長編レポートだが、最後までじっくりと、読んでいただければと思う。
NEW ARK MISSION OF INDIA。HOME OF HOPE。昨日訪れた、慈善団体である。
どことなく「悪ガキ」、いや「少年」の面影を残すこの男性。43歳のラジャが、この慈善団体の創設者だ。
わたしが地道ながらも慈善活動に関わりを持つようになって、3年がたつ。
OWCが支援する25の慈善団体の中に、この団体があったことは、もちろん知っていた。気にはなっていたものの、今まで訪れる勇気がなかった。
なぜなら、ブローシュアやウェブサイトで見られる彼の活動が、あまりにも、すさまじかったからだ。
昨年の後半、二度に亘って行ったチャリティ・ティーパーティの寄付金を託す先を検討していたところ、OWCの会報誌に、小さなコラムを見つけた。
2カ所の慈善団体が、寄付の依頼をしていた。その一つが、NEW ARK MISSION OF INDIAであった。そこには、寄付をして欲しい食品などのリストが明記されていた。
ついにはここへ、訪れるべきなのだろうと閃き、すぐに団体へ電話をしてアポイントメントを取り付け、賛同者の方々に連絡したのだった。
バンガロールにおける慈善団体訪問の、わたしにとってはちょうど10カ所目である。
訪問の前日。近所にオープンしたばかりのスーパーマーケットがオープニングセールを行っていたので、そこで寄付の品を買うことにした。友人二人が付き合ってくれ、とても助かった。
表示されている価格を電卓で計算しつつの買い物だったが、どうやらかなり割引されてたらしく、約15000ルピーを目安に計算していたのだが、実際は13000ルピー。
更に2000ルピー分を買い足せたのに加え、10000ルピー以上を購入したお客様へのプレゼント! で圧力鍋などもプレゼントしてもらい、なにやらラッキーである。
さて、訪問当日の昨日の朝。HOME OF HOPEはバンガロール市街北部郊外の、わかりにくい場所にあるらしいことから、アウターリングロードとへヌールロードの交差点で、他の参加者7名と待ち合わせる。
地図を頼りに待ち合わせ場所を決めたが、メトロの工事が進められているエリアで、激しい砂塵と交通量。ともあれ、路肩に車を停めて待つ。
さて、道に迷いつつも、なんとか目的地に到着。周辺はまだ開発が進んでいない、がらーんとした広大なエリアに、その施設はあった。
スタッフの人々に歓待されて、中へ入る。
このNEW ARK MISSION OF INDIAは、冒頭で紹介したラジャによって、1997年に始められた。路上生活をしている貧困層の中でも、健康に支障があり、身寄りがない人々を、「引き取って」、ここに収容している。
わたしが、なぜここを訪れる勇気がなかったかといえば、ブローシュアやサイトで見られる「瀕死の人々」の様子が、あまりにも、無惨だったからだ。
書くのも憚られるが、敢えて書くので、飲食中の方は、ご注意を。
たとえば、手足の先端が腐食し、ぼろぼろになっている人。頭部の傷口から何匹もの蛆がわいている人。糞尿まみれで、転がっている人……。
そんな人々を、ラジャは自ら抱きかかえ、自分たちの車に乗せて、この施設まで運び込むのである。さらには、ラジャ自身が、傷の手当をしている様子の写真や映像もある。
その様子がまた強烈で、とても直視できない。
人は、こんな悲惨な状態になっていてもなお、生きていられるのか……と、その生命力の壮絶さに、言葉を失うほどなのだ。
もっとも、そのような資料には「極端なシーン」だけが集められており、もちろん施設を訪れてもその状況が展開されている……というわけではないことは、理解している。しているがしかし、気構えてしまう心を抑えられずにいた。
現在は350名がここで寝食を共にしているという。
そして一年のうちに、約100人がここから天に召されるという。
きちんと、人間として、丁寧にみとられ、丁寧に火葬される。
元気な人は社会復帰をするとのことだが、しかし収容されている人の7割が精神病疾患者であり、手足を失った身体障害者が多いことから、その数は少ないと察せられる。
まずはオフィス内で、ラジャにインタビュー。わたしは彼がなぜ、このような活動をするようになったのかに関心があった。
彼は、彼自身こそが、かつては路上生活者であったという。
貧困層に生まれ、子どものころから、親に見捨てられ、愛情を受けることなく育った彼。子どものころから、盗みを働くなどは日常だった。
あるとき家を飛び出し、2年間、ホームレスとして暮らす。その間は、盗み、ギャンブル、そして飲酒が日常で、荒廃した日々だったという。
挙げ句の果て、刑務所に入れられる。狭い牢獄に、7、8人が閉じ込められての、劣悪な環境。そんな中、彼は、原因不明の高熱に襲われる。
10日ほども熱が続いたが、薬を与えられることもなく、意識は朦朧としていた。彼曰く、
「そのときに、僕に一度目の奇跡が起こったんです」
高熱にうなされながら、彼は強く強く、神に祈ったのだという。
神様、ぼくはもう、悪いことはしない。絶対に、更生する、だから、ぼくを殺さないでください……と。
「心の底から神に祈ったんです。そうしたら、2時間後に、熱が下がったんです」
「2度目の奇跡がまもなく、起こりました。クリスマスの前に、どうにか釈放してくださいと強く願ったら、クリスマスの日に釈放されたんです」
こうして、彼の新しい人生が始まった。
彼はオートリクショーのドライヴァーとして、新しい人生を踏み出した。結婚をし、子どもにも恵まれた。しかし彼は、心の中で「自分よりもより、苦境に立たされている人々の役に立たねば」との思いが、強くあったという。
オートで町中を走れば、瀕死の人たちの姿を随所で見かける。彼らをなんとかしたい。なんとかできないものか。
「また、神様に祈ったんです。ぼくは苦しんでいる人を助けたいと。そうしたら、2年後、それが実現できることを思いついたんです。瀕死の人たちを、オートに積んで、自分の家に連れて帰ったんです」
一間しかない自宅の、その軒先の狭いスペースに、4人の路上生活者を連れ帰り、食事を与え、面倒を見る日々が始まった。
「この年に、僕がこの活動を始められたことも、運命だと思っています。1997年は、マザーテレサが亡くなった年なのです」
「妻は最初、怒っていました。ぼくは仕事にいかねばならないので、結局彼らの面倒は、彼女が見なければならないんですから」
しかしそのうち、妻も夫の思いを理解し、前向きに手伝ってくれるようになった。
現在は、あらゆる人々の寄付によって、この施設は運営されている。なお、政府からの支援は1銭たりとも、いや1ルピーたりとも、ないという。
「ぼくは、人にお金の寄付を頼むのが、いやになってきました。なので今はこう祈るんです。運営資金がきちんと入ってきますように。そして入って来た資金の中で、なんとかやりくりできますように……と」
この言葉は、先だって数回に亘って訪れた、BANGALORE EDUCATION TRUSTのナガラジ氏も口にしていた。人にお金の寄付を乞うのが辛いと。
その心情は、想像するに余りある。自分らは私欲をばっさりと捨てて、社会のために尽くしている一方で、他者へお金を乞うこということに。
オフィスにて、彼の活動をまとめたDVDを見せてもらった。彼が「通報」を受けて、街へ人々を迎えにゆく様子などや、瀕死の人々を治療する様子などが、映し出されている。
中には正視できないシーンもあって、短いフィルムながらも、疲労困憊となる。
映像の中では、ぼろぼろだった人が、看護を受けて生まれ変わったようになる様子を、"BEFORE" "AFTER"という前後の映像で、対比している。
まるでダイエットや整形の広告のようでなにげに笑えるが、いや笑えない。
だからといって、泣けてくるような、というわけでもなく、ただただ、人間の命のありようのすさまじさ、を叩き付けられる感じである。
なにしろ、「拾われた瞬間」は、路上に寝転がり、髪の毛はぼさぼさで、服はぼろぼろで、耳の後ろの部分が大きくただれて、蛆がたいそうわいている状況の女性が、ラジャによって応急処置をほどこされたあと、
「24時間後」のキャプションとともに、笑顔で直立しているのだから、驚愕する。なんて、立ち直りが早い!
もちろん、一方では治療の甲斐なく死んで行く人々も大勢いる現実。しかし遺体は丁寧に白い布でぐるぐるまきにされ、火葬されている。
そうして、きちんと葬られている、ということだけでも、ありがたいことなのだ、ということに思いを馳せる。
何人もの"BEFORE" "AFTER"の映像を見ながら、思うのだ。
その逆もまた、ありき。
人は、今、どんなに健全であっても、いつどんなことがきっかけで、ぼろぼろに転じるかわからぬ。その可能性を、わたしたちは誰もが、常に抱えているのだ。
路上生活者の中には「記憶喪失になった女性」も少なくないらしい。旅行、あるいは出稼ぎなどでバンガロールを訪れ、なにかのはずみで記憶を失い、路上生活者になってしまう。
ある女性は、保護されてしばらくして、自分の記憶を取り戻し、タミルナドゥの出身で、自分の家の電話番号も思い出して、夫が迎えに来てくれたという。
彼女は「きちんとした家庭の夫人」であったという。
映像を見た後、ラジャにいくつか質問をした。たとえば彼は、メディカルの訓練を受けたのか、といったことなど。
驚くことに、彼は医学の心得など、なにもないという。
ただ、見よう見まねなのか、自分で治療しているのだ。もちろん、ここには24時間でナースが1名、待機しており、週に一度、ドクターと精神科医が往診に来てくれるという。
ある程度の応急処置については、ドクターから教わることはあるのだろうにせよ、自ら処置にあたるその果敢さにも脱帽だ。
もっとも、重症患者については、ここから救急病院に転送するらしい。その資金は、もちろんこの団体が出すわけで、ドクターが無償で診てくれるわけではない。
救急車代わりにつかっている車が現在4台あるというが、いずれも寄付されたもの。これでは足りないのだという。
なお、矛盾した話に思えるが、警察が彼らに電話をして、瀕死の人々の保護を依頼するのだという。それだけ、頼られている、あるいは他に彼らを引き取るすべがない、ということであろうか。
「死を目の前にした人たちには、食べたい物を、食べさせたいんです。彼らのほとんどがノンヴェジですから、肉も食べますよ。ある人は、最後にマトンビリヤニが食べたいというし、そう、果物を食べたがる人も多いです。ブドウとか、リンゴとか……。あと、最後にペプシを飲んでみたい、という人もいますよ」
最後の、晩餐。
もう本当に、ぐっとくる。
いろいろな思いが、巡り巡って、なんだかもう、気持ちがいっぱいいっぱいである。
「僕は、戦場に飛び込んだ兵士のようなものなんです。もう、一生、後戻りはできません。ぼくはここで生涯をすごします。ただ、ここで闘い続けるには、周囲の人々の祈りや助けが必要なんです」
さて、ひとしきりラジャの話を聞いた後、施設内を巡る。このオフィスがある施設は女性専用。すぐ近くに子供用のビルディングがあり、少し離れた場所に、昨年オープンしたばかりの男性専用の建物があるという。
左の写真は、わたしたちからの寄付の品。昨日購入したもの以外にも、他の方からの不用品などが集められた。右の写真は、時折ここを訪れているという韓国人男性、ソンさん。教会の関係者だという。
わたしたちを見るなり、満面の笑顔。わたしたちが日本人と知るや、いっそう顔をほころばせながら、
「おお! お隣さんではありませんか! ようこそいらっしゃいました」
と歓迎してくれる。彼はラジャの活動を心から敬意を持って見守っているようで、彼自身もヴォランティアで訪れているようだ。
周囲を見回せば、うつろな目をした女性たちが大半で、心塞ぐ思いであるが、ソンさんの笑顔がしみた。
当然ながら、ラジャの了解をとり、施設内の写真を撮影する。うつろな目をした女性たちにカメラを向けるのは憚られたが、目がしっかりしている、つまり正気の人たちには、目とゼスチャーで、撮影してもよいかと尋ねる。
写真を撮られるのが好きな人が多い国である。
何人かの女性たちが近寄って来る。
笑顔を見せてくれる女性には、ほっとする。
右の写真の、体格がよく、いかにも元気そうに見える彼女はしかし、HIVポジティヴなのだという。
彼女は自分から言葉を発し、ラジャや他の人とも「言葉」でコミュニケーションを図っている。
しかし、そのような人の方が、ここは少ない。
大半は「恍惚の人」である。
むしろその方が楽なのか、イスがあっても、地べたに寝転がる人たちが多い。
楽、というよりはもう、久しくの習慣になっているのかもしれない。
左の写真の、ピンク色の服を着た女性もまた、HIVポジティヴだという。
彼女の表情は一切動かず、目もうつろだ。
とはいえ、最早、喧噪の路上に放置されているわけではない。
最低限の衣食住が保証されている場所で、神のご加護と人々の救いを得て、ここにいられる。
「まだいいほう」なのだろうか。
まだいいほう、などという言葉を、わたしが軽々しく書き記す立場ではないのではあるが。
ここは女性たちが眠る場所。たとえボロボロでも、マットレスがある。ベッドの上で寝られる。室内は、清潔に整えられている。
この、木でできたオブジェのようなものは、ラジャの演台だという。ここで礼拝のようなことを行うのだという。
GOD LOVES YOU.
神は、あなたを愛している。
……さ、あらば、なぜ?
この女性は、わたしたちがオフィスでDVDを見ている間、運び込まれて来たようだ。妊娠6カ月の彼女。路上で暮らしていたらしい。
目立った外傷はないが、手足の皮膚が著しく荒れている。蚊に刺されたあとなどが、無数に残っている。
ドアのあたりでたたずんでいた女性。わたしに向かって、微笑みかけてくれた。それだけでもう、ほっとする。
これらは施設内の車。現在、ラジャは大きな車を必要としている。彼から「欲しいものリスト」を聞いたので、それをここに記しておきたい。
日々の食料品や衣類、現金での寄付はもちろん望まれているが、それ以外に欲しいものとして……
・十数名が乗れる小型バスのような車。
・貨物用のコンテナ2つほど(改造して家にする)
・大画面のテレビ(あるいはプロジェクター)
・350名にスピーチが行き届くスピーカー(アンプ)
このごろのバンガロールは早くも夏の匂いがするが、このあたりは日射を遮る木々もなく、日差しはより鋭い。青空がまばゆい。
この気候のおかげで、たとえ路上で暮らしていても、命を落とさずにすんだ人が多いのではないか……とさえ、思わされる。
さて、次は、すぐそばにある子ども向けのビルディングへ。赤ちゃんから16歳までの、35名の子どもがここで暮らしているという。
大半の子どもは学校に行っているが、小さな子供たちが何名か、残っていた。ちなみにカルナタカ州の公立(州政府運営)の学校は、以前も記した通り、非常に環境が悪いとのことで、私立に通わせているという。
「子供たちは、教育費がかかるからたいへんです。大人は食べ物を食べさせておけばいいですが、子どもは学校にいかせなければなりませんからね。たとえば一人のこどもに1カ月1000ルピー、いや500ルピーを支援してもらえるだけでも、本当に、助けになるんですよ」
と、ラジャ。
うつろな女性たちの目をばかり見て来たあとだということもあり、子供たちの鋭くも元気な視線と笑顔がうれしい。
古いサリーが天井から吊るされている。中をのぞくと赤ちゃんが。ゆりかご代わりである。そういえば、ムンバイのバス停で、やはりホームレスの女性がこうやって、古いサリーに赤ちゃんを吊るしていたのを思い出す。
あるいは先ほどの女性のように、妊娠中の女性が収容され、ここで出産したその子供たちだという。
ここにいる子供たちにHIVポジティヴはいないとのことだが、精神障害を抱えている様子の子どもも何人か見られた。
彼らが着用しているのは、すべて外部からの寄付の品々。ちなみにラジャ自身も、古着を着ているのだという。一見きちんとして見えるが、この少女の着ている服のように、ジッパーが壊れているものもある。
せめて上のフックだけでも、付け替えてあげたい衝動にかられる。
わたしを、バッグを、カメラを、べたべたと触って、人見知りもせず、笑顔で。
衛生面を考慮してなのだろうか、男女ともにベリーショートだ。
洋服で判断せねば、男の子なのか女の子なのか、よくわからない。
しばし子供たちと過ごして、気持ちを紛らわせたあと、再びオフィスのあるビルディングへ戻る。
現在改装中のキッチンなどを見せてもらう。
なにしろ350人もの大所帯だ。
食堂並みの設備が必要であろう。
主食のチャパティに使うATTA(無精製の全粒小麦粉)だけでも、1カ月に3トン必要だという。
1日当たり100キロ。
わたしたちが、「大量に買い込んだ」気がした大袋のチャパティは、わずか1〜2食分程度だったか。
間断なき支援が望まれることは、想像に難くない。
さて、ラジャやスタッフたちと別れ挨拶を交わす。
「この次は、男性たちも連れて来てください」と言われる。
※バンガロール在住の日本人男性の方々、近々ご一緒しませんか?
さて、帰路、男性専用の施設に立ち寄った。
まだでき上がって1年たらずというだけあり、全体にきれいだ。
屋外のスペースも広く、日よけもほどこされ、風が通り、心地のよい環境ではある。
しかしこちらの男性たちもまた、精神を病んでいる人が多いようで、みな、黙り込んでいる。
たとえば町中で、貧しくても元気で、仲間同士でのおしゃべりに興じている笑顔の人々を見慣れているだけに、この無口な静けさが異様な光景に思える。
男性は女性よりも身体障害者が多いらしい。何人かは一隅に備えられたテレビを見ている。
テレビを見ている人の中でも、「気が確かそうな人とそうでなさそうな人」が混在している。しかし互いにおしゃべりをする様子はない。
こちらに目を合わせて、互いに合掌をして挨拶ができる人もいる。そういう人は、かすかに表情を動かしてくれる。
青いイスに座った足の悪いお兄さん、そしてわたしの隣にいるお兄さんは、笑顔を見せてくれた。
老人介護施設に久しく預けられていた今は亡き祖母を、見舞ったときのことを思い出した。
わたしを誰ともわからず、自分をだれともわからず、ただ、プラスチックのコップを、テーブルに打ち付け、表情がなく、目は物体のように、そこにあるだけで、風景を反射するばかりのように見えて。
笑顔というものが、人が人として、いや、人らしくあるために、どれほどに、大切な物なのであろうかということを、今日、心の底から、痛感した。
左上の写真は、身体が健常な、つまり自分でベッドメーキングができる人たちの部屋。右上の部屋は、身体障害者の部屋。マットレスはビニール加工がされている。
写真ではきれいに見えるが、右の部屋は、糞尿の匂いが漂っている。掃除をしても、匂いがしみつくのであろう。
敷地内は、現在も造園が進められている。ブドウ畑が作られて、バナナの木も植えられている。
鳥やウサギなど、動物たちも飼育されている。精神科医からのアドヴァイスだという。心を病んだ人たちにとって、動物たちの存在は大切なのだ。
いや、心を病んでいない人たちにとっても、動物たちは。
アヒルのまばゆい白さが、目にしみる。
まだまだ、書き残しておきたいことはたくさんあるのだが、今日はこのへんにしておく。今まで、いろいろな慈善団体を訪問してきたが、やはりこの団体が最も「死」に近い場所だった。
思うところを総括できるほど、今は考えがまとまっていないが、それにしても、インド。
日常に、生死が見えている。
それを、看過することもできるし、直視することもできる。それを、どう自分のライフに反映させるかは、個々人の思うところ次第だ。
わたしは、自分がなにをどうしたいのか。お金を、行動力を、気持ちを、どのように使うべきなのか。
改めて、考えさせられている。
わたしは特段、慈悲の心に富んでいるわけでも、ヴォランティア精神が強いわけでもない。一カ所に奉仕を続けるつもりもないし、私利私欲が浅いわけでもない。
だからといって、居直って、身近な悲劇を看過することもできない。人はそれぞれに、それぞれができる形で、やるべきと思ったことを、やっていけばよいと思う。
だから、誰かに何かの行動を強要したり、無理に勧めたりするつもりはない。
ただし、関心はあるけれど、ひとりでは踏み出せない、踏み出すきっかけがない、という方には、お手伝いをしたいと思っている。共に、現状を、見に行きましょう、この目で確かめてみましょう、と、思う。
といっても、背中をドンと押すのではなく、人差し指でそっと、触れる程度の後押しではあるけれど。
バンガロールに住んでいる方々。
今回の慈善団体に限らず、これまでわたしが訪れた場所も含め、自分自身の目で確かめたいという方がいらっしゃれば、どうぞこの、ささやかな活動に参加なさってください。
あくまでも、自分の心と身体と時間に余裕があるときで、いいと思います。
「だれかのため」を超えたところの「じぶんのため」にもなるような、出会いがあると思います。
チャリティ・ティーパーティや団体訪問に参加できずとも、寄付金や寄付の品をお預けくだされば、必ずお届けします。
活動に賛同いただける方には、随時メールにてご連絡をしますので、その旨、こちらまで、お知らせください。
また下記のブログには活動の記録を残しているので、そこをご覧いただければとも思います。
■MSS: Muse Social Service インド発 地域社会とのコミュニケーション
みなさんそれぞれに、思うところはおありだったろうと思う。
ともあれ、帰路にはみなで近場の韓国料理屋に立ち寄り、もりもりとランチを食べたのだった。
元気に食事ができることのありがたさを、噛み締めるように。
みなさま、お疲れさまでした!
ちなみに韓国料理店については、「キレイなブログ」に記しているので、どうぞご覧くださいまし。
インド発、元気なキレイを目指す日々(第二の坂田ブログ)(←Click)