FM熊本にて、毎月インドでの暮らしをレポートし始めたのは2008年1月。今日は120回目の収録日だった。120回目にして初めて、いったい何を話せばいいのだろうと、悩んだ。
悩んだ末、「熊本と、インドとわたし」について、話すことにした。もっとも、「わたし」との関わりについては、冒頭で軽く触れる程度で、主には、熊本とインド、である。
わたしは、1歳のときに福岡市に移ったこともあり、出身は福岡としているが、生まれたのは、当時、父の転勤先であった熊本県荒尾市であった。原万田という町に居を構えていたらしい。
わたしが生まれたのは、「緒方産婦人科」だと聞いていたので、昨夜、Googleマップで調べてみたところ、果たして今でも病院はあった。
当時、緒方先生は米国だか英国だか、ともあれ海外での研修を終えて戻られたばかりだったとのことで、夫、即ちわたしの父が立ち会っての出産を勧められたという。今から50年前の日本で立ち会い出産とは、かなり珍しかったはずだ。わたしは4050gという丸々とした赤ん坊として、この世に生まれた。
福岡市に移ってからも、幼児期には何度か、熊本を訪れることがあったようだ。それは主に、父方の祖父母と共に、熊本市の花岡山へ、であったようである。
この花岡山にこそ、インドと熊本との、深い結びつきを象徴する建物がある。
日蓮宗、日本山妙法寺の仏舎利塔だ。
父方の祖母は敬虔な日蓮宗の信者であったことから、子どものころには、日蓮上人銅像のある福岡市吉塚にある東公園へも、しばしば連れられていったものである。
子どものころのわたしにとっては、ハトに餌をやるくらいしか楽しみのない目的地ではあったが、祖父母との外出において「日蓮さんへのお詣り」は、欠かせなかった。
わたしが日蓮宗の僧、藤井日達上人について、詳しく調べ始めたのは、実はインドに移ってからのことだ。ムンバイにある日本山妙法寺、そして日本人墓地を訪れ、妙法寺の森田上人とお話をする機会を得たことが、契機だ。
わたしと日本山妙法寺との関係については、過去のブログで何度か触れたので、ここでは熊本のインドのことにのみ、言及したい。
●熊本県出身の藤井日達上人とインドについて。
花岡山には、日蓮宗の仏舎利塔がある。この仏舎利塔に納められている仏舎利(入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵)は、インド独立直後からの初代首相、ジャワハルラール・ネルーから贈られたものだという。
1954年(昭和29年)、日本とインドの友好と世界平和を祈念して、ネルーは10粒の仏舎利を日本に贈呈。これを受け、日本の各地に仏舎利塔が建立されたという。
この仏舎利塔を語るに不可欠な僧、藤井日達上人(1885〜1985年。99歳で没)について、ここで説明しておきたい。
熊本生まれ、日蓮宗大学(現立正大学)を卒業。日本山妙法寺を世界各地に建立。第二次世界大戦後は、不殺生、非武装、核廃絶を唱えて、世界各地で平和運動を展開した。以下、インドと関係のある出来事からいくつかを取り上げてみた。
●1885年、熊本県阿蘇郡坂梨村生まれ。
●1903年、大分県臼杵の日蓮宗法音寺にて出家。
●1918年、満州の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立。
●1924年、静岡県富士郡に日本で最初の日本山妙法寺を建立。
●1925年、熊本県花岡山に行勝寺(現日本山妙法寺)を開堂。
●1931年、インド、カルカッタ(現コルカタ)に上陸。仏跡巡礼開始。以降、約50年に亘り、インドに幾度も長期滞在、過酷な生活環境の中、仏教復興に献身。
●1932年、ボンベイ(ムンバイ)の火葬場に道場を開堂。
●1933年、マハトマ・ガンディーと会見。日本の仏法を伝授。非暴力主義に共鳴。
●1954年、ネルー首相から贈られた仏舎利を納めた仏舎利塔を、花岡山山頂に建設。以降、各地に仏舎利塔を建設。
●1962年、ニューデリーの「核武装反対会議」に参加。
ところでこの写真。久しく実家の写真箱に眠っていたものを、数年前にインドまで持ち帰ってきたものだ。左端の記録を見ると、「御佛舎利奉迎記念 昭和十四年六月一日 花岡山行勝寺」とある。昭和14年といえば1939年。
ネルーからの仏舎利を受け取るのはそれから10年以上もあとのことなので、この御佛舎利奉迎が何を意味するのかはわからない。
わからないが、ここには藤井上人はもちろんのこと、当時は30代半ばであったろう祖母らしき女性も映っている。赤い円で囲んでいる人物がそうだ。この写真のほかにも、数枚、藤井上人が写ったものがあったが、中でもこれは、印象深い一枚である。
象の姿は見えぬけれど、これは一目見て「象に乗っている」とわかる一枚。これもまた、実家にあった写真だ。わたしはてっきり、これは藤井上人がインドを訪れた際に撮影されたものだろうと思っていた。それにしても、いくら熱心な信者だったとはいえ、当時のインド滞在中の写真までも「シェア」してもらえたとは……と、経緯に思い巡らせたものだった。
実は夕べ、今回FM熊本のラジオ放送で、花岡山の仏舎利塔について触れるべく、日本山妙法寺のサイトを開き、花岡山の仏舎利塔についての記述を読んだ。
そして、一枚の写真を見て、目を見張った。許可なく転載してはならないので、ぜひともこちらのリンク(←Click!)をご覧いただければと思う。上から6枚目の写真。
花岡山に、インドから贈られたという象がいるではないか! 象使いの男性の衣服が同じだから、同じ時に撮られた写真に違いない。
キャプションのみ、こちらにも転載する。
花岡山仏舎利塔に贈られた象 昭和26年9月25日 インドのビルラ長者が花岡山の宝塔建立を讃仰され、象「スッカマンガル(幸福)」を贈られて、花岡山に登山し建立中の宝塔を礼拝した。現在熊本市動植物園に標本として資料室に展示されている
ちなみに、「ビルラ長者」とは、ビルラ財閥のことで、マハトマ・ガンディーはビルラ家と懇意にしていた。ガンディーが暗殺されたのは、ビルラ邸の庭において、である。
ビルラ家は、ムンバイの日本山妙法寺や日本人墓地の建設に際し、支援されたとのこと。今なお、代々、日本山妙法寺への支援は続けられているようである。
そのビルラ家の当主自らが、花岡山へ赴いたのであろうか。過去を紐解けば、次々と、興味深い事実に巡り会う。
ところで「スッカマンガル」とは、本当に「幸福」という意味なのか、という点については、実はよくわからない。夫に尋ねたところ、「スッカマンガル? なにそれ」と、理解し得ていない様子。ヒンディー語ではなく、サンスクリット語、なのだろうか。
ともあれ、次回の帰省時には、できれば熊本へも足をのばし、花岡山の仏舎利塔へ足を運びたいと思う。
なお、過去の関連記事へのリンクを、以下にはっておく。個人的な関わりが中心ながらも、インドと日本を結ぶ興味深い話題にも触れているので、ぜひ目を通していただければと思う。
■2013年5月:1年ぶりのムンバイで、100年前の日本人を思う。