空港のある北ムンバイから、我が家へ向けて南へ走る途上で、いつも目に飛び込んでくる看板。気になっていた。
DEAD CENTER OF TOWN 街の、死のセンター
往来の激しい通り、周辺にはレストランや玩具店などが立ち並ぶ繁華街のただ中にあって、それはあまりにも似つかわしくない看板である。そのせいか、小さな店舗にも関わらず、強い存在感を放っている。
看板の下には、霊前に供えるためのものだろうか、贈答用の花が準備されている。
通りすがりに振り向きざま、写真を撮った。店舗上部の大きな看板に、この店が行っているサーヴィスが列記されている。
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MICHAEL PINTO FUNERAL DIRECTOR-SCULPTOR & EMBALMER
葬儀のディレクター、死体処理
霊柩車、救急車、バスの手配可能
航空便、車、鉄道による、人間の遺体、灰の移送
国際、国内サーヴィス(日中及び夜間)
冷却及び、葬儀用品の手配可能
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重みのある言葉が、あまりにも軽い感じで、看板に羅列されている。
その様子がどうにも気になって、店名をインターネットで検索してみた。2008年6月の新聞 (DNA: Daily News & Analysis)に、この店の記事があるのを見つけた。記事の内容を参考に、彼らのことを紹介してみたい。
150年以上に亘り、ムンバイで「死のセンター」を営んでいるピント家。現在のオーナーは三代目のダニー(50歳)。朗らかで穏やかな雰囲気の彼は、かつて海軍のエンジニアとして世界各国を旅していたという。
父の他界後、この仕事を引き継ぎ、現在は23歳の息子らとともに仕事を切り盛りしている「インドで一番の葬儀屋」だという。
「わたしたちは、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒……と、あらゆる宗教の信者たちに対応しています」
彼らの仕事は、人の死にまつわる一切を取り仕切ること。周知の通り、インドはさまざまな宗教の混在する国である。火葬、土葬と葬儀の方法や遺骨、遺体などの処置方法もそれぞれに異なる。
葬儀一つをとっても、インドにおいては一筋縄ではいかないことが察せられる。しかし彼らは、どのような人の死にも対応すべく、国内だけでなく海外までも、サーヴィスの輪を広げているという。
1991年にラジーヴ・ガンディ元首相が暗殺されたときも、ダニーは彼のもとに飛んだ。しかし彼の頭は榴散弾によって壊滅的に損傷しており、手の施しようがなかったという。
彼はまた、マザー・テレサが他界したときにも、その亡骸を葬る手配をしたという。
「わたしは、彼女の生前に、何度かお会いしたことがありました。彼女の遺体を整えているとき、わたしは部屋の中に、慈悲深い、精霊のようなものの存在を感じました。多分、彼女の魂だったのだと思います」
今までで最も厄介だった仕事の一つに、ギャングスターのサマド・カーンの死が挙げられるという。
「建物の外から少なくとも11回、銃撃されていました。遺体を整えるのに3時間もかかったんです。彼の母親には、この姿は見せられないと思いました」
かつて油田で大火災が起こったときも、ヘリコプターで駆けつけた。警察さえ遺体の収拾をしたがらなかった場所で、ダニーと従業員たちは、遺体収集を行い、安置所に届けたという。
彼は、自分の仕事は他のどんな仕事とも、さほど違わないと主張する。悲劇が起こった場所に飛び、遺体の世話をするだけであると。
365日24時間、休みなく営業を続ける。家族で旅行することなどはない。それでもダニーは悲観的な様子を見せない。彼らの仕事は、ムンバイの伝統の一部のようでもある。
「わたしたちは、顧客の方々と信頼関係を築いてきました。先祖代々の歴史を、僕たちは知っているのです」
この街では、あらゆる路傍に、生き死にが、物語が、溢れている。