校に於ける義務教育として、英語の授業を導入することに反対しておられる。英語をやるよりもまず、国語や算数などを徹底してやるべきであるという。氏が、「国際人」=「英語が話せる」という単純な図式に陥りがちな日本人に対して警鐘を鳴らしていることは、理解できるし、共感を覚える。 では、いつ、どうやって、英語力を身につけるのか。中学、高校の英語教育を、では、いかに改革すればいいのか。一番知りたいそのあたりが、不明瞭だ。そういうことは、各々の家庭が家族レベルで考えて行くべきなのか。 藤原氏はまた、「真の国際人には外国語は関係ない」と断言なさっておられるが、優先順位の差はあれ、関係ないではすまされないとわたしは思う。 実際に、小さい頃から外国語に親しみ、英語を操ることが出来、海外の人たちと対等に渡り合える素地を持っているご本人が書かれていることとして読み進めると、若干、抵抗を覚える。 30歳を過ぎて日本を離れ、ようやく英語を本気で学び、異国で暮らした者として、どうして子供の頃から勉強しておかなかったかと悔やまれるばかりであった。時間もお金も労力も、計り知れず、かけてきた。それでも、まだまだ壁の高い、英語である。 中途半端とはいえ、しかしそれなりに会話のできる英語力を身につけたお陰で、わたし自身の世界は格段に広がった。これについては、一言では語り尽くせない。 いくら自国に誇りを持っていても、語るべきなにかを抱えていても、それを伝えるべき手段であるところの「会話力」を持ち合わせていなければ、宝の持ち腐れとなってしまう。いくら日本人にとって英語は極めて難しい言語であると開き直ったところで、何も得られないし、伝えられない。 英語が国際語となっている現在、英語を身につけねば、多くの外国人とコミュニケーションが図れないのは、受け入れがたくも事実である。 現在の日本人が、自国をよく知り、誇りを持っているからといって、言葉ができないにも関わらず、外国人と堂々と渡り合うことができるようになるとは思えない。 藤原氏のように、語学に堪能な人物にこそ、国際化の波に乗るために必要な事項の優先順位の差はあれ、では外国語を、どのようなタイミングで、どのような手段、方法で身に付けるのがいいのか、といった、具体的なアイデアをも、教授していただきたいと思うのである。 わたし自身の経験に則して言えば、言葉ができようができまいが、まずは外国人に対峙する際の日本人には、「堂々としていてほしい」ということを思う。もちろん、欧米人にもアジア人にも同様に、対等にの姿勢で。 日本的礼節は重んじながらも、しかし、「堂々と」。最初は演技でもいい。やがては、それが身に付いてきて、自然の立ち居振る舞いとなるだろう。 「偉そうにすること」と、「堂々とすること」は、当たり前だが違う。 思いつくまま、まとまりのない文章となったが、取りあえず、載せる。過去の記事も、以下に載せる。 「国際化」という言葉をして、日本では「アメリカナイズ」と混同されてしまうことが多いように思われる。「コスモポリタン」「グローバル」など、手垢が付きすぎたように思われる言葉も、主にはアメリカを意識したもので、例えば「中国的に」「ケニア的に」国際化するとイメージする人はいないだろう。 世界の中心を気取っているアメリカに、そして自国が一番だと悠然とした態度でいるアメリカ人に、「図に乗りすぎじゃない?」「何様なの、あなたは?」と思うことがしばしばだが、それでもこの国の経済や政策が、全世界に大きな影響を及ぼしていることは、善し悪しは別として事実である。 たとえば、どんなに技術や素養や資質があっても、それを世界的に通用させようとするならば、やはりアメリカ、もしくはヨーロッパの壁をうち破ることが、「グローバル」の第一歩であることは、事実であろう。本国内にとどまらず、海外においても何らかの業績を上げるとなると、同じ土俵に立つ必要がある。 なぜ、こんなことを書いているのかといえば、夕べ、カリフォルニアのカンファレンスから帰ってきたばかりのA男(注:アルヴィンド)の話を聞いたからだ。 今週の月曜から水曜にかけて、ロサンゼルスのアナハイムというところで、OFC(Optical Fiber Communication Conference and Exhibit)というテレコム関係のトレードショーのようなものが開催されていた。A男は、最近テレコム関係の投資についても担当し始めたため、リサーチを兼ねて出かけたのだ。 このカンファレンスには世界各国から1000社以上が参加し、4万人近くの人々が参加したという。広大な会場に、各社がブースを設け、それぞれに趣向を凝らしたプレゼンテーションをする。 正確な数字ではないが、A男によると日本の企業も50社ほどが参加していたという。そのいくつかのブースを訪れた彼いわく、 「日本の会社、名前は覚えてないけど、プレゼンテーションがひどかったよ。研究者が自分でプレゼンテーションしなければいけないから、しかたないのかもしれないけど、髪はぼさぼさだし、よれっとしたスーツ着てるし、頼りない感じでね。すごく小さな声で説明するから、なんて言ってるか全然わからなくってさ。日頃、ミホのひどい英語で鍛えられてる僕でさえ、何一つわからないんだもん」 アメリカ企業の多くは、ブースの演出にも趣向を凝らし、参加者の注意を引くための工夫をしているのに対し、日本や中国の企業は比較的地味なところが多く、印象に残らなかったという。 「あと、OHP(オーバーヘッドプロジェクト)で説明をしてる日本のブースがあったんだけどね、スライドが、ずーっと斜めに傾いて映し出されてるの。みんな首を曲げて見てるんだけど、どうしてまっすぐに直さないのか不思議だった。あと、質問されると、いちいち驚いた仕草で『あっ、えーと』『あっ、えーと』って繰り返す人もいて、すごく変だったよ」 日本人を悪く言うと、私が気分を害すると知っていて、彼は嫌みなコメントを続ける。しかしながら、彼の話には腹が立つけれど考えさせられるものがあった。 どんなに優秀な企業でも人物でも、持っている実力を表現できなければ、相手に何も伝えられない。ましてや、数多くのブースから際立ち、自らの研究成果や企業レベルを忠実に伝えるには、効果的なプレゼンテーションの方法を模索するべきだろう。 (このカンフェレンスに於ける)「世界基準」はこの場合、悔しいけれどアメリカ合衆国だから、この国の研究者の「俳優じみた」話しぶりにも、学ぶべき所はあるだろう。 わたし自身、日本では比較的自己主張の強い性格だったはずだが、アメリカ人に比べると押しが弱いし、まったく敵わない。こちらの子供たちは小学校3,4年生からディベート(討論)のクラスが始まり、自分の思っていることをはっきりと効果的に表現する「訓練」をしている。 私は、日本のマスコミなどの風潮が、何かといえば「アメリカでは」「欧米では」と、外国の事情を引き合いに出し、日本に対して自虐的な評価をすることに抵抗を覚える。それぞれにバックグラウンドが異なるのだから、一つの結果だけを取り上げて、海外(欧米)の基準を礼賛するのは好ましくない。いたずらに自国の在り方を否定するばかりだ。 しかしながら、このプレゼンテーションなどについては、「アメリカ並み」に「厚かましく」やるべきだと思う。実力がないから理解されないならまだしも、実力があるのに表現のまずさから評価されないのは残念だ。しかも、日本人がいつもおどおどしてはっきりものを言わないことを理由に「舐められる」「見下される」のも、非常に腹立たしい。 決して「媚びる」のではなく、堂々と「意思表示する」ことが、必要なのだ。それは、自国、もしくは自分のやっていることに誇りを持っていなければ、あるいはできないことなのかもしれない。 アメリカのカンファレンスに参加する日本企業は、作戦をしっかりと練って挑むべきではないかと、余計なお世話ながら思わずにはいられない。 世間では、「第三世界」であり「発展途上国」であるとされるインドから、わたしたちは「先進国」であり「超大国」の首都であるワシントンDCに戻ってきた。 空港から自宅へのタクシーの道中、その広く、見晴らしの良い、美しいハイウェイをなめらかに走りながら、わたしは、自分がここに住んでいることすらが、なにか夢の中のことのように思えた。 道は凸凹、都市の空気は悪く、街は汚く、喧騒に満ちたインド。無論、田舎の田園地帯はのどかで穏やかで、都市部のそれとは異なるが、いずれにせよ、至る所が「濃密」なインド。それに対し、この国の、なんという爽やかさ。淡泊さ。そして希薄さ。 わたしは、インド旅行中、しばしば自分の「価値観の場所」を定めるのに混乱した。物価の違い、貧富の差、生活水準……。 わたしは、子供のころこそ、まだまだ「発展途上国」だったはずの日本に育ったが、大人になってからは、すっかり「先進国」となった日本の価値観の中で生きてきた。そして、「先進国」とか「発展途上国」という概念を、特に疑うことなく、さりげなく、受け止めてきた。 昨今のわたしにはしかし、その、あくまでも「経済」もしくは「産業文明」においての尺度であり区別であるはずの「先進国 Developed」とか「発展途上国 Developing」といった括りが、地球規模で、とんでもない勘違いを育んでいるように思えてならない。 あくまでも「経済的」なはずの、その「優劣の基準」が、国全体の文化や、さらには人間個人個人の「質」にまで及んでいると、勘違いをしている「先進国の住民」が、米国をはじめ世界中に散らばっている気がするのである。 わたしの経験のなかで、それが顕著でわかりやすい例を挙げたい。それは約十年前、わたしがモンゴルでの一人旅を終え、日本に帰国すべく北京に戻り、空港の近くのホテルに宿泊していたときのことだ。 わたしはホテルの近くにある家族経営の小さな食堂で、一人、その店自慢の水餃子を食べたあと、店の従業員の女の子と親しくなり、筆談を交わしていた。道路脇にあるその食堂の料理はとてもおいしく、トラックやタクシーの運転手が常連客のようだった。 夜、昼とそこに通ったわたしが、今夜、街のホテルに移ると言ったら、家族揃って「うちへ泊まりにおいで」と誘ってくれ、団地住まいの彼らの家に1泊させてもらった経緯がある。 さて、わたしが食事を終えたころ、日本人の男性二人と、通訳の中国人女性が店に入ってきた。 40代ほどの日本人男性が、通訳を通して、餃子を頼んだ。すると当然のように、店自慢の水餃子が出てきた。なにしろ、その店は水餃子の専門店だったのだから当然だ。するとその男は通訳を介して、従業員の女の子に言った。 「なんだこれは。俺は焼いた餃子が食べたいんだよ。カリッと焦げ目のついたヤツ。焼いたの持ってきてよ」 通訳は、戸惑う従業員に訳して伝えた。 ほどなくして、焼かれた餃子が出てきた。それを見て、彼は言った。 「ああ、だめだよこれじゃ。全然うまそうに見えないだろ。餃子はちゃんと並べて焼かなきゃ。こんな風にバラバラじゃなくて」 通訳はまた、従業員に伝え、再び餃子の皿は下げられた。北京には、日本の中国料理店に出てくるのと同様、きれいに並んで香ばしく焼かれた餃子を出す店はもちろんある。しかし、中国では、水餃子や蒸し餃子が一般的で、焼き餃子を出さない店も多いのだ。 しかし、従業員は3度目にして、その男の言う「日本的な見栄えの餃子」を持ってきた。すると、その男は言った。 「そうそう、これだよこれ。俺たちはこの近くにある松下電器で働いてるんだが、これから日本人が増えるから、これをメニューに加えるように、って言ってくれ」 通訳は、なんと訳したか、知る術もない。 わたしは、怒りと恥ずかしさと悔しさで、鼓動が高まり、頭に血が上った。けれど、そのころのわたしには、その人に何かを言う勇気がなかった。それが、たまらなく情けなかった。10年過ぎたいまでも、まるで昨日のことのように、はっきりと思い出せるほど、それは印象的な出来事だった。 あの日本人の男は、例えば、イタリアのミラノのレストランで、 「これは俺が好きな、表参道のイタメシ屋のピザと違う。焼き直すように言ってくれ」 と言うだろうか。 「日本人旅行者がたくさん来るから、日本人に合うものをメニューに加えろ」 と言うだろうか。 あるいは、ニューヨークのダイナーで 「このハンバーガーは大きすぎる。トマトもタマネギも分厚すぎる! もっと薄くて食べやすいのを出せ」 と言うだろうか。 無論、インドのレストランで、「日本風のカレーを出せ」と言うことは考えられる。 ここで、細かいことを解説せずとも、お察しいただけると思うので、書かない。つまり、あの日の松下電器のあの男性は、多くの、先進国に住む人々の、シンボルのようにも思えるのだ。 遠い過去の時代から、繰り返される「支配される側」と「支配する側」の力関係。それによって発生する、とんでもない思い違いと勘違い。 少なくとも、わたしにとっては、「文化的・歴史的 発展途上国」である米国よりも、「文化的・歴史的 先進国」のインドの方が、遥かに興味深いということを、今回の旅行を通して知った。 そして、米国や日本という「経済的な先進国」の一員として、自分がさまざまな事柄を「評価」していることにも気がついた。そのことに気づいただけでも、今回の旅はいい経験だった。 多分、これからさき、わたしの中でもさまざまな混乱が発生することになるだろうけれど、それを喜ばしいこととして受け止めようと思う。 先日の尼崎に於ける列車の事故は、本当に衝撃的だった。最初、インターネットのニュースで「列車事故」という文字が目に飛び込んできたとき、「またインド?」と思ったのだが、それが日本だとわかって、驚いた。 米国のメディアもこの事故について関心が高かったようで、購読しているニューヨークタイムズも、2日間に亘って大きな記事を掲載していた。 1回目の記事は、主には事故のレポートであったが、2回目の記事(4/27付)は "In Japan Crash, Time Obsession May Be Culprit" という見出しで始まる、事故原因についてを考察する記事だった。 「日本の列車事故は、時間に対する強迫観念が原因か?」といった主旨である。 記事は、日本人がいかに時間に対して厳しいかということを軸に展開され、年々顕著になっている列車時刻の過密スケジュールについてなどを紹介しながら、「時間厳守」と「安全性」の優先順位などについて言及している。 ニューヨークタイムズの「いやらしいところ」は、このように他国の習慣を批判する論調の場合、その言葉を「そこの国に住む人のコメント」として紹介するところだ。たとえば今回も、 「日本人は、列車に乗ったら時間通りに目的地に到着するものと信じている。……われわれの社会は融通がきかない。人々も、融通がきかない」 と、鉄道職員のMR. SAWADA(49歳)に言わせている。更に彼は、 「海外に行くと、列車は必ずしも時間どおりに来ない。この惨劇は日本の現代社会と日本人によって生み出されたのだ」 と続けている。また、立教大学のHAGA教授は、 「日本ほど正確に運行する列車は、間違いなく世界のどこにもないだろう」「しかし個人的には、日本人はもっとリラックスし、2、3分の遅れは気にするべきではないと思う。2分後には次の列車が来るというのに、階段を駆け上って出発間際の列車に飛び乗っているのが現状ですから……。」 と語る。また、会社勤務のMR. HABE(67歳)は、 「いつかこんな事故が起こると思っていた。日本は世界一、几帳面(時間厳守)の国だけれど、一番大切なのは安全だ」「この事件は氷山の一角に過ぎない」 と語っている。 確かに、この事件の背景には、さまざまな改善すべき根元的な要因が横たわっているだろう。重要性の優先順位の見直しも必要だし、彼らの言うとおり、「リラックス」することも大切だろう。 記事の主旨は、一見、まっとうだ。けれどわたしは、違和感、不快感に囚われる。 「米国のメディア」に、「まるで高みから評価するみたいに」、言われたくないというのが、正直な心境である。そもそも、このような生活文化や習慣に起因する事故について、他国と日本を比較することに、あまり意味はないと思うからだ。 記事には「通勤電車の場合、列車が何分遅れたら "遅れている" と感じるか」という調査結果の棒グラフが掲載されていた。西日本鉄道の場合、1分、英国のテムズリンクが5分、ニューヨークのメトロノースが6分とある。 こんな比較は、実に「無意味」で「ナンセンス」だと、わたしは思う。そもそもの基準、スタンダード、標準が違うもの同士を、比較しようがない。 日米は、国土の広さが違う。人口密度が違う。通勤時に列車に頼る人たちの人数が違う。人々の「時間を守って仕事をきちんとこなそう」という真剣みが違う……。と挙げれば切りがないほど、背景が異なっている。 主流をなす精神構造が大きく異なる日本において、米国流に「リラックスしろ」と言われたところで、それは一朝一夕にできることではない。そうすることで問題が解決するとも思えない。 米国をはじめ、他国の人々からみれば、日本人の「スケジュール管理能力」は、多分「神業」の域である。それは、海外に出ればよくわかることだ。その神業を巧みにこなしていた中で、今回の悲劇は起きてしまった。 だからといって、他国と比較した上で、「リラックスしろ」だの「日本人は時間に厳しいから事故が起こった」などと言うのは、やはり論点がずれていると思う。 わたし自身、編集者という職業柄もあり、多分平均的日本人以上に、スケジュール管理を重視してきた。フリーランスになってからはなお、「時間対効果」を考え、いかに効率よく仕事をし、収入を得、自由時間を作り、好きなことをしながら生活するかがテーマだった。 スケジュールを管理すること、時間を守ることによって得られる利点は多い。それは自分の能力管理にも結びつく。時間をうまくマネジメントできるというのは、肯定されるべき才能の一つだとも思う。 多分、日本人にとってはまた、時間を守ることは即ち、相手に対する「誠意」の現れでもある。 だから、時間に鈍感な国の人に、日本人の「長所とみなされる部分」を否定されるのは、どうも納得がいかないのである。確かに、それは「過剰」であるにせよ、改善の余地が大きくあるにせよ、今回の事故の原因を、そこに集約しないでほしいのである。 これでは、「時間を守る (punctuality)」=「融通がきかない (no flexibility)」と言っているようなものだ。だとしたら、「時間にだらしない」=「融通がきく」ということになるのか。それは違うはずだ。あくせくとするだけが、時間を守るための手段ではない。 わたしは、ニューヨークからDCに行き来する際、アムトラックと呼ばれる長距離列車を利用している。これまで何十回と乗ったが、1時間に1本のこの電車が、時間どおりに発車したことは数回しかない。数分から数十分遅れるのはごく普通のことだ。 特に、ボストン発、ニューヨーク経由でDC入りする便は、遅れて当然という状況で、便がキャンセルになることもしばしばだ。ペンステーションで1時間以上待つことは、最早慣れっこである。 車社会の米国で、鉄道は斜陽産業とはいえ、その運行スケジュールの不確かさは著しい。 更に、ニューヨークのペンステーションの場合、電車が乗り入れるプラットフォームは毎回、違う場所ときている。電車が到着する直前まで、どこに行けばいいのかわからない。 人々は、出発の数十分前から、バナナをもぐもぐ食べたり、アンティ・アンのプレッツェルをかじったり、時にスーツケースの上に座ったり、地べたに座り込んだりしながら、手持ちぶさたに、発着案内の表示板を見つめるのである。 やがて自分の列車の到着が近づいてくると、アナウンスに聞き耳を立て、表示板を凝視する。そして "WEST 12" とか "EAST 8"とか案内が出た瞬間に、どどっと皆が、プラットフォームへ向かうエスカレータへ駆けるのである。 わたしなどは、「今日は、"WEST 8"に違いない……」などと、ギャンブルよろしく予測をたて、あらかじめその周辺に立ってみたりする。たまに当たると喜んだりなんかして。 そんな時間にルーズな列車だから、点検は万全で安全なのかと言えばそうではない。数年に一度は脱線事故などが起きているし、死傷者が出る事故も少なくない。台風が来れば止まる。嵐が来れば止まる。すぐにくじける。 列車は座席が広いこともあり、乗り心地は悪くないが、しかし非常に揺れる。読書などしようものなら、たちまち酔う。 米国の鉄道とは、概ね、こういうものなのである。 たとえばワシントンDCの場合、バスもひどい。我が家の界隈には、地下鉄駅がないので、もっぱらバスを利用しているが、このバスがもう、話にならないのだ。バスの乗り心地の悪さもさることながら(DCは道路がガタガタな上に、バスそのものにクッション効果がないせいか、振動が激しい)、時間どおりに来ないのである。 我が家は、マサチューセッツ通りとウィスコンシン通りの交差点に位置しており、それぞれの通りを行く2ルートのバス停がある。どちらも平日の日中は7分から10分おきにバスが来ることになっている。 来ることになっているのだがしかし、10分、20分、30分と待っても来ないことは日常茶飯事。ようやく来たかと思えば、4台5台が団子状態でやって来るのである。列車じゃないんだから。どうしてこんなことになるのか、わたしには、わからない。 米国のバスの場合、どのバスにも身体障害者を車椅子ごと乗せられるようになっており、その際、数分の時間を要するために遅れると言うことも考えられる。しかし、それにしたって、遅れすぎ、乱れすぎである。 このような団子状態は、特に朝や夕方のラッシュ時に起こる。ラッシュ時こそ、定刻通りに、という概念は、通用しないのである。対策もとってなさそうである。従って、バスを待つ人たちと世間話になることも少なくなく、数十分ののちにようやくバスが来た日には、 「やれやれ、永遠に来ないかと思ったわよね〜」などと言い合うのである。 そんなわけで、わたしはここから徒歩30分ほどのジョージタウンへも、デュポンサークルへも、しばしば歩いていく。バスを待っていると時間の無駄なのである。エクササイズによいのである。 歩いている間、1度たりともバスに追い越されないことも多々あり、そんなときは、「歩いてよかった!」と、妙な達成感すら覚えてしまう。 こういう事情を鑑みれば、米国と日本を比較することが無意味であると、お分かりいただけるかと思う。 「90秒」を「遅れた」とみなす日本について、短絡的に異常視するのはよしてほしいと思う。 以前も書いた気がするが、また書きたくなったので、書く。『街の灯』でも、いくつかのエピソードで触れたことだが、わたしが米国に暮らしはじめてまもなく驚いた、というか呆れたのは、米国のサービス業のサービスの悪さ、時間のルーズさ、インフラストラクチャーの悪さであった。 たとえばトラブルは、引っ越しのときから始まる。家具は時間通りに来ない、荷物も予定通りに届かない、電話工事に手間がかかる……と枚挙に暇がない。多人種が混在するニューヨークだからか、統制がとれぬ故にか、とも思ったが、ワシントンDCも負けてはいない。 そもそもDCは財政難のせいで、超大国の首都とは思えぬほど、インフラが劣悪だ。まず、水道管が古い。詳しいことは忘れたが、怖ろしく古いらしい。 数年前、あるメディアでジョージタウン近辺の水は「人体に悪影響を及ぼすほど」汚れていると取り沙汰された。それを受けて、去年だったか、水道局から通知が届いた。「水道管工事のため、当面、水道水に薬品を多めに混入しますが、健康を害することはありません」と。 健康を害さないと言われたって、「薬品が多めに混入されている」と言われては、いかにも気持ち悪い。だから水道水をそのまま飲むことはない。 巨大な鉄板で蓋をすることで、お茶を濁されているところも多い。車が通過するたびにガンガンと音が鳴り、うるさい。 水道管が破裂する分には、まだいい。水だから。 数年前は、ダウンタウンのホワイトハウス近くで、老朽化したガス管からガスが漏れた。そのガスが路上を走る車の摩擦熱で引火し、車は炎上、幸い、ドライバーは逃げたものの、しばらくの間、道路から炎があがっていた。フランベじゃあるまいし、路上がメラメラと燃えてどうするのだ。 ワシントンDCは、街路樹が多く緑豊かで、自然美に満ちているのは長所である。しかし長所は即ち短所にも転ずる。 2年前の台風では1、2日は当たり前、1週間近くも電気が復旧しなかった家もあった。そんなこともあり、我が家の2ブロック先にあった、美しい並木道の巨木らは、つい最近、すべて伐採されてしまった。 DC内の公立学校の設備も劣悪で、「水漏れのために図書館が利用できない」とか、「椅子や机がボロボロだ」といった問題もよく聞かれる。市長曰く「教育費に予算を割く努力はしているが、追いつかない」とのこと。 挙げればきりがないが、米国とは、超大国とはいえ、それなりにたいそうな問題を抱えているのである。 つまりここでも、言いたいことは似通っているのだが、日本のメディアそのものにも、そしてそれに登場するの知識人たちにも、何か事件やトラブルがあるたびに、「米国では云々」と、まるで「お手本」を語るみたいに米国のことを引き合いにださないでほしいのである。 これだけ世界中の情報がすぐさま手に入る現代なのだから、幻想や想像をもとに語らないでほしいのである。なるたけ真実に近いことがらを、的確に、伝えて欲しい。さもなくば、解決の糸口が見つからない。核心がぼやける。 ところで最近、日本人が著したインド関連の本を大量に購入して読んだ。 読み進むうち、不快な気持ちにさせられることが少なくなかった。書き手の視点は、当然ながら「日本-インド」の二国間に限られているため、日印の違いがことさらに強調されている。それはおもしろおかしいのだが、同時にインドを「見下した」様子に満ちている。 「時間を守らない」「いい加減」「人をだます」「インフラめちゃくちゃ」「汚い」「貧富の差、激しすぎ」 確かにその通りだ。否定はすまい。けれど、PIOカードも取得して半ばインド人のわたしとしては、私情もばんばん挟みつつの感情ではあるが、その「見下す姿勢」が腹立たしい。 米国での「時間を守らない」は「大らかさ」とか「融通がきく」などといい風に解釈され、インドでの「時間を守らない」は「だらしない」とか「いい加減」などと悪い風に解釈されるのだ。そのダブルスタンダード(二重基準)が、やな感じ。 「インドでは、家を改装するときに、部屋の壁にペンキを重ね塗るから壁が厚くなり、コンセントのカバーもはずさずにペンキを塗るから、カバーにペンキの汚れがついてしまう」といった記述を読んだときに思った。それって、ニューヨークと同じじゃない、と。 以前、ニューヨークで会社勤めをしていたときのこと。ニューヨークではさまざまに予期しない事情が起こるから、遅刻する人も少なくなかったのだ。ある朝、同僚から 「ベッドルームの壁が崩れ落ちたので、遅れます」と連絡が入った。 古いアパートメントの壁が、塗り重ねられたペンキの重みで、ズサササーッと崩壊したというのだ。その様を想像して、気の毒だが、最早コメディだと思う。 こんなこともあった。イーストヴィレッジに住んでいた知人が住むタウンハウスの向かいのタウンハウスが、ある日突然、「自然崩壊」したのだ。幸い、日中で、誰もいなかったから死傷者はいなかったものの、突然、タウンハウスが崩れ落ちたというから驚く。 その残骸を呆然と見つめていた知人に、年老いたご近所さんが言ったという。「君の住んでるタウンハウスは、あれと同じ時期に建てられたはずだから、気を付けた方がいいよ」と。 気を付けろと言われてもねえ……。じわじわと歩け、とでも言うのか。タウンハウスが自然崩壊した事件は、わたしの知る限り、5年間で2件あった。ともかく、この国はこの国なりに、日本では考えられないような出来事が、至るところで起こっているのである。 ネズミも出る。ゴキブリも出る。壁も崩れ落ちる。ペンキの厚みでコンセントにプラグが差し込めない。立て付けが悪くてドアが上手く閉まらない。床が何となく傾いている。天井の梁が歪んでいる。これもまた、ニューヨークの現実である。そういう現実と戦いながら、人々は強くなっていくのである。 うまく結論を締めくくれないが、グローバルだのインターナショナルだのと、世界に目を向けることも大切だけれど、何か問題が起こったときのその対策は、決して汎用性のあるものではないということを、改めて言いたい。
「東京裁判」については、インドに暮らし始めたころだったか、パル(パール)判事の存在を知った。世界各国の判事の中で、彼が唯一、無罪論を唱えたのかと思っていたが、実はそういうわけではなかったということを、このドラマを通して、知った。
後列左端がパル判事演じるイルファン・カーン。そしてその右隣がレーリンク判事演じるマルセル・ヘンセマ。その後、実際の70年前の集合写真が映し出された。
この写真で見る限りにおいて、レーリンク判事、ジュード・ロウに激似、である。
現在も残されている東京裁判の意見書の映像もまた、興味深かった。多数派の意見をまとめ東京裁判公式判決書のほかに、判事が個別に提出した意見書だ。インドのパル判事の意見書は最も分厚い。この意見書(判決書)がまとめられた本(一番上の写真にあるもの)を購入したが、まったく読めていない。
なお、靖国神社にある「遊就館」の入り口そばに、パル判事の碑がある。折に触れて記しているが、イデオロギーはさておき、靖国神社に参拝するかどうかも別として、この「遊就館」へ足を運ぶことをお勧めする。
★関心のある方には、このドラマをぜひご覧になってほしい。
(2016年12月)
今から20年前、東京で暮らしていたころに、一度、ふらりと訪れたことがあった。そのときのわたしは、今に比べ、思うところ浅く、祈るところ浅く。
★70年前の今日、広島に原子爆弾を落とした飛行機のこと。
(2015年8月)
11年前、この目で、広島に原子爆弾を落とした戦闘機、通称エノラ・ゲイを見て以来、毎年毎年、同じ記事を転載している。11年前の衝撃は、歳月を経てなお、新鮮に蘇る。
ともあれ、11年前に記した以下の記録。8月6日の今日、ぜひ、目を通していただければと願う。
8月6日。広島に原爆が落とされた日。 まずは2014年の記録から。
そうして、醜くも、忌々しくもなかった。
そのことが、何よりも、衝撃だった。
この銀色の飛行機は、飛んだだろう。
そうして、胴体をぽっかりと開いて、新しい爆弾を落とし、
そうして、夥しい数の人々を、燃やしただろう。
多分知ろうとする人もなく。
日本の戦闘機を睥睨するように。
その大きな飛行機の周辺に、主翼に日の丸のある日本の戦闘機が数機と、それからナチスのマークが入ったドイツの戦闘機などが展示されているのが見える。
※スミソニアンのサイトを調べていて、この戦闘機が、『紫電改』という名であったことを知った。この名前は『永遠のゼロ』を読んで初めて、戦闘機の名前だったということを知った。零戦と並ぶ有名な戦闘機だったらしい。
翼が極端に小さく、飛行機と言うよりは、まるでミサイルみたいに小さな「クギショー」と言う名の戦闘機があった。
※これもまた、『永遠のゼロ』を読んでわかったのだが、この戦闘機の名前は、クギショーではなく「桜花(Ohka)」であった。なお、Kugishoとは、海軍航空技術廠の略、「空技廠」のことらしい。
さて、エノラ・ゲイはいったいどの飛行機なのだろうと、コーナーをぐるりと回り込んで、息をのんだ。
呆然とした気持ちのまま、今度は階上にあがり、至近距離で操縦席を見た。中の様子が、見えすぎるほどにくっきりと見えた。説明書きによれば、広島に飛んだとき、12人の兵隊が乗っていたという。その様子を想像してみたが、うまくいかなかった。
わたしは、エノラ・ゲイを見た瞬間、自分は憎しみや悲しみに襲われるかもしれないと思っていた。でもわたしは、その機体を見て、それを美しいと感じた自分に、驚き、困惑した。
わたしは、日本の被爆者団体の人たちの訴えも、平和運動家の訴えも、至極もっともだと思っていたし、共感もしていた。
戦争反対を叫ぶなら、戦争がどのような状況だったのか、ということを知ることも、大切だと思う。戦争が美化されている云々の意見はさておき、靖国神社の遊就館は、訪れるべき場所のひとつだと、わたしは思っている。
★「国際化」とは何なんだ。日本、米国、インドに暮らして思うところの断片。
(2006年6月)※この記事は10年以上前に記したものをまとめており、現在の坂田マルハン美穂よりは異なる視点、未熟な考え方も散見されるが、30代、40代のころの文字をそのままに、手を加えず転載する。
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以下、ホームページに転載してるメールマガジンの記事ニューヨーク&ワシントンDC通信より、過去を遡って抜粋した。
●「国際化」したほうが、得することも多分、多々ある。 (3/24/2001)
●「先進国」「発展途上国」という、言葉について考えた。(1/25/2004)
●「90秒」と日本と世界 (5/11/2005)
●それぞれの国で、それぞれの理想を。(5/11/2005)街角ではしょっちゅう、水道管が破裂して、路上から水があふれ出している。それが何日も放置されていることもある。それに伴い、道路が陥没することも多々ある。だからDCの道路にはつぎはぎが多い。
育ちすぎた街路樹は、最早舗道の定められたスペースにおさまりきれず、根があふれだしている。そんな木々は台風が来るたびにあちらこちらでバタバタと倒れ、電線をなぎ倒し、停電させ、家屋を破壊する。