7月2日(月)。この日は、亡父の誕生日である。
この日、かような場所にいられることを、そこはかとなく、有り難く思う。
朝、ナイチンゲールのさえずりで目を覚ました。この時期のカシミールは、日照時間が長く、早いうちから朝日が昇っていたようだ。
それにしても、なんと気持ちのよい朝であることか、この旅が始まって以来、初めて熟睡できた。
1930年創業の老舗ホテルである、このパハルガム・ホテル。決してラグジュリアスとはいえない、シンプルな設備の宿ではあるが、ベッドの寝心地がよかったのはうれしかった。
朝食の前に、庭を散歩。なんという気持ちのよいひとときであろう。庭でしばし過ごした後、まだ静かな町(といっても目抜き通りが一本あるだけ)を歩く。
インド各地の兵士らが、3年、4年の任期のもと、この地に配備される。その間は故郷へ戻ることもできず、春夏秋冬、朝から晩まで、この地の警護にあたる。
10月から3月に亘る長い冬。雪に覆われたころには、その辛さはいっそうのことであろう。いかにも過酷な仕事である。
兵士らは一般に、市民からは歓迎されておらず、その点においてもまた、彼らの精神状態は決して健全であろうとは思えない。
この国の軍事費が莫大である、ということの断片を、ここに来て、肌に感じることができた。
1947年以来、60年以上も、延々と続いて来た緊張状態……。
朝早くても、開いている店が、ちらほらあった。左上は、乳製品店の店頭で見かけたチーズの塊。そして右上は、八百屋の店先。巨大すぎるズッキーニに目が釘付け。これ1本で、何人前の料理ができるであろう。
路上には、パシュミナなどを売るお兄さん達が、店を出す準備をしていた。
さて、ホテルに戻り、庭でカシミリ・カワティーを飲みながら、再びのんびりと、過ごす。ここのカワティはジンジャーが利いている。
さて、今日は出発が午前11時。それまでは自由時間となったので、朝食のあとは部屋に戻り、ラップトップを広げて写真の整理をしたり、ノートに日記を綴ったりする。
カワティーがいくらおいしいとはいえ、コーヒー好きな我。どこを旅するにも、お気に入りのサウスインディアン・コーヒーを持参している。
小ぶりのフレンチプレスも持参していたのだが……。これは今回、帰路で損傷してしまった(涙)
ともあれ、胸が空くような光景を目にして、デスクに向かうことの、なんという幸せ。最高の書斎だな、と思う。
わたしは昔から、旅先で、こうして心を落ち着ける場所 <机> の前に身を置くことを、大切に感じている。
だから、どんな宿でも、広めの机があるのが、うれしい。勉強は、好きではなかったが、子どものころから、「机」という存在感は、好きだった。
小学校にあがるとき、うすピンク色の「くろがねの学習机」を買ってもらった日から、品を変え、形を変え、机はいつも、わたしのそばにあった。
今、検索したら、懐かしい机の写真が! まさにドリフターズがコマーシャルをしていた1972年に、このタイプの机を買ってもらったのだった。
あいにく、この宿では、机ではなく「テーブル」だったのだが、カーペットに座って窓の外を見渡せたので、十分である。
この朝の1時間余りの「ひとりのひととき」は、本当に気分がよかった。
11時。デヴィカとラムニーク、そしてキランの4人で車に乗り込み、ホテルから十数分の場所にある掘建て小屋、改め「作業場」へ。
ラムニークの一族が所有する土地の一つであり、その一隅に立てられた小屋で作業が進められている。
実は、このパハルガムにおいては、建設建築の規制が著しく厳しいらしい。たとえばホテルの窓ガラス1枚を取り替えるにしても、州政府、軍などからの許可が必要だとのこと。
新しく何かを始めるにも障壁が大きく、本来、ラムニークはこのあたりに旅行者向けのカフェを作りたいらしいが、手続きに時間がかかりそうだとのことである。
上の写真が、その作業場。右上の写真、左がラムニーク、右がデヴィカだ。
実に簡素な建物であるが、しかし、天窓から光が差し込み、長閑な空気に包まれている。ここで、このプロジェクトの背景を、簡単に説明しておきたい。
デヴィカが初めてカシミールの地を踏んだのは、2009年。スリナガールで友人のレヌカと再会。そのときは、個人的な旅行での訪問だった。
その次に訪れたのは、2011年5月。今から1年と少し前のことだ。
スリナガールに滞在中、レヌカとその友人、ラムニークとともに町を歩いていた時のこと。ある女性が被っている帽子に目が留った。
下の写真がそれである。
頭のでかいわたしには、きちんと被りきれないこのユニークな形状の帽子。その帽子に施されている刺繍に関心を持ったデヴィカ。
あの女性たちはどこから来たのか、と問うデヴィカに、パハルガムから遊びに来ていたラムニークが答えた。
「彼女たちは、パハルガムに暮らすシェパード(羊飼い)の部族よ」
そのとき、デヴィカは、ラムニークから羊飼いの女性たちのバックグラウンドを聞くことになる。
標高2000メートル超え。Lidder Riverが流れる峡谷を、羊の食む草を求めて、季節ごとに2カ所、3カ所と移動しながら暮らす遊牧の民。
彼らには、バカルワル (Bakarwal)、グジャー(Gujjar)という二つの部族がある。
女性たちは、上記のような、シッポのついた刺繍の鮮やかな帽子を被り、シルヴァーやビーズのジュエリーを身に着けている。
彼らの起源について、明確な資料はないとのことだが、デヴィカ曰く、遠く歴史を遡れば、ギリシャではないかとの説もあるらしい。
地元では彼らのことを「ジプシー」とも呼んでいることから、西から流れて来た人たちには違いないようである。
羊飼いの部族は、国からも州政府からも「疎外された」、小人数のコミュニティであり、医療や教育などの設備がまったくなく、まさに原始的な暮らしをしている。
羊飼いの女性たちの過酷な生活環境を知ったデヴィカは、彼らの伝統工芸を支援することで、なんらかの活性化ができないかと考えた。
その年、つまり去年の10月、ラムニークとともに、羊飼いの女性たちを手工芸を通して支援するプロジェクトを立ち上げ、活動を始めたという。
厳冬の時期は活動を停止していたので、実質半年ほどであるが、羊飼いの女性たちは30名ほどが集まり、デヴィカやラムニークの指導のもと、商品を作り始めている。
現在は、まだ立ち上げたばかりで試行錯誤の段階。それでも、二人は周囲の人々のアドヴァイスを仰ぎつつ、幾度となく話し合いながら、少しずつ活動を進めている。
そもそもデヴィカは、彼らの伝統刺繍を守ることを念頭においていた。しかし、若い人たちは村を離れ、他に生きる活路を見出す。
伝統刺繍をほどこせる人は、数名しかおらず、最も技術がある女性はすでに老齢で視力を失っていた。そんな状況のもと、すでにある帽子などを参考に、伝統を蘇らせる活動を始めたわけである。
彼女らの健康状態は劣悪で、栄養が不足。出産時に落命する女性もあるとのことで、とても現代の世界に生きているとは思えない環境にあるとのこと。
パハルガム(ペヘルガム)で生まれ育った彼女は、バンガロールの医科大学に進み、理学療法を専攻していた。
彼女は卒業後、英国へ渡る予定が、紆余曲折。
かつてはパハルガムにウェルネスセンターを作ることを考えていた。
しかし、カシミールの地は、新しい物事を始めるのに、あまりにも障壁が多く、高い。
ましてや、女性とあっては。
それ以外の、彼女のバックグラウンドの詳細はよく聞いてはいないが、彼女は今までの人生で二度、地位の在る人から、こう言われたという。
「あなたは将来、自分の故郷で、虐げられた女性たちを救うことになるでしょう」と。
そのころは、故郷を離れ、海外に出ることしか頭になかった彼女が、なんの因果であろうか、その言葉通りのことを行うことになったという。
17歳〜70歳までと、幅広い世代の羊飼いの女性らが集うこの場所。週に4、5回、ここを訪れ、自分のあいた時間に作業を進めるという。
ビーズ班、刺繍班とチームにわかれ、個々人の技量に応じた作業を行ってもらう。初心者には、デヴィカが数カ月に一度、ここを訪れて指導を施す。
デヴィカがラップトップを持参し、商品作りのサンプルなどを説明する。彼女たちは、真剣な目でモニターに見入っている。
そして、デヴィカの説明を、熱心に聞いている。
何百年も変わらぬライフスタイルを送っている彼女たちの目に、このモニターの向こうに広がる世界は、いったいどのように映っているのだろう。
黙々と作業を始める女性たち。ホテルのショップに売られていた初期の作品に比べると、クオリティが格段に上がっているのがひとめでわかる。
布や刺繍糸などの素材は、スリナガールの町から調達したり、あるいはデヴィカがバンガロールの卸売り店が集まる界隈で仕入れ、運び込むという。
彼女たちの作業を、しばらくの間、眺める。子どもを連れて来る母親たちもいるが、子どもたちは、非常に穏やか。
場所をわきまえず、奇声を上げながら騒ぎ走り回る、きちんとしつけを受けていない子どもたちに遭遇することの多いインド生活において、なんともほっとする光景だ。
いつも書いていることだが、慈善団体などを訪れると、子どもたちの行儀のよさに驚かされる。
一方、高級レストランやホテルなどで野放しにされた、富裕層の子どもらにしばしば見られるところの奔放ぶりと、親の放任ぶりとの対照は実に顕著だ。
子どもたちは最初、初めて見るのであろう、「平たい顔をした人間」を、怯えるような目で凝視していたが、そのうち徐々に距離がせばまり、一緒に遊べるようになった。
iPhoneをセルフポートレイトに設定して画面を見せると、そこに映る自分たちの顔に興味津々。
空き箱を自動車に見たて、床に滑らせながら遊ぶ彼ら。
玩具など、あるわけもなく。
そんな彼らに対し、いきなりこういう「現代的なもの」を見せることにさえ、ためらいがあった。
なので、写真遊びはそこそこに、そのへんに落ちていた新聞紙で、またしてもカブトを折り、飛行機を作って一緒に飛ばしたりして遊ぶ。
ちょっとした新しいことに遭遇するだけで、キャッキャと声をあげて、うれしそうに遊ぶ子どもたち。
この子らには、通うべき学校がない。
その前に、作業場から徒歩数分の山中にあるチーズ工房を訪れた。ここでは、オランダ人男性の指導のもと、伝統的なゴーダチーズが作れているのだ。
しかも材料は、ヒマラヤの自然の中で育まれたオーガニックミルク。
わたしは以前、新聞の記事かなにかで、このチーズ工房の話を読んだことがあったが、まさか自分が訪れることになろうとは思わなかった。
ここではプレーンのゴーダ以外に、クミンやチリ、胡椒、フェヌグリーク、ウォルナッツなどが入ったチーズも売られている。
ランチ用、そして自分のお土産用にと購入し、羊飼いの女性たちの休息所として設けられた小屋でランチをとることに。
緑の丘にある小屋。ラムニークが、ホテルのダイニングで作ってもらったサンドイッチなどを広げてくれる。スリナガールからの道中に購入したサクランボがまた美味。
特に気に入ったのはフェヌグリーク入り。フェヌグリークの苦みがほんのりときいて、ほのかな甘みを引き立てるのだ。
(実はゆうべ、バンガロールの自宅にゲストを招いたときに、プレーンのゴーダをお出ししたのだが、たいへん好評だった。)
これは注文すれば、バンガロールまで配送してくれるとのこと。きちんと届けられるかどうか、若干、不安ではあるが、一度試してみたいと思っている。
■HIMALAYAN CHEESE (←Click!)
そうそう。写真にはないのだが、チーズもさることながら、食後にラムニークが出してくれたチョコレートマフィンが、非常に美味であった。
パハルガム・ホテルに併設しているカフェ、Cafe Log Innで売られているチョコレートマフィン。これはお土産に買って帰りたいくらいであった。もっとも翌日は早朝出発だったので、買い損ねたのだが。
ところでこの植物。スリナガール郊外の村でも、路傍で目にした。お気づきの方は、お気づきであろう。
そう。大麻、マリファナとなる植物である。このあたりには、山ほど自生しているのだ。それと同時に、ポピー(ケシ)の実からなるアヘンも、ここでは生産されている。
ガンジャ(大麻)、オピウム(アヘン)もまた、カシミールを語る上でのキーワードのひとつであるのだが、その件については、ここでは触れない。
その後、車を更に山間へと走らせて、パインツリー(松)の樹々が生い茂る村へ。ここには、屋根に草や土を被せて「防寒対策」を施した、平たい家屋が点在する。
コタ (Kotha)と呼ばれるらしきこの家。夏の今は、別の場所に移動している家族もあるらしく、入り口に鍵がかかっているものも数軒みられた。
ここで出会った子どもたちもまた、愛らしい。特に女の子たちの美しさが印象的だった。
【この旅の経験を、これからの自分にどう反映させるべきだろう】
こうして、羊飼いの村への訪問を終えたわたしたちは、再び、河畔のホテルを目指す。
1週間の短くも濃密な旅が、まもなく終わろうとしていた。わたしはといえば、この旅の経験のすべてを、まったく消化できておらず、どこか夢現な心持ちである。
旅から戻って1週間が過ぎた後も、まだ、こうして経験の一部を文字にしながら、まとまらない思いと、載せたい写真、残しておきたい記録の多さに、途方に暮れる。
夕暮れどき、ホテルを出て、買い物へ。欲しいのは、カシミール・カワティを入れる銅製のポット。いくつかの店を巡り、あれこれと比較した結果、実用製のあるものを選んだ。
ちなみに右上の写真は、わたしが買ったものではなく、飾り用。アンティークの商品で、中は炭だらけでぼろぼろだった。見た目はよかったのだが。
左上の写真は、食堂の店先。この大鍋の中身は、ケサール・ミルク。牛乳がぐつぐつと煮込まれていて(牛乳の栄養が飛びそうではある)、その上にアーモンドとサフランが浮かべられている。
買い物を終え、ホテルに戻り、デヴィカとキラン、そしてわたしの3人で、この旅最後の、夕食。
食事のときには、主にはデヴィカとキランが語り合い、普段は饒舌なわたしは、今回は聞き役が多い。自分の意見は挟むものの、ここでは案内をしてくれる人の話を聞くことがまずは大切だと感じたからだ。
それと同時に、自分の考えがまとまらず、聞いた話を消化することで精一杯だったともいえる。
現状を、見た。
見た上で、何を感じたか。
感じた上で、彼らはこれから、どう進むべきなのか。
それに対して、自分はいかなる協力をすることができるのか。
見た以上、出会った以上、楽しかった、ありがとう、さようなら。では終わらせられないし、終わらせたくない。
最近始めたところの「ミューズ・クリエイション」の活動に、このプロジェクトとの関わり合いを持たせることも、できると思う。
彼らの作品を、バザールなどで販売代行するだけでも、それはサポートだし、関わり合い、だ。
出会いが多い。学ぶことも多い。それらを、ひとつひとつを、大切に見つめ、取りこぼさないように、記憶に、記録に刻み込むことも大切。
そして、時機を見て、アクションを起こす。
まもなく満月となる、まばゆい月明かりを眺めつつ、この旅を噛み締めつつ。
最後の夜。
川の流れを間近に聞きながら、それはまるで、自分の情念が、脳裡で轟々と渦巻くが如き相まって、しかしやがては、深い眠りについたのだった。