本日、ヴァレンタインズデーである。わたしからハニーへは、コラバ・コーズウェイで昨日購入したTシャツをプレゼントした。
ご近所ウォーキングを始めた身にとっては、実用的なギフトである。
写真の撮り方がまずくていまひとつ味わいが伝わらないが、気に入っているのが右端のTシャツ。
カラスが "I ♥INDIA" と言っているもの。
かわいい。
自分用にも購入した。
ちなみにこのTシャツ、ムンバイ発のTANTRA(←文字をクリック)というブランドで、インド各地の土産物店などでも入手できる。
先日、INDUSのレクチャーで隣席になったインド人女性(ジュエリーデザイナー)の夫が経営している店らしい。
ということで、いつもは通り過ぎるだけの店に入り込んで、カタログを見せてもらい、主にはふざけた、いやユニークなコンセプトのTシャツ群の中から選んでみた次第。
Tシャツそのものは生地がしっかりしており、クオリティも悪くない。お土産にも好適である。
さて、ハニーからわたしへは、何かギフトはあったのかといえば、ない。ないがまあ、一日楽しく遊び回って、それが即ち、ギフトのようなものである。ということにしておこう。
正午ごろ家を出て、まずはコラバのYMCAへと向かう。ここでINDUSが主催するチャリティ・バザールが開催されているのだ。
大勢のインド人マダムや駐在員マダムらが、それぞれのブースで販売の手伝いをしている。知人のエマとその友人も来ていた。
わたしは手伝う側には回っていないが、しかし、ここで必要なものを購入できれば、それが慈善団体への支援になる。ひとつひとつのブースの商品に目を走らせる。
今日、目に留まったのは写真上中段の紙袋。ダウン症の女性たちを支援する慈善団体のブースで売られていた。これらの作品が、かなり高品質ですばらしい。ムンバイ市内に団体があるというので、近々訪問してみようと思う。
その他、ペンケースや携帯電話入れなど、かわいらしい手工芸品も購入。
自分の好みに完全に一致せずとも、必要なもの、あるいは役に立つと思われるのは、市井の店で買うよりも、こういう場所で購入したいと思う。
わたし自身が選んだ商品をフェアトレード(プラスα:利益)という形で地道にでも販売できれば、と思うのだが、物販は簡単でないことはよくわかっているので、踏み切れない。
さて、本日のランチは、初めて訪れるシーフードレストラン。ムンバイで人気のTrishnaという店だ。
給仕の勧めに従い、ポムフレット(マナガツオ)のグリルに、キング・クラブ(カニ)のバターペッパーガーリック風味、それから野菜炒めを注文。
ポムフレットはこんがりと香ばしくグリルされていて、見た目の地味さに比して味わいはかなりよい。ビールにもよく合う。
お待ちかねのカニ料理は、インド料理ではない味付けだが、しかしナンとともに味わう。
やったらめったら、ガーリックのみじん切りがたっぷりのソースであったが、その濃厚な風味がよく、ガーリック好きなわたしたちにとっては、とても美味であった。
黙々と、食べた。
どうもMSG (Monosodium Glutamate: 化学調味料)が多用されている気がするのだ。
よく見れば、中国料理のメニュー部分の上部に、「12歳以下の子供の身体に、MSGはよくありません」と書かれてある。
紛らわしいというか、ナンセンスな表示である。
「MSG使っているから、12歳以下の子供には食べさせるな」ということなのか。
身体によくないのは、大人にとっても子供にとっても同じことなのだと思うのだが。
日本や中国、東南アジアなどでは、さまざまな料理に化学調味料が多用されているが、欧米ではかなり敬遠されている。
たとえばニューヨークでも、「当店ではMSGを使用しておりません」という表示を出す中国料理店もあるくらいだ。
我が家は醤油などにすでに含まれているものは仕方ないにしても、家庭料理でMSGを使うことはない。加工食品を使うこともほとんどない。
だから、味覚がMSGや食品添加物に対して敏感になっているのだろう、昨年久しぶりに日本へ帰国した時にも、日本の加工食品の多さと食品添加物の派手な使われっぷりに、驚いたのだった。
この件については、実はあれこれと書いたのだが、結局、アップロードしないままに終わっている。
ともあれ、この店がMSGを使っているのかどうか、明らかではないが、次回訪れるときは確認のうえ、MSG抜きで調理してもらおうと思う。
さてランチのあとは、先日訪れた「カラ・ゴーダ・アートフェスティヴァル」へ。店が会場近くだったので、腹ごなしも兼ねて歩くことにしたのだ。先日に比して土曜の今日は人出も多く、たいへんな賑わいだ。
アルヴィンドも、例のラジャスタン地方のテキスタイルが気に入って、クッションカヴァーを二つ、購入した。
その後、ウィリンドンクラブへ。ここのプールでひと泳ぎした。食後数時間をおいてから泳いだのだが、ビールが抜けきっておらず、ちょっと泳いだだけで疲れてしまう。
泳ぐ前に飲むものではない。
それにしても、ムンバイは今が一番心地よい気候だと思う。確かに外は暑いが、それでも空気は軽く、室内は涼しく、特に朝晩は快適だ。
そのせいもあるのか、バンガロール宅を恋しく思うこともなく、日々を過ごせている。
さて、泳いだ後は、サリーに着替えてラウンジで休憩。緑をわたる風を受けつつ、フレッシュライム・ソーダを飲みつつ、心地の良いひとときだ。
なぜサリー着用かといえば、今夜は、NCPAのコンサートに赴くのだ。
前回のメサイアのコンサートは、急にチケットを購入してそのままコンサートに突入したため、アルヴィンドはハードロックカフェなTシャツで場違いなムードを漂わせていたが、今日のところはきちんとした服装である。
本日のサリーは、先日ワールドトレードセンターのフェアで購入した絞りのサリー。
ブラウスは、近所にとてもいいテイラー(店主いわく、デザイナー集団)を見つけて作ってもらった。
バンガロールのデザイナーに作ってもらっていた(こちらは本当にデザイナー)、若干割高のサリー用ブラウスを、安値でコピーしてもらうことができたのだ。
従来のインドサリーのブラウスと違い、きれいな立体裁断になっており、また裏地の処理もきちんと施されていて美しい仕上がりなのだが、その通りに仕上げてくれたのだった。
バンガロールのデザイナーには恐縮だが、バンガロール滞在日数が少ない今となっては、ムンバイでブラウス制作の必要があり、やむなしである。が、うれしい。
さて、コンサート。それは本当に、すばらしいひとときであった。いや、すばらしさに水を差すエピソードがいくつかあるのだが、それは今日のところは綴らずにおこう。
A living classic: Karl Jenkins's popular works
The Symphony Orchestra of India
指揮:Karl Jenkins
ヴァイオリン:Marat Bisengaliev
Palladio
Sarikiz
Adiemus......
弦楽オーケストラ、舞踊、合唱、独唱、タブラなどによって奏でられる音楽。
音楽を聴きながら、過去の記憶が次々に蘇ってくる。自らの、主には旅の経験と、映画の中の映像とが交互に。
あらゆる記憶は、まさに握れば指のあいだより落つ砂のようだ。さらさらと、というよりはもう、ざあざあと流れ落ちて、掴めるのは、小さな手のひらの中に残された小さな一握りで。
経験を、写真に撮ったり、言葉にして記録したりすることの意味はなんだろうと、このごろはよく思う。誰かに何かを伝えたいというよりも、結局は自分で、自分の中身を整理したいのだと思う。
手のひらに握っていられるのは、ごくわずかだとわかってはいるのだが、かき集めて、束ねて、整理しておきたいのだと思う。しかし、どうしてそうしたいのかは、よくわからない。
よくわからないけれど、衝動に任せて、今日もまた綴っておこう。
今日、耳にした音楽から導きだされた映像。映画の、思い浮かんだもののなかから。
アフリカや、ジプシーや、大陸を結ぶ道筋など。
ゴビ砂漠の見渡す限りの荒野の夕暮れの、巨大な太陽の沈み
ゲルの中で村長が歌う、森羅万象を揺さぶる大地の歌
ブダペストの、食料品店に並ぶ貴腐ワインのボトルの黄金色
ジブラルタル海峡の曇天、彼方はモロッコ、アフリカ大陸の方角に屹立し
プラハの、教会の、弦楽四重奏と、ステンドグラスからこぼれる夕映え
ピレネー山脈を超えての向こうはアフリカなのだ、とナポレオン曰く
ハイウェイに現れた「ゲルニカ」の文字を通過してゆく
フラメンコダンサーの、眉間の皺と、スカートの裾と、たくましい足首と
かき鳴らされてかき鳴らされて夕闇に溶けるギターの叫び
万華鏡越しに、ぐるぐると回る、いくつもの、ひとりの愛しきひと
ブロードウェイのミュージカルのアイーダの、空気を轟かせる絶唱
音楽を、ただ、音楽を聴いているだけで、過去の記憶が次々と、鮮やかに蘇ってくる。よき音楽は、まるで脳内を活性化させてくれるようだ。
わたしは、20代のころ、なにはなくとも、旅にお金を使った。あのころ、古びた服を着て、カメラとフィルムとノートとペン、最低限の荷物だけを携えて、安宿を転々と、ひたすらに旅をした。あのころ、ひとりで旅をして、本当によかった。
特に、28歳のときの、欧州を放浪した3カ月の旅が、いかにたいせつなことだったかが、歳を重ねるとともに、身にしみてくる。
きっと今の自分を作り上げるうえで、不可欠なひとりきりの3カ月だったと思う。あのような自由を得られることは、人生のうちでそうないと、今になってよくわかる。
パリに降り立ち、そこから、ただ直感に任せて、心の赴くままに、3カ月の行程を決めながら、列車を乗り継いだ。車窓の向こうに、無数の街が、村が、流れた。
雲の流れを見つめながら、青空の嘆きに耳を傾けながら、陽光の懐かしさに呆然としながら。
いったいいくつの教会へ足を運んだことだろう。いくつの教会で、片付かない感情を洗い流そうとしただろう。
旅の経験は、まぎれもなく、わたしの血となり肉となり感傷となっている。そうしてちょっとした弾みに、あふれだしてくる。
30歳を過ぎてからの旅よりも、20代のころの、今からは遠い記憶の方が、より鮮明に思い返されるのはなぜだろう。多分は、経験が少なかった分だけ、見聞きしたものすべてをぐんぐんと、吸収したのだろう。
若いうちに、ひたすらに旅をすることは、本当に大切なことだったと、今になって思う。お金がなくても、何を犠牲にしても、ぎりぎりで旅ができるのは、体力と、好奇心がみなぎっている、若いからこそ、だった。
守るものなど、なにもなかったからこその、だった。
今はもう、あんな旅はできない。やりたいと思う衝動を、相当に無理をしてでも、押し通しておいて成し遂げておいて、よかった。
今はもう、違うステージに立っていて、異なる種類の欲求が生まれ、異なる種類の旅の形を、できるようになり、またそれを望んでもいて、だから、そのときどきにできることを、できるうちに成し遂げておくのがいいのだろう。
まだまだ旅を。
今日聴いた音楽の中から。ミュージシャンたちは異なるけれど、その旋律をYouTubeに見つけたので、参考までに。