1月12日のジャパン・ハッバ(日本祭り)が終わるまでは、まだ切り替えが難しかった。しかし、終わってからは、じわじわと、しかし確実に、スイッチが、切り替わっている。今年やることを、削りつつ、優先順位を決めている。抱えるなかれ、欲張るなかれ。人生そのときどきのステージにあった生き方を選びたいとの思いを新たにしている。
ところで写真は昨夜の空。椰子の葉にひっかかる一番星。木枝に紛れる、うっすらと細く、生まれたての月。
◉アーユルヴェーダで心と身体のメンテナンス
かつてのように、リトリート(療養施設)に滞在はしなかったものの、1月中旬以降の8日間、毎日夕方の数時間、オイルマッサージなどのトリートメントを受けた。主には肩こりや腰痛、膝の痛み、めまいなどの軽減、予防のために。また後日、目のトリートメントも受ける予定。やはり、アーユルヴェーダはよい。こんな療法を気軽に受けられる環境が、ありがたい。
◉仕事や依頼を厳選する。なんでも引き受けない
これは勇気のいることだ。興味がないことならば、最初からお断りできるが、興味がある、やってみたい、という気持ちを抱えながら、辞退するのは難しい。しかし、年を重ねて経験を重ねれば、出会う人は当然増えて、リクエストの量も増える。常に心がけている「スケジュール表の余白作り」が難しくなる。
だから仕事は厳選しようと決めた。後ろ髪を引かれつつ、丁寧にお断りのメッセージを送る。中には、依頼するときには熱心に何度も、しかし断ると返信なし……というケースもあり、なるほど、これはお断りして正解だったと思う。わたしでなくても、よかったのだ。
人間関係が粗雑になる傾向が、年々加速する。懸念や疑念を打ち消しながら、自分にできることを。
波乱の歳月を乗り越えて、気づけば今の環境を享受できている。この先はもう、自己実現のためのライフゆえ、自分の得意を生かし楽しめて、未来のために貢献できることを賢明に選ぶ。
◉人との交流、アナログに戻る。本質に還る。
パンデミックの名残もあって、オンラインやZoomやらで、コミュニケーションがとれた気になる。でも、違うのだ。振り返って痛感するのだ。昔は、人と会って、打ち合わせをしていた。電話をかけて、声を聞いていた。相手の気配を常に感じながら、仕事をしていた。それが当たり前だった。
それがいつのまにか、実際に会ったり、電話をかけたりすることが、時間の無駄とされたり、電話は相手に失礼だとなったりしている。
先日も書いたばかりだが、敢えて書くならば。わたしたちは、それをやめて、豊かな時間を得ただろうか。利便性追求の果てに、安らぎや幸福を得ているだろうか。
20代、インターネットがなかった時代のことを思い出す。東奔西走、足を運んで、人と会っていた。会わずしては、仕事にならなかった。今でも懐かしく思い出す。馬車馬のように働いていた時代、取引先や下請けのオフィスを訪れるとき、ときには自腹で手土産を持参して、それを食べつつ、打ち合わせをしたり、語り合ったりした。
何十年もたって振り返ると、過酷な日々のなかの、しかし同志のような人々との関わりが、愛おしく、思い返されるのだ。仕事の内容そのものよりも、そのときの他愛のない会話や、食べたお菓子や、見聞きする世界のことが、心に刻印されている。
年を重ね、ライフスタイルも変わり、仕事の内容も変化して、ここしばらくは、公私いずれも多めの人数で集うことが多かった。でも、これからは、お会いしたい人とは、なるたけ小人数で、語り合う時間を持とうと思った。新年から、すでにそれを始めている。そこには、思いがけないご縁や共通項が浮かび上がる。人と出会い、語り合うことで、気持ちが活性化する。なにより、楽しい。
人との関わりも、丁寧に。旅をするにも、仕事をするにも、丁寧に。速度を落とす。
◉発信スローダウン。手書きの記録を丁寧に。不特定多数よりも特定少数の人に、直に伝える。
先のことはわからないが、ネット上における発信頻度を少し落とそうと思う。もう、世の中に情報が溢れすぎていて、何がなんだかわからない。誰もが瞬時に自分のことばを全世界に発信できる今の世界で。量より質をと思ってきたが、もう、伝えたい人に伝えることも、難しいということを、実感している。いったい何人の人が、今、この言葉まで辿り着いているだろう。
パラパラと、サラサラと、ザアザアと、流れ落ちるような活字の怒涛の中で、ネットの海の藻屑。本業はライターだと思っていたけれど、もう、それはあまり意味をなさない。
これまで以上に、手書きのノートを大切にする。そして、ご縁を得た人たちと、会って語り合う。ご縁を辿ってドアを叩いてくれた人たちと、会って語り合うを優先する。
「はじめまして」「久しぶり」と挨拶を交わし、「またね」「楽しかった」「元気でね」と手を振り別れる。そういう関わりを、大切にしたい。
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