3月に入ってからの、大中小のプロジェクトがようやく先ほど、完了した。1日、2日で終えられる仕事と、数週間に亘るプロジェクト。
いずれも渦中は、頭の中がいっぱいになりがちだが、それでも独自の視点で見るインドとは別に、仕事を通して見るインドは、新しい視界が開けることが多く、面白い。
コーディネーションやレクチャーなどの仕事を除いては、わが仕事の「納品」のほとんどが、電子メールを通してのものとなる。
レポートであれ画像であれ、意図的に手書きの情報であれ、すべてはコンピュータ上に取り込んで、メールで送信する。
最終校正をすませたあと、送信ボタンを押し、データが流れる様子を確認したあとの、達成感。
それが夕刻であれば、日の高いうちからビールをあけたりする。尤も、日々、なんらか「飲んで」はいるのだが、このときの一杯は、格別なのだ。
その思いに多少の波があったとはいえ、途切れることなく連なっているからこそ、1年経った、1周年だ、と改めて実感する気持ちになれなかった。
心のなかに渦巻く、途方に暮れる思いや、怒りや、情けなさや、絶望や、焦燥や、自分の無力さや、そういう一切合切が、消化不良だ。
この1年というもの。
目に留まる原発事故関連のニュースは、積極的に見てきた。日本では報道されない現実を、英国やドイツや米国のドキュメンタリーやニュースを通して、知った。
福島だけではない。
日本が、日本周辺の国々が、地球の各所が、日本の原発事故によって、たいへんな痛手を受けているという事実の重たさ。
真実の欠片らしきものを見聞きするたびに、堪え難い思いにかられる。
それでも日々を生きねばならぬ、特に被害の大きい場所に暮らす、渦中の人々の心を思うといたたまれない。だからといって、わたしはなにをしているだろう?
わたしには、わたしの、インドでのライフがある。
LIFE。人生。生命。生活。世間。実物。本物。生き方。元気。活気。活力。生涯……。
わたしのライフは、2001年9月11日を境に大きく変わった。
わたしの、わたしのライフを見る目は、2011年3月11日を境に、大きく変わった。
絶望と希望と無関心と哀しみと、日本。
日本人としてのわたしが未来を思う時、もう、心の底からの明るさは期待できない。戦争でも、テロでもない。天災でもない。
地震、津波、そして原子力発電所の事故。予測されていた人災。
放射性物質の拡散、蔓延。
人の手によって作られていた。人の手によって育まれていた。その存在を享受していた。知らなかったではすまされないことを、わたし自身を含め、多くの日本人は、看過してきた。
声を大にして、疑いの叫びを上げてきた人の声は、打ち消され続けてきた。
利権、利益、地位名誉。そういうもののために、為政者たちは。そこに連なる群がる人たちは。
できることなら、世界中の識者を、専門家を、知力を集めて、福島の、収集のつかない福島の惨事を、これ以上拡大させないために、収束させて欲しい。
どれほどの生身が、生命が、高濃度の放射性物質に晒されながら、遅々として進まぬ作業を行っていることか。どれほどの危険が未だに、残されていることか。
1年がたち、そらぞらしい言葉ばかりが蔓延し、それらの言葉の、耐えられない軽さ。
たとえば、放射性物質で汚染されたガレキを、日本の各所で受け入れることが「絆」? 冗談じゃない!
本気で、それ以外の対策を講じることができないとしたならば、もう……。
一方で、重く受け取られるべき天皇陛下の言葉の一部は削除されて流され、愛すべき隣国、台灣は無碍に扱われ……。
さまざまに賛同したり、支援したり、反発を覚えたり、した。
心が揺れたし、乱れた。憤ること少なからず、無力さに途方に暮れた。
絶望的な気分に陥ったかと思えば、その非現実的な現実からカラリと転じて、次の瞬間は、くだらぬことで、腹の底から笑っていたりする。
それが人間のたくましさであるのだと、自分を取り繕いながら。
真実はどこにあるのか。
自分の目で福島を、その界隈を、見たい。が、それをしなかった自分の不全さに、発言する資格はないと自粛した。
福島のために、日本のために、地球のために、損得勘定なく、人知れず尽力する人々に、感謝と敬意を表しつつ。
やはり何かを書かずにはおれず、書いてしまったが、思うところはこんな1500文字程度ではない。が、うまく自分の言葉を綴る自身もなければ、いったい誰に向かって何を訴えたいのかもわからない。
ともかくは、自分の気持ちを少しでも消化するために、書いた。
社会問題が山積するこの国に暮らし。
資本主義、豊かさ、先進国、発展、テクノロジー、先端……。
われわれ人間は、地球に属する一種の動物であることを、忘れすぎていた。
ということを、切に切に思いながら、接近した木星と金星を眺めた夜だった。
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