京都から福岡に戻って来た。天候にも恵まれ、本当によい旅だった。旅の詳細を、逐一報告する気分にはならないのだが、しかし、心を痛めている場合ではない。ましてや感傷に浸ったり、無闇に何かを恐れている場合でもない。
先ほど、インターネットのニュースを見た。タージマハル・パレスのWASABIで、未だ銃撃戦が行われているという。WASABIとは、8月31日の我が誕生日を過ごした日本料理店だ。森本さんやスタッフの方々に祝福されて、本当にうれしかったあの夜(←文字をクリック)。戦場でもない場所で、多くの血が流されているとは。
惨劇の舞台が、あまりにも、あまりにも、わたしたちに身近な場所であるだけに、あれこれと思いは尽きぬが、何かが起こるときには、起こるものなのだ。
「普段よく訪れる場所が……」
「もしも、一日ずれていたら……」
「あそこは、わたしもよく利用する店で……」
こういうことが起こると必ず、口にしたくなる言葉である。しかし、このようなコメントは、正直なところ何ら意味がない。遭遇したか、遭遇しなかったか。生きているか、死傷してしまったか。二つに一つである。
だからこそ、無駄に想像力を豊かにして、いつまでも滅入っている場合ではない。いや、まだ1日半しかたっていないのだが、それでもだ。
うまく言えないが、ともかくは、二つに一つ。戦場はともかく、どこにいたって、生き延びる人は生き延びるし、不運にも亡くなる人は亡くなってしまう。だから、「気をつけて」と言われても、実のところ、気をつけようがない。
事件はまだ、続いているし、これからも延々と続くだろう。身も蓋もない、と言われるだろうが、テロがこの世から消えてなくなることはないだろう。少なくとも、わたしがこの世に生きているうちには。
だからこそ、自分がどういう姿勢で日々を生きていくかが、すべてなのだ。せめて心意気だけでも、果敢でありたい。
9/11のときに体得したさまざまなこともまた、今の自分に反映されている。すべての経験を糧にして、日々を大切に生きなければと、改めて思う。
さて、一昨日、昨日と、記録を残さぬままだった京都旅。綴りたいこと山のごとしであるが、夜も更けて来たので、写真だけでも、記録しておこう。
快晴の朝。訪れたことのなかった南禅寺から哲学の道にかけてを、歩く。
赤に黄色にさまざまに、色づく紅葉の麗しさ。
静かに眺められればどんなにかいいだろうと思うけれど、そうはいかないハイシーズン。
あまりの観光客の多さに驚くが、タクシーの運転手から「連休中はこんなものではなかった」と聞かされる。
見どころは、どこもかしこも人の波で、渋滞著しく、身動きとれない場所が無数だったとのこと。
連休をはずして本当によかった。
さもなくば、紅葉狩りどころか、人を見に行ったようなものだったろう。
寒いと思って二人して着込み過ぎ、暑い。
■26日午後:金閣寺
十年ぶりの金閣寺。やはり、このきらびやかさのインパクトは強い。ストレートに、わかりやすく、美しい。どうにも、写真におさめずには気がすまない在り様だ。
思えばあのときが、アルヴィンドが初めて抹茶を口にしたときだ。
作法もなにもないけれど、ともあれ、おいしい。
■26日午後:嵐山 常寂光寺
■26日午後:嵐山 竹林
■26日午後:嵐山 天龍寺
■27日午後:錦市場
錦市場の「有次」で、包丁を買った。いい買い物をしたと思う。本当にうれしい。
東京でのフリーランス時代、当時JTBから出版されていた「旅」の仕事をしばしば受けていた。
あるとき「女性ひとり旅の京都」をテーマに、まさに一人で取材旅行に出かけた。プロのカメラマンではないけれど、そこそこに写真を撮ることができるので、編集者曰く「カメライター」のわたしは、文章写真の両方を、一度に引き受けていた。
はっきりいって、「低予算企画」の、わたしは担当であった。しかし駆け出しのフリーランサーだったわたしにとっては、そんな仕事でも、どんな仕事でも、有り難かった。
あのとき、この「有次」を訪れた。包丁を買いたいと思った。でも、どれもお値段がよすぎて、手が出なかった。
15年の歳月を経て今、買えたことの喜び。これは、ムンバイ宅で使うことにしよう。名前を刻印してもらえる。「美穂」とだけ頼んだら、横からアルヴィンドが「当然、僕の名前も入れてくれるよね」とのこと。やれやれ。
……美穂 アルヴィンド
かなり間抜けな仕上がりとなったが、まあこれも一つの思い出であろう。これで料理をすることが、よりいっそう楽しくなるだろう。
■28日午前:護王神社〜京都御所
■28日午後:二条城周辺